2017年2月26日日曜日

礼拝メッセージ  2017年 2月 26
説教題  イエス様に愛された弟子
聖  書  ヨハネによる福音書19章25〜27節
(序論)ガリラヤ湖畔の町ベツサイダ出身の漁師であったヨハネが、どのようにして福音書と三つの書簡及び黙示録の著者となり「愛の使徒」と呼ばれるまでになったのか、実に興味深いものがあります。
(本論)1)粗削りの使徒 イエス様に従った当初のヨハネは、粗削りの人物でした。イエス様は、ヤコブとヨハネに「ボアネルゲ」つまり「雷の子」と名を付けられたことが記されています。これは、この二人の兄弟が、短気で直情的な性質を持っていたことを表します。漁師という職業柄、やむを得ないことだったのでしょうが、この性質が様々な形をとって神の働きの妨げとなって行きました。
 2)欠点の中にも長所 イエス様は、欠点の中にも長所が潜んでいることを見抜き、引き出して下さる方です。「雷の子」という呼び名を考えてみましょう。それは、短気、直情的とも言えますが、同時に、情熱的、献身的、行動的とも言えます。イエス様は、その人の性質を否定、破壊することなく、ぶどう酒が発酵するようにその性質を活かしてくださるのです。
 3)愛の使徒へ 雷の子、偏狭な人、復讐の人、野心家が「愛の使徒」に変えられました。ヨハネ第一の手紙の注解書の印刷を手掛けた昔の印刷屋さんが、途中で活字が足りなくなって音を上げたと言います。その活字は、「愛」という言葉が多く使われたからです。「愛する者たち。私たちは、互いに愛し合いましょう。愛は神から出ているのです。愛のある者はみな神から生まれ、神を知っています。愛のない者に、神はわかりません。なぜなら神は愛だからです。第一ヨハネ4章:7〜8節)
(結論)ヨハネの生涯は、どんな人でも神様の愛の対象であることを教えています。愛がなければ空しい人生です。私の内に愛が無いからこそ、神様の愛につながり、神様の愛を受け続けていく必要があります。「私の目にはあなたは高価で尊い。私は、あなたを愛している。」(イザヤ43章4節)

2017年2月23日木曜日

礼拝メッセージ  2017年 2月 19
説教題  いのちの主に出会った人々
聖  書  ルカによる福音書 7章1〜7節
(序論)イエス様の言葉により、百人隊長のしもべが癒されました。高い地位に就き、権力を持っている人でも、人間は全てイエス様の権威の下にあります。
(本論)百人隊長は、ローマの忠実な役人でありながら、カペナウム地域に会堂を建てるほど支配層であるユダヤ人を重んじ、彼らから尊敬されていました。また、身分の低いしもべを重んじ、いのちを大切にする人、主の前に謙遜な人でした。彼は、病気で死にかけていた、しもべを助けるには、イエス様のお言葉一つで十分であると考えました。イエス様には、神の力とみ言葉の権威があり、物理的な距離をも超えて働くことがおできになると、異邦人のローマの役人が信じていたのです。その信仰に、主も驚かれます。主に認められ、ほめられるような信仰を持つ人は、世の何よりも勝ります。
 次に、11節から12節を見ますと、ナインの町のやもめは、夫の不在により、すでに大きな苦しみを受けていました。その上、彼女に残された一人息子さえも死んでしまったのでした。彼女の未来は絶望そのものでした。
これを見られたイエス様は、彼女をかわいそうに思われ慰められます。そして、律法では汚れているとされる死体の棺に手をかけ死んだ若者に「起きなさい」と命じて彼を生き返らせます。イエス様の視線と言葉、動作一つ一つから温かい愛が感じられます。
(結論)イエス様は、私達の過去、未来の苦しみを知っておられ、全ての涙をぬぐってくださる方です。時に人生が苦しく、疲れることがあります。しかし、弱い私を決して一人にはさせず、慰めてくださる主を覚えます。子を失ったやもめに喜び歌うようにされた主は、今も、疲れた人、重荷を負っている人が、信仰を持って主の前に出ていくなら、いつでも受け入れ助けてくださいます。

2017年2月18日土曜日

礼拝メッセージ  2017年 2月 12
説教題  「感謝と賛美の力」
聖  書  歴代志下 20章21〜22
(序論)ヨシャパテ王がユダの王位に着き良い政治を行っていた時、モアブ人とアモン人とセイル山の民族が連合軍を編成してユダの国へ攻撃して来ました。突然の災いにユダ王国は、これを防ぐことが出来ず後退してエルサレムまで敵が押し寄せて来ました。
(本論)この災いにヨシャパテ王は、全国民に断食を布告し自分も麻の服に着替え神殿で、神様に向かって胸を打ちながら祈りを捧げました。(12
その時神様は、預言の言葉をくださいました。それは「この戦いはあなた方の戦いではなく神の戦いである」と言うものでした。この約束のみ言葉に心に大きな慰めを得、王はすぐさま、聖歌隊を組織して飾り物を着けさせ聖歌隊を先頭にして戦場に出て行きました。戦いに出て行く時に聖歌隊を組織して戦うことは歴史上かつてないことでした。そして先頭の聖歌隊が一斉に歌い出しました。「主に感謝せよ。その恵はとこしえまで。」このように聖歌隊が賛美し出すと、奇跡が起こりました。敵陣で急に同士討ちが始まり、連合軍はたちまち全滅して行きました。
(結論)ヨシャパテ王をはじめ、ユダの民は、逆境や絶望に陥ったとき、神様を恨むのでなく、み言葉に従い感謝と賛美を捧げました。感謝と賛美こそが絶望を克服し勝利をもたらす信仰の秘訣です。感謝と賛美には、私達の逆境や患難や絶望を、神様が解決し勝利と成功に変えられる大きな力を秘めています。なぜなら、感謝、賛美は主に栄光を捧げ、主のご計画に身をゆだね従う、という信仰告白でもあるからです。「神様、今の現状は試練のただ中にありますが、神様の愛を信じ寄り頼みます。救ってください。」という告白でもあるのです。
 今、あなたが試練、絶望の中におられるなら感謝を捧げてみて下さい。感謝と賛美こそ、今のあなたに必要であり唯一の解決への道となります。

2017年2月5日日曜日

礼拝メッセージ  2017年 2月 5
説教題  「あなたの心を満たして下さる方」
聖  書  出エジプト記 15章22〜25
(序論)モーセの導きによってエジプトから出てカナンへと向かっていたイスラエルの民は、荒野を三日歩いたのに水を得ることが出来ませんでした。民は、のどが乾いて死にそうでした。まさにその時、先発隊の叫び声が聞こえてきました。
(本論)「水があるぞ」、その声を聞いた人々は、先を争って水のある所へ飛んで行って水を飲もうとしましたが、すぐにその水は苦くて飲めないという事実を知りました。それで聖書には、ここの地を「マラ」すなわち「にがいもの」と呼んだとあります。そうなると民は挫折して失望し、神様につぶやきモーセを恨み始めました。その時、モーセが神様に叫んで祈ると、神様は1本の木を掲示され、それを水に投げよと言われ、言葉に従って投げ入れると、飲めなかった水が、甘い飲める水に変わったのでした。
 今日、多くのクリスチャンが信仰生活をしながらも、意気消沈したり失望したりしています。なぜこのようなことが起こるのでしょうか。それは私達がこの世を生きていくとき、不安や恐怖、失望、絶望が私達の胸の中に溜まって苦い水の池になるからです。旧約時代にイスラエルの民の飲み水を甘くされた神様が、新約時代を生きる私達の胸の中の苦い水を甘くするために準備された木は、十字架に上げられたイエス・キリストです。イエス様が私達の生涯に入って来られるとき変化が起こります。信じたからといって失望や落胆しないわけではありません。夫婦喧嘩もするし両親と子供の間に不和が生じることもあり、仕事が試練にあう時もあり、時には虚無や罪責感の苦い水を飲んで身震いすることもあり ます。
(結論)今日、あなたの心の中に苦い水が貯まるようにしているのは何ですか。個人、仕事、人間関係ですか。なんであろうと主の前にひざまずいて訴えましょう。主が心を満たされるように祈りましょう。イエス様が心に臨在されると苦い水が変わって甘くなります。あなたの苦い苦い環境が麗しい環境になります。今日、この真理を受け取り主の前に出ると、奇跡の御業があなたの人生に起こります。