2013年12月15日日曜日

礼拝メッセージ2013年12月15日

説教題   「小さき者に目を注ぐ神」

聖 書   ルカによる福音書 12638

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序論)会堂の壁にエル・グレコの「受胎告知」の絵が掛けられています。この絵の主題は今朝の聖書「ルカによる福音書1:26-38」の物語です。マリヤは天使の声を聞きます。「恐れるな、マリヤよ、あなたは神から恵みをいただいているのです。見よ、あなたは身ごもって男の子を産むでしょう。(ルカ1:31,32

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本論) ルターはこの時マリヤは16,17歳であったかもしれないと言います。少女の動揺は「どうしてそんなことがあり得ましょうか」の一言から伝わってきます。人は弱さの中で思案します。自分の常識を越えられず、「そんなことはない」と「我」を張ります。しかし、「我}を張った結果は、後悔と落ち込みにやり場のない自分を見出すことがしばしばです。神の恵みの事実が起こっているのに、信じ受け入れられず悩みます。神様は各自に思いがけない事實を経験させて、神が共に「居てくださる」ことを経験させてくださいます。マリヤも神様に揺さぶられながら神に従う者に変えられていきます。

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結論) わたしは主のはしためです。お言葉どおりこの身になりますように」。この服従がクリスマスの出来事の始まりでした。わたしの人生を神様が導き、整え、仕上げてくださることを信じて、どんな時も主を見上げることを努めましょう。私たちが神に近づく以上に、神様が人となって私たちに近づいてくださる、この驚くべき恵みによって人は生きることに感動するのです。一人の少女の神に対する忠実な信仰が、御子イエス・キリストのご降誕を実現しました。神の恵みは万民に与えられた福音(良き知らせ)です。わたしたちはその証人です。

2013年12月8日日曜日

礼拝メッセージ2013年12月8日

説教題   「望みがある」

聖 書   ルカによる福音書 第19110

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序論)クリスマスの象徴は「光」です。歓喜の天使の歌声です。「秘密保護法」の強行採決、成立。どんな未来が待っているのでしょうか。神は「侮るなかれ」と私たちを戒めます。生ける神はご自身のなさりたいことを実行されると信じて祈りましょう。神よ、私たち一人ひとりをあなたのご用のために用いてください。この祈りの中から希望が与えられます。

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本論)
 神はどんな者をも造り変え整えて、ご自身の業のために用いられます。ザアカイとイエス様の出会いの中で、主はご自分の使命を語られます。「人の子が来たのは、失われたものを尋ねだして救うためである」(ルカ19:10)「きょう救いがこの家に来た」(同9)彼は取税人と呼ばれるユダヤ人でした。ローマ帝国の支配下で税金の徴収を請け負い、私腹をこやしていたので、人々から嫌悪され、暗い生活の中で孤独でした。イエス様はこの取税人の頭ザアカイを一人の人間として扱い、自分の人生をやり直して生きよと、赦しと愛の中に引き入れてくださいました。これはまさに、私たち一人ひとりの信仰の経験ではないでしょうか。ザアカイの中に自分を発見します。


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結論) キリスト者は、神様の恵みによって今の自分にされたことを感謝し、教会の兄弟姉妹との交わりの中に加えられている有難さを味わっています。神様はどのような過去をもっている者にも、イエス様を信じ従うことで新しい人生を与えてくださいます。そしてどんな中に置かれても、一隅を照らす灯火として、周りを励ます神の器にしてくださいます。イエス様から来る希望が、人々に優しく接する愛の行動をさせます。ザアカイもそのような生き方で主の道を完走したことでしょう。

2013年12月2日月曜日

礼拝メッセージ2013年12月1日

説教題   「真の光に照らされて」

聖 書   ヨハネによる福音書 第1913

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序論)礼拝堂の中にキャンドルが一本灯っています。教会歴では今日からアドベントに入りました。アドベントは待降節と言われ、イエス様のご降誕を待ち望む期間です。救い主イエス様にお会いできる者に整えてくださいと祈る時でもあります。クリスマスは暗き夜にベツレヘムの馬小屋にお生まれくださったイエス・キリスト様をお祝いする時です。

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本論) 主は暗きに輝く光として貧しい姿で私たちに近づいてくださいました。「全ての人を照らすまことの光」としてこの世に生まれてくださいました。その夜、ベツレヘムの馬小屋を最初に訪れたのは、野宿しながら羊の群れの番をしていた羊飼いたちでした。彼らは卑しい者と蔑視されていた者たちでした。神様はこれらの者に福音(良い知らせ)を伝えてくださいました。

 まことの光は第一に、今ある自分を素直に認め直す勇気を与えます。自分について嘆くなかれ、決して不幸の星のもとに生まれたのではないこと、みんな幸せに生きる権利を持っていることを気づかせ、神がインマヌエル(神が私たちと共にいます)であることを信じさせてくださいます。第二は、「悔い改めて福音を信じなさい」(マルコによる福音書1:5)という神様の呼びかけに信仰の決断をさせていただけます。そして、少数の気骨あるクリスチャンは与えられた十字架を負いぬいて主の証人となりました。第三は、自分の人生に使命が与えられていることを信じ、精一杯輝いて生きる希望を持ち続けさせていただけます。

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結論)
 真の光が差し込む時、喜びの人生が始まります。もう一度神様に愛され生かされていることに感謝しましょう。この幸い、この道を共に歩いてくださる方々が加えられる喜びを味わわせて頂きたいものです。すべてが主の栄光につながっていることを心に留めましょう。

2013年11月24日日曜日

礼拝メッセージ2013年11月24日

説教題   「神の憐れみに対する感謝」

聖 書   テモテへの第1の手紙1章1217

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序論)現代人は「生命」さえ自由にできると豪語します。しかし、一人の人間として自分を治めることに苦慮しているのが自分の本当の姿ではないでしょうか。やり切れないほどの孤独感、他人との格差の中で報われないいら立ち、つぶやきと嘆息の連続。しかし聖書には、「いつも喜んでいなさい、絶えず祈りなさい、すべてのことについて感謝しなさい」(テサロニケⅡ,5:16)とあります。これが人として生きる者の基準だと言います。

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本論)
 古歌に「打ち見れば何の苦もなき水鳥の脚にひまなきわが想いかな」とありますが、これが私たちの現実の生活そのものではないでしょうか。「不満の目録」と「恵みの目録」があるとすれば、「恵みの目録」をいつも持って、神の恵みを忘れないうちにメモしたいものです。この目録は、敬虔に一生を過ごそうとしている者に力を与えます。信仰を生き生きと継続維持する秘訣は、神の恵みを具体的にしばしば思い出すことだと言った人がいます。それは大伝道者パウロの姿でもあります。隣人への愛の実践の迫力ある気迫となって人の心を動かしました。それは又、マザーテレサの生き方でもありました。

(
結論)
 パウロはエペソ人への手紙第2章で、「先には自分の罪過と罪によって死んでいた」、しかるに神はこの私に目をとめて「キリストと共に生きる」者として下さった、と言っています。

 人はみな目先のことで一喜一憂して、うまくいけば自分の手柄、失敗すれば他人のせいにして良い子になる傲慢不遜な者になりがちです。神は私たち一人ひとりと向き合って、自分の生き方を変えて私に従ってきなさい、と招いて下さっています。どんな時も神様がわたしと共にいてくださる、この祝福により、全てのことに感謝できる、喜びと祈りに満たされたキリスト者にならせていただけるのです。

2013年11月17日日曜日

礼拝メッセージ2013年11月17日

説教題   「恐れるな。語りつづけよ」

聖 書   使徒行伝 第18章5~11節

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序論)神の前に謙虚に生きることを求められている私たちは、神の慈愛に生かされていることを自覚したいものです。「無きに等しい」と思える者が、イエス・キリストの恵と赦しによって、はばからず神の前に出ることができる者とされています。主の十字架のあがないによって生きる者とされた、これが私たちの信仰です。

(
本論)
 神様は忠実なしもべを用いて栄光を表わされます。神様に従うことで、新しい力に満たされます。「わたしが支える者」(イザヤ書42:1)これが大切です。パウロがコリント教会の建て上げのために派遣された時の話が今日のテキストです。キーワードは使徒行伝1810です。水島教会の今年度の聖句でもあります。
「恐れるな。語りつづけよ、黙っているな。あなたには、わたしがついている。だれもあなたを襲って、危害を加えるようなことはない。この町には、わたしの民が大ぜいいる。」
神は、進め前進せよ、恐れるな、語れ、わたしがあなたと共にいる、祝福の刈り入れが待っている、と言っておられます。この希望の確信が主の導きの中で与えられます。

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結論) 「たといわたしが暗やみの中にすわるとも、主はわが光となられる」(ミカ書78

スランプに落ち入り先の見えない行き詰まりに出会う時、このような挫折感の真っただ中におかれる時、主がパウロに語られた今日のみ言葉は、今の時代に生きるキリスト者に勇気を与えます。あなたを襲って危害を加える者はいない。この町には私たちの宣教のわざを待っている人々が大ぜいいるのです。このことを信じます。

2013年11月10日日曜日

礼拝メッセージ2013年11月10日      高木実師(キリスト者学生会副総主事)

説教題   「失望せずに常に祈るべき・・・」

聖 書   ルカによる福音書 第18章1~8節

(序論)
ここの例え話の目的は「失望せずに常に祈るべき」だということです。
この非情で不義な裁判官ですら、面倒をかけるから・絶えずやってきて悩ますから、やもめの訴えを聞き届けてやる。まして、神は選民のために正しい裁きをせず放置されるだろうか?だから、失望せずに絶えず祈りなさい。
しかし、「失望せずに常に祈るべき」という義務感で祈ると、長続きはしないのが現実ではないでしょうか?私たちの現実、常には祈れないという私たちの痛み、弱さ、貧しさをイエス様はよく知っておられた上で、このような例え話をされたことに、この例え話の真意があるのではないでしょうか。

(本論)
浄土真宗の開祖親鸞は、祈りなき信仰、無祈祷の宗教を提唱し、全知全能の阿弥陀仏は全てを知っておられ、人間に必要なものは祈らなくても与えてくださる、それにもかかわらず祈らなくては与えられないというのは、不実、不遜、不毛であり、人間の祈りは神をぼうとくするものである、と説いています。
キリスト教会の歴史上でも「全知全能の神に祈る必要があるのか?」という論争がなされてきました。
宗教改革者ルターは次のように言っています:
「祈りは、神ご自身が我々の願いを知るためではなく、我々自身のためであり、祈りは恵の手段として与えられている。祈りを続ける中で祈りの動機がさぐられ、我々の願いが清められ、祈りの中で神と深く交わることによって、自己中心の祈りから神中心の祈りに変えられ、私たち自身の信仰が変えられる。」
親しい友人や恋人とは、必要とか義務からではなく、会って話がしたくなります。これと同じように天の父と話がしたい、これが祈りです。祈りは、理詰めで必要か不必要かを論ずる問題ではなく、神と私たちの人格的交わりです。愛する人と語り合いたいと願うのと同じように、愛なる神と話がしたいと願うこと、これが祈りです。

(結論)
 この箇所の裁判官と異なり、神は私たちが話かかけてくることを心から願っておられます。親として、かたことの言葉で話す幼い子が語りかけてくるのは喜びです。親は、子どもの話が滅茶苦茶であろうが、自分中心で不純であろうが、その子の語りかけを喜ぶものです。まして、神は我々が語りかけるのを待っておられ喜んでくださいます。「祈るべき」ではなく、「祈ってもいい」のです。
過ちを犯した時でも、落ち込んで絶望のどん底におちいっている時でも、失望せずに祈ることを神は待っておられます。
私たちの弱さを思いやることのできないようなかたではない。・・・私たちは、あわれみを受け、また、恵みにあずかって時機を得た助けを受けるために、はばかることなく恵の御座に近づこうではないか」(ヘブル人への手紙4:15,16)
私たちの祈りはどうしようもなく不純で自己本位なものです。私たちの存在すら汚れて不純なものなのですから。しかし、そのような者の祈りを神は喜んで待っていてくださいます。
祈らなくてはならない、のではなく、祈ってもいいのです。
祈りは、神が私たちに与えてくださった「恵み」なのですから。

2013年11月3日日曜日

礼拝メッセージ2013年11月3日

説教題   「逃げないで」

聖 書   ルカによる福音書 第242536

(
序論)聖書は神が存在するかどうかを議論しません。神は実に今も生き生きと働いておられる、これが大前提です。「人々よ、静まって謙遜に自分を見つめ直せ」と聖書は語ります。「愚かな者は心のうちに『神はない』と言う(詩篇53:1)このような人の生き方は人生で大切なものを喪失しているのです。

(
本論)
神を恐れ、その命令を守れ。これはすべての人の本文である(伝道の書12:13)この原点に帰るまで人は迷い、さ迷う旅人で終わるのでしょう。しかし、主の愛によって、どうしようもない私でも神のふところに帰らせていただけます。キリスト様の十字架による罪のあがないの事実を信じるだけで、神様は私を受け入れて下さいます。

 一般にエマオ途上の弟子たちと言われる話が今日のテキストです。イエス様を信じつつ、現実から逃避する私たちの姿がここにあります。彼らは復活のイエス様に引き戻されながら、信仰の前進を学んでいきます。絶望に目がふさがれ、望みなるキリストがすぐそばにいてくださっているのに気づきません。主はいつも繰り返し、繰り返し、暗さの中に座り込んでしまう者たちに近づいて、一緒に食卓につき、パンとぶどう酒をとり、イエス様が私たちのために十字架にかかってくださったことを思い出させてくださいます。私たちは主の食卓につながることを赦されている存在です。そこに望みの回復があります。「お互いの心が内に燃えた」このような極めてリアルな神体験が与えられます。

(
結論)
聖餐式で私たちはお互いの心、主を信じる者の歓喜を共有できます。私たちは今、聖餐式にあずかりますが、どんな十字架を負わされているか分かりません。どんな境遇にいようとも、主イエスの言葉に信仰の応答をいたしましょう。それぞれの現実から逃げないで、その真ん中で働いてくださる神様を信じましょう。

2013年10月27日日曜日

礼拝メッセージ2013年10月27日

説教題   「育て実を結ばせる神」

聖 書   ヨハネによる福音書 第1515

(序論)「山上の垂訓」と言われるイエス様の説教は、弟子たちと当時の社会の中で大切にされなかった人々に語られたものです。主は「無学なただ人」が理解できる言葉で語ります。誰でも神と人のために有用な存在であることを自覚させます。具体的に「世の光、地の塩」として生きる力を神様は一人ひとりに与え、育ててくださいます。神様は私たちにとって農夫の役目を果たしてくださるのです。

(本論)農夫の仕事は、時期を得た種まきをすることです。そして発芽から花咲かすことを忍耐強く待ち、結実させ収穫まで期待して見守ることを仕事とします。
 種は小さいですが、たとえ「からしだね」でもこ生命ある種は成長して、空の鳥が来てその枝に宿るほどの木になるのです(マタイによる福音書1332)。小さいものを育ててくださる神は豊かな実を結ばせてくださいます。神様は見回り、手入れして、神ご自身がそのことを楽しむかのように、一人ひとりに関わってくださいます。決して見捨てられません。これが神様のやり方です。

(結論)私たちも農夫である神様に見守っていただきながら生かされていることを実感しましょう。他人と比べて自分を評価したりしないで、行き届いた主の眼差しに励まされて、時に大胆に自分の人生の軌道修正をして、神様に向き合いましょう。
 疲れた時、無意味に思える時、こんな詩を口ずさんでください。
  はきだめに えんどう豆咲き
  泥沼から 蓮の花が育つ
  人みなに 美しき種あり

  明日 何が咲くか     (安積得也)

2013年10月20日日曜日

礼拝メッセージ2013年10月20日

説教題   「神の言葉に聴従する僕」

聖 書   ルカによる福音書 第5111

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序論) イエス様は、平凡な日常生活を通して人間の生きる意味を諭して下さいます。親子の確執や兄弟の不和、人とのすれ違いの空しさを覚える時、その真ん中に主は立って下さいます。今日のテキストは徒労に終わった漁師たちを通して、神様は無駄なく働いて、神様の栄光を表すようにと導いて下さっていることを私たちに自覚させます。
 
(
本論)
 夜通し働いたのに魚一匹も取れなかった漁師の失望落胆。彼らは網を洗っていました。啄木の「働けど働けど我が暮らし楽にならず」です。しかし、その時、メシヤなる主が声をかけます、「沖へ漕ぎ出せ」。そこは浮世です。虚無と混沌が渦巻くところに出て行きなさい。これがイエス様の導きの言葉です。みんなが生きている、生活している、この世という場所で主を信ずる者の生き様を見せなさいと手は言われます。
「恐れるな、今からあなたは人を取る漁師になる」

人を取る漁師、という人生の目的を明確に示します。彼らがそのお言葉に従った時、豊かな獲物が与えられたのです。予想し難い獲物が。信仰は、虚無の中にあっても、神の言葉によって勇気を与えられ、新しい行動を起こして行くことができるのです。

(
結論)
 人はみな、失望と落胆というレッスンを通して、自分らしく生きることをつかみとります。信仰によってたくましく生きた主の僕は、「死の影の谷」をも走破する者に育てて下さる神に自分を委ねました。生活の中に起こる一つひとつの経験が神様を深く理解し、信じてすべてのことを前向きに受け止められる信仰者になれるのです。

2013年10月13日日曜日

礼拝メッセージ2013年10月13日

説教題   「深い憐れみの心」

聖 書   マルコによる福音書 第63034

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序論) イエス様は人間を飼い主のいない迷う羊のように憐れまれました。「イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て、飼い主のいない羊の様な有様を深く憐れみ、いろいろと教えられた」(マルコ634

 
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本論)
 人は他人から憐れまれることを嫌い、プライドを傷つけられたと逃避的になり、孤独の中に自分を押し込んだりします。しかし、イエス・キリストはまことの憐れみを持って救いの手を差し伸べてくださいます。主イエス様は、「かわいそうに」「気の毒に」と思うだけでなく、声をかけて「安心して私の所に来なさい」と招いてくださいます。そして、生きることに疲れた私たちに新しい希望と気力を与えてくださいます。イエス様の憐れみは、人々への深い思いやりであり、相手に同情し相手の苦しみを自分の苦しみとしてになってくださる究極の愛であす。そのことはイエス様がすべての人々の罪をになって十字架の死さえ受け入れてくださったことに表れています。

(
結論) 
 ルカによる福音書第10章の「良きサマリヤ人」の姿こそ、神様の真の憐れみの姿です。サマリヤ人は、傷つき助けを必要とする人を憐れむだけでなく、再び生きることができる手立てまで考え、それを実行しました。慈悲の心に行動が伴っています。「私の言葉を聞いて行う人になりなさい」と語られるイエス様に従って行きましょう。

2013年10月6日日曜日

礼拝メッセージ2013年10月6日

メッセージ  「人生の回復」

聖 書   ローマ人への手紙 第3918

(
序論) 
 神様は、自分のような者でも、ご自身の作品として造られたのだと信じられることが大切です。神様が求めておられる本来の私とはとのような者かを、神様の光で見させていただきましょう。そこに、信仰の出発点が隠されています。

(
本論)
 聖書は、人間の本性を「義人はいない。一人もいない」ローマ人への手紙310)と説き、人は神に背く者として生きているのだから、「新しく生まれ変わらなければ」(ヨハネによる福音書3:7)「神に国に入ることはできない」(同35)と諭します。新しく生まれ変わる、これがクリスチャンの出発点です。そして、信仰における新しい生き方は、すべてをイエス・キリストにお任せすることから始まります。

 使徒パウロは、「キリストを知る知識の絶大な価値のゆえに、いっさいを損と思っている」(ピリピ人への手紙38)、彼は自分の過去の誇りを糞土のように思うと言っています。クリスチャンの大事な決断は、「死んだ、そして生きた」、「失った、しかし得た」ということであり、多くの信仰の先輩たちがその生き様を通して証ししています。

(
結論)
  神様はご自分に従う者の人生に責任を持つと約束され、その人を必ず守って、その終わりには平安な安息地に導いてくださいます。

2013年9月29日日曜日

礼拝メッセージ2013年9月29日

説教題  「本当の強さを身にまとう」

聖 書   コロサイ人への手紙 第1章2123

(
序論) 
私は何をするために生まれてきたのか?神様とはどういうお方か?これらの問いに神様は明確に答えてくださいます。

(
本論) 
多くのクリスチャンは、四方から艱難(かんなん)を受けてもきゅうせず、途方にくれるような事に見舞われても行き詰まらず、その信仰の道を力走して来ました。彼らがそのような強さを得た転機は、罪人を愛し十字架にかかってくださったイエス様を受け入れ、自分を明け渡した時でした。

 神様、罪人である私を憐れんでください、と赤裸々に自己を投げ出し、自分の本音をさらけ出す時、神様は新しい私の行くべき道を示してくださいます。
「神は、わたしたちをやみの力から救い出して、その愛する御子(みこ)の支配下に移して」
(コロサイ人への手紙113)くださるのです。このことを信じて本当の強さを持つクリスチャンに育てていただきましょう。

(
結論) 
人は神様の前に破れて強くされます。「私を強くして下さるかたによって、何事でもすることができる」(ピリピ人への手紙413)私の内に住み、私といつも一緒にいてくださるイエス様によって、本当の強さを得て、どんなことにも恐れないで生きて行きましょう。

2013年9月22日日曜日

礼拝メッセージ2013年9月22日

メッセージ  「共に生きる幸い」


聖 書   創世記 第50章1521

(
序論)
 私たちは、どのような確信を持ってこの世を生きていくべきでしょうか?このことをヨセフの生涯から学んでみましょう。

(
本論)
 ヨセフは兄たちのねたみのゆえに17歳の時、銀20枚でエジプト人に奴隷として売られました。その後も数々の厳しい苦難の日々を過ごすことになりますが、「主がヨセフと共におられたので彼は幸運な者となり」(創世記393)、そして、周りの人々に好意と信頼を持たれ、やがて政治の中核の地位にまで登りつめます。7年間の飢饉の時、ヨセフの兄弟が憐れみを乞うためヨセフの前に立ちます。この立場の逆転した状況の中で、ヨセフは言います:「あなたがたは私に対して悪をたくらんだが、神はそれを良きに変わらせて」(創世記5020)くださいました。ヨセフはすべての悪意に対して善意で報います。

(
結論)
 私たちがこの世で生きる時、どのような苦難があっても、神は「神を愛する者と共に働いて」すべてを最善に導いて、豊かな実を結ばせてくださいます。

2013年9月15日日曜日

礼拝メッセージ2013年9月15日

メッセージ  「信仰の道を走り抜く」

聖 書   ピリピ人への手紙 第2章1218

(序論) 超高齢化社会の今日、弱い存在である高齢者や弱さをおぼえておられる人々と、どのように共に生きていくべきでしょうか?

(本論) 信仰の道を一筋に歩んでこられた先輩方のことを、今一度思い起こし心に刻みたいものです。私たちは素直に聖書のことばに耳を傾け、神の子どもとしてこの曲がった邪悪な時代の中で、いのちの言葉を堅く持って、星のように輝く存在であるように、と神様から召されています。
 パウロは弟子テモテに、誰をも分け隔てなく受け入れるように戒めています:「老人をとがめてはいけない」(テモテへの第一の手紙5章1節)。老人の方々には次の戒めがあります:「老人たちには自らを制し、謹厳で、慎み深く、また、信仰と愛と忍耐において健全であるように勧め」(テトスへの手紙2章1節) 
 歳と共に弱さをおぼえて何事にも引き下がりやすい人々に、信仰は常に前向きで常に成長するものであると聖書は教えています。どんな時も喜びなさい、感謝を持って祈りなさい、「そうすれば、人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るであろう。」(ピリピ人への手紙4章7節)


(結論) 神様は、お年寄りの人も若い人も、どんな人も、一人ひとりのクリスチャンを、神の教会の肢体として用いてくださいます。私たちは、お互いに声をかけ合って、信仰の道を忍耐強く走り抜けましょう。

2013年9月8日日曜日

礼拝メッセージ2013年9月8日

メッセージ  「多くの証人と共に」

聖 書   へブル人への手紙 第1217

(序論) 私たちは、言い知れぬ寂しさや孤独感でなやんだり、自分の弱さや愚かさに打ちひしがれたり、心や身体の苦難に絶望感をいだき、「主よ、われらをあわれんでください」(詩篇123)と叫ぶ時があります。

(本論) ヘブル人への手紙第11章には、アブラハムやモーセ、サムソン、ダビデなどの信仰の先輩たちのことが書かれています。彼らは、いろいろな弱さを持ち、悩みや苦難の中を通りながらも、主(神様)を信頼して自分自身を主にゆだね、最後には主から祝福をいただきました。
 このような信仰の先輩たちが、この世という競技場で走っている私たちを見守り応援をしてくれているのです。信仰の友がイエス様の証人として私たちのそばにいて励ましてくれています。
 「信仰の導き手であり、またその完成者であるイエスを仰ぎ見つつ、走ろうではないか。」(3) 私たちと同じ人生の苦しみを味わい、十字架の死さえも耐え忍ばれたイエス様が、「恐るな、我が子よ」と呼びかけてくださっています。「見よ、わたしは戸の外に立って、たたいている」と、わたしたちが自分の戸を開けて主を迎え入れるのを待っておられのです。主に従い、主のぶどうにつながっていれば、豊かな実を結ばせてくださいます。


(結論) イエス様が一緒なのだと信じる時、たとえ死ぬような苦難の中にあっても、立ち上がることができます。また、信仰の先輩や主にある友が、主の証人として私たちを取り囲み、「立ち上がれ、さあ一緒に行こう」と呼びかけてくれています。このような励ましを受けている私たちは力強く立ち上がり、さらに、主を賛美し証をする主の証人とならせていただきましょう。

2013年9月1日日曜日

礼拝メッセージ2013年9月1日

メッセージ  「ガリラヤに行け」

聖 書   ヨハネによる福音書第21章1~8節

(
序論) 荒れ狂う荒海の中に漂う小舟のように、現在の世の中で様々な苦難に打ちひしがれ、希望を見失いがちな弱い私たちは、どのように生きていけばいいのでしょうか?

(
本論)
弟子たちは、イスラエルを救ってくださると信じていたイエス様が十字架にかけられて亡くなられ、悲しみに打ちひしがれ意気消沈していました。その後、ペテロたちは、故郷ガリラヤに帰り、以前の仕事である漁をしましたが、魚の獲物は皆無でした。そこへ復活されたイエス様が現れ、「網をおろしてみなさい」と言われたので、ペテロ達が網をおろすと、大漁の魚がとれました。

 主イエス様は、希望を失っていた弟子たちを見捨てるようなことはされず、ガリラヤで彼らを待ち受けていてくださり、イエス様が一緒にいてくださるなら、「魚ではなく人間をとる漁師にしてあげよう」というご自身の言葉の実現の確証を彼らに与えられました。

(
結論)
徒労のように思われる私たちの業でも、「わたしは、モーセと共にいたように、あなたと共にいるであろう」と言われるイエス様が、いつも共にいてくださり、私たちの先手をうって収穫を準備して大漁の祝福を与えてくださることを信じて、私たちのガリラヤに行きましょう。

2013年8月18日日曜日

礼拝メッセージ2013年8月18日

メッセージ  「平和を運ぶ僕」

聖 書   マタイによる福音書5章1~12

(
序論)じっくり腰をおろして自分を見つめてみましょう。私たちは誰かに必要とされているので生かされているのではないでしょうか。

(本論)本日の聖書の箇所は、「山上の説教」と言われ、献身した弟子たちに語られたイエス様の言葉です。私たちクリスチャン一人ひとりに語られた言葉ととらえるべきです。8つの祝福、11節を加えて9つの祝福と言われる場合もありますが、「…は幸いである」という幸いは世間で言うところの幸いとは逆転しています。長い人生では、ぐらついたり自分に絶望したりすることもありますが、主イエスは8,9つの祝福を語ってくださり、イザヤ書4026節にあるように、「主は、おのおのをその名で呼ばれる」ので、私たちはこの世で生き抜いていくことができます。

(結論)水島に来て戦争と平和について多くのことを教えられました。「生きよ」「私はあなたを必要としている」とイエス様は語りかけてくださっています。十字架に掛かられる前にイエス様を運んだ小さなロバのような、平和を運ぶ僕になりたいものです。