2019年6月26日水曜日

礼拝メッセージ  2019年 6月23日
説教題 「参加すべき競争」
聖 書 ヘブルへの手紙 第12章1~3節
2020年、東京オリンピックが1年1か月後にひかえて、先週入場券の申し込み結果が発表されました。 よく「参加することに意義がある」と言われ、人種、宗教を超えて世界中の若者が、メダル目指して競争します。 東京オリンピックは、平和国家を宣言している日本が開催するので、「世界平和のための祭典」とも言われています。
 さて今日のみ言葉は、人生を「参加すべき競争」と言っています。私たちは、どういう姿勢でこれに参加すべきでしょうか。 
 第一に、一節に「私たちは多くの証人に囲まれている」と呼びかけています。 神様は、長いリレー競争をさせておられるということです。信仰の先輩たちは、それぞれの受けもち区間を走り終えて次の走者に、信仰のタスキを渡し、スタンドに登って走者に声援を送っているということです。 リレー競争ですからゴールインするのは最終走者だけです。前に走った人々にとっては、後に走る人々がしっかり走ってくれないと自分が頑張ったことが無駄になります。ですから精一杯の声援を送っているのだと言うわけです。 私たちの信仰は、私個人のものではなく、私たちがしっかり走らないと、先輩の労苦を無駄にしてしまうことなのだ、そのことを悟って、いっさいの重荷とからみつく罪を捨てて、忍耐をもって走り抜かねばならないのです。
 第二に、しっかり「走り抜く秘訣」が記されています。 2~4節、信仰の創始者、完成者であるイエス様から目を離さないこと。 5~13節、困難があったら愛の訓練と思って耐え忍ぶ。 14~17節、教会の友との平和と自らのきよめに努めること。 26~29節、私たちは揺り動かされないみ国をうけているのだから、感謝し慎みと恐れをもって神様に仕えて行こう。 今日私たちは、文字通り最終走者です。先輩の声援を受けています。この秘訣で走り抜きましょう。

2019年6月17日月曜日

礼拝メッセージ  2019年 6月16日
説教題 「天国に行くためには」
聖 書 コリント人への第一の手紙 第15章20~22節
今日のみ言葉は、使徒パウロがコリントの教会に宛てて書いた手紙の一節です。コリントの教会は、パウロが大変な苦労をしながら伝道旅行し、その中で生まれた教会のひとつでした。 パウロがコリントの人々に最も大切なこととして伝えたのは、「キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書の示すとおりに、三日目によみがえられたこと」(第一コリント153-4)でした。 キリストの死と葬りと復活の3つを信じること、これが福音の三要素です。 
 ところが、コリントの教会の中に「死者の復活はない」と主張する人々が出てきました。パウロはこの手紙で、復活否定論に反論しています。その論点を要約するなら、次の2点です。
 
 1. 一つは、キリストの復活を信じることは、信仰の実質です。キリストの復活を信じる人は、もはや自分の罪の中にいない、と約束されているからです。
 
 2. 二つめは、罪の問題が解決された人に用意されているのは、死者の復活です。それは神の国に入るためです。神の国とは、キリストが王となって支配される平和と正義の国です。 キリストを信じる者は、死者の中からよみがえって、神の国の民となるという希望を持つ者です。
 ここで、キリストの復活は「初穂」という表現がされています。初穂があるということは、後に続いて多くの者が復活するということを表しています。
あなたも福音の三要素を信じ、神様の無罪宣言をお受けになりますようにお祈りいたします。

2019年6月6日木曜日

礼拝メッセージ  2019年 6月2日
説教題 「試練とのがれる道」
聖 書 コリント人への第一の手紙 第10章13節
 この箇所は、伝道者パウロが、初代教会のキリスト者が耐えられないような迫害に直面した時、彼らを慰め励ますために書かれた手紙です。
 試練のない人生などありません。ましてや、キリスト者として神様のみ心に従って生きようとすればするほど、そこには戦いが生まれます。しかし、どんなに苦しくても、神様に従って生きることは、尊いことです。
 神様は、私たちの試練を、私たち以上にご存知です。だからこそ、試練と同時に、のがれる道をも備えてくださるのです。しかし、私たちを鍛錬するために、のがれる道がどこにあるかを、お示しにはなりません。どんなに大揺れに荒れる試練の日にも、無策の策で主におゆだねしつつ、みつばさの陰に宿ることが平安の秘訣です。
 愛する兄弟姉妹、ひとり胸を痛めず、主にあなたの心の重荷を、ためらわず降ろしましょう。そして、こころゆくばかり、あなたの願いを主に申し上げましょう。主は、あなたの涙の祈りを聞いていてくださいます。応えがすぐに来なくても、あなたの魂からもれた、ひとこと一言、涙の祈りは、決して地に落ち消え去ることはありません。
 試練は、信仰という眼鏡をかけて見る時、主のご計画とあわれみ、主のご愛と支えが見えて来ます。
礼拝メッセージ  2019年 5月26日
説教題 「主の御言葉に権威」
聖 書 マタイによる福音書 第8章5~13節
 マタイは、この章から次章にかけて、主のみ業を記録しています。これらのみ業は、色々な機会になされたことが引照から分かります。マタイは、まとめて記して、主のみ業全体を把握出来るようにしていると考えられます。
 主は七章の山上の説教において「権威ある者のように、教えられました」。今日の箇所では、イエス様の権威がすべてのものの上に及んでいることが、具体的な例を持って示されています。
 第一に、らい病人のいやしです。らい病人は汚れた者とされ、人から隔離されていましたが、彼は主のご愛とみ力を信じて、あえて近づいて来て懇願しました。「「主よ、御心でしたら、きよめていただけるのですが」。主の能力を信じつつも、自分の罪と汚れを認めて「御心でしたら」と、謙遜して言います。主は「手を伸ばして、彼にさわり」一言のもとに癒されました。主は、ひと言の言葉だけによっても癒すことがおできになれますが、特に手を伸ばして、この病人に触れられたのは、主の愛を示す行為であったと思われます。
 第二に、中風のいやしです。百卒長は、その僕の中風がいやされることを願って来ましたが、わざわざ来ていただかなくても「ただお言葉を下さい。そうすれば僕は治ります」と言います。百卒長はローマの軍人です。異邦人でありながら、このような厚い信仰があることに、主は非常に感心され、「行け、あなたの信じたとおりになる」と言われました。その時、僕は癒されたのでした。(813節) ここで、信仰ある人の祈りが人を救うことを学ぶと共に、み言葉が信仰の根拠であることも学びます。(詩篇10719,20節) 次に、ペテロのしゅうとめは、熱病が癒されるや直ちにイエス様に仕えました。ここで主のいやしが即刻完全であることを知ると共に、癒された者の感謝が自然に奉仕となって表れることを知ります。