礼拝メッセージ 2020年9月20日
説教題 「安息と沈黙」
聖 書 マルコによる福音書 4章35~41節
(序論)今日の箇所には、イエス様と弟子たちが、舟に乗って向こう岸に渡ろうとした時のことが書かれています。ガリラヤ湖は、四方を山で囲まれており、まるで、すり鉢の底のようになっています。それで気温の変化によって、時々突然に突風が、吹くことがあったようです。今回の突風は、今までにないもので、さすがの弟子たちも、恐れるほどのものでした。
(本論)1)安息を命じられる神 イエス様は、風と湖にむかって「静まれ、黙れ」と言われました。しかし、この言葉を聞いた弟子たちは、それが自分たちに対しても語られたと感じたに違いないと思います。突然の嵐に慌てふためいていた弟子たちもまた「静まれ、黙れ」という声に従う必要があったのです。
この箇所を読むたびに、自分の回りにも、様々な課題や困難が吹き荒れていることを感じます。私は、「イエス様、私を取り囲む課題や困難の嵐に向かって、『静まれ、黙れ』と命じてください」と願いましたが、嵐は、私の外側だけでなく、私の内側にも、吹き荒れているのです。それで、「どうぞ、私の心にも『静まれ、黙れ』と命じてください」と祈る必要があります。
日本では「過労死」で多くの人が亡くなります。日本語の「過労死」がそのまま英語になって、2002年以来、オックスフォード辞書に載っていますが、これは決して自慢できることではありません。神様は、わたしたちをいやし、強めるために、「安息」を命じてくださいました。七日に一日の休みだけでなく、一日24時間の三分の一は睡眠という「安息」が必要です。礼拝の日は「安息日」と呼ばれます。この日、いままでやってきたことを、一旦やめて、礼拝に向かうのです。神様が七日に一日、この日を与えてくださったのは、わたしたちが日常を断ち切って、神様を礼拝するためです。
2)沈黙を命じられる神 「安息」と「沈黙」は一対のものです。「安息」は、それが身体を使ってであれ、心を使ってであれ、何かの働きを止めることを意味しています。「沈黙」はそこから一歩進んで、神のみ旨を知るために、身も心も整えることを指しています。「沈黙」は、ただ、何も言わない、とい言うだけのことではありません。それは神様の言葉に聞き、神様を想うことです。
マザーテレサがCBSテレビのインタビューに出たとき、こんなやりとりがありました。「マザー、祈るとき、神様に何と言って語りかけるのですか」?
「わたしは何も話しません。神様に聞くだけです」
「それじゃ、神様はマザーに何と言って話されるのですか」
「神は何も言われません。神はわたしに聞いてくださるだけです」
「わたしは何も話しません。神様に聞くだけです」
「それじゃ、神様はマザーに何と言って話されるのですか」
「神は何も言われません。神はわたしに聞いてくださるだけです」
(結論) 「静まって、わたしこそ神であることを知れ。」わたしたちは、沈黙によって神様のみ心を、知る必要があります。