2018年5月27日日曜日

礼拝メッセージ  2018年 5月 27日 
説教題  「主の山に備えあり、アドナイ・エレ」
聖  書  創世記 第22章1~3節
(序論)アブラハムの生涯は、試練の連続でした。その最も大きな試練は、ひとり子イサクを燔祭として捧げよ、と命じられたこの時でしょう。試練は誰をも襲います。アブラハムにとって、この命令ほど理解にくるしいものはなかったと思われます。なぜなら、イサクは神様が奇跡的にお与えになった、ひとり子であり、神様がその子によって子孫を空の星の数ほどふやす、という祝福をお与えになった子どもであったからです。アブラハムには、あまりにも理解に苦しむ恐るべき命令でした。
 
(本論)それでも、アブラハムは神様のこの命令に服従しました。おそらくその事は、妻にも告げず朝早く起きてイサクを連れて三日間の旅を続けモリヤの地に着き、山の上で祭壇を築き刀をとり、イサクを殺そうとしました。その時です。天の使いが彼を呼び止めて「この子に手をかけてはならない。……あなたが神を恐れる者であることを今知った。」と声をかけられました。
 この出来事は、神様はもともとイサクの命を求められたのではなかったからでした。アブラハムの信仰と服従の精神を試されたのでした。アブラハムがこの試練に合格した時、雄の小羊をやぶの中に神が用意しておられたことをアブラハムに見せられました。そこで、アブラハムは小羊をイサクの代わりに燔祭として捧げ、その地を「アドナイ・エレ」すなわち「主の山に備えあり」と名付け記念としました。あなたが最も愛するものを神様にささげて従うとき、人間いたる所「アドナイ・エレ」主の山に備えあり、を経験します。
 
(結論)アブラハムがひとり子イサクをモリヤの山で捧げたようとした時、別の小羊が備えられていました。その小羊とは後日、神様が「世の罪を取り除く神の小羊」として備えられたイエス・キリストの象徴だったということです。
ですから、イエス様がカルバリの十字架の上に、ささげられた時には「手をかけてはならない」という天の父なる神様の声はかかりませんでした。
 今日も、私たちの罪のために命をささげられた主に感謝し、私のイサクをささげてお従いしましょう。神様は、今も従う者に豊かに必要なものを備えられる愛なるお方なのですから

2018年5月20日日曜日

礼拝メッセージ  2018年 5月 20日 
説教題  「人の目、神の目」
聖  書  サムエル記上 第16章6,7節
(序論)今日のみ言葉は、預言者サムエルに語られた神様の言葉です。彼が神様の命を受けて、ベツレヘムのエッサイという羊飼いの家に行き、その子の一人に王とする任職の油を注ごうとして、まず長男を見て「神様が決められたのはこの人に違いない」と思いました。すると神は「わたしの見るところは人と異なる。人は外の顔かたちを見、主は心を見る」と言われたのでした。
 
(本論)このみ言葉を聞いたサムエルは、それではということで、弟アビナダブ、またその弟シャンマと、七人の弟たちに次々と会いましたが、主は誰もお選びにならず、ついに野原で羊の番をしていた末の子のダビデを選ばれたのでした。ところで私たちは、人をその外観によって判断する傾向があります。風彩や家柄、学歴や経験、地位や財産などでその人の値うちを判断しやすいものです。神様は外観によってその人の値うちを判断されません。
 かりに、ここに美貌で家柄もよく健康で財産もあり、地位や教育も高いという恵まれた人がいるとします。しかし、その人が高慢で冷たく、貪欲で不誠実かあるいはまた、ねたみ深く怒りっぽい人であったとすればどうでしょうか。
 イスラエルの初代の王サウルは、そのような人になってしまったので、神様に捨てられ、素朴な羊飼いの少年ダビデが代わって選ばれることになりました。
聖書の中にはこのほか、心の状態のゆえに神様に打たれたという人は少なくありません。
 
(結論)さて、外の顔かたちを見ず人の心を見られる神様がいま、あなたの心をご覧になったとすれば、そこに何を見られるでしょうか。高慢、冷淡、どん欲、偽り、ねたみ、怒りなどはないでしょうか。たしかに人の値うちは、美貌、家柄、学歴、経験、地位、財産などによるものではありません。「み子イエスの血は、すべての罪から私たちをきよめるのである」というみ言葉の約束通り、主はあなたの心をも、すべての罪からきよめてくださいます。
 ダビデのように神様を愛し、神に従っていくならば、人の前には何の価値もない小さな存在であっても、神様の目の前には、価値ある尊い人生を全うさせていただく事ができます。

2018年5月14日月曜日

礼拝メッセージ  2018年 5月 13日 
説教題  「神に望みを」
聖  書  箴言 第30章7~9節
(序論)今日のみ言葉は、マサ人アグルの箴言です。アグルは死ぬ前に、二つのものが与えられるように祈っています。彼の歩みは徹頭徹尾、神様の栄光のため、自分の名誉や利益のためではなく神様のみ名が崇められるためでした。このような歩みこそ、み言葉に導かれて歩む歩みです。
(本論)アグルの祈りの第一は、嘘と偽りのない純真な生活をすること、第二は、神様が彼を貧しくもせずまた富もせず、ただ必要な食物で養ってくださることでした。人間は誰にも、自分の心や人格を試されるときがあります。それは、物が豊かになった時と、その反対に物に欠乏した時です。
つまり、人間の傾向として物が豊かになると高ぶって、貧しい人を見下げたり、神など知らないといって、頼りにならない物をたのみ、快楽に走ったり、情欲に陥ったりして心の祝福を失う危険があるということです。それとともに、反対に物に欠乏すると「貧すれば鈍する」という諺にもあるように、浅ましい心を起こし、人を騙したり、盗みを働いて罪を犯す危険があるということです。この箴言のアグルは、自分にも同じ傾向と危険があることを知っていたのです。
 人は貧しい時よりも、むしろ富める時の方が危険ではないでしょうか。貧しい時は、力を合わせ互いに助け合って働いていた夫婦でも、ある程度の富が出来ると、他に女性を作ったりして、家庭が破壊されたという例は珍しくありません。イエス様も「人の生命は持ち物にはよらないのである」と言われました。
 
(結論)人の生命の豊かさは、その人が富に望みをおいているか、神様に望みをおいているかによって決まるものです。大切なことは、使徒パウロがテモテに勧めているように「頼りにならない富に望みをおかず、むしろ私達すべてのものを豊かに備えてくださる神様に望みをおく」ことです。「まず、神の国とその義を第一に求めなさい。そうすれば、すべてのものは与えられる」「主の山に備えあり」と聖書は語ります。もしあなたが、有り余る物を持ちながら、喜びも平安もないなら神様に目を向けてください。また、自分は貧しいゆえに不幸だと思っているなら、どうぞ主を仰いでください。「神は父、宇宙は我が家、無限はわたしのもの、不足無し」これは、ある貧しいクリスチャン盲人の方の言葉で す。人の心は、神様との交わりをもって、はじめて持ち物の多寡を超えて喜びと平安が与えられるものです。

2018年5月7日月曜日

礼拝メッセージ  2018年 5月 6日 
説教題  「魂の港である神」
聖  書  詩篇 第46篇1節
(序論)今日の詩篇46篇は詩篇の中でも最も力強い詩の一つで、宗教改革者ルターの詩、新聖歌280番は、この詩によって作られたものでルターの作詞作曲となっています。詩人は、神はわれらの避け所、また力、それゆえ、われらは恐れない、と高らかに歌い、神がその中にいまして都はゆるがない、と確信を述べ、「万軍の主は、われらと共におられる。ヤコブの神はわれらの砦である。」と主に対する確信を告白しています。
(本論)大海を渡る船はどんなに頑丈に出来ていても、また、完全な装備をもっていても、港に入らず航海を続けることは出来ません。人生の航海者も、必ずどこか人生航路の途上に、その魂を休ませる安全な港がなければなりません。人生の魔の海を航海する私達にとって、天地万物の造り主である神様の愛と力に満ちた胸こそ、私達の魂を休ませる安全な港であるということは、何と幸いなことでしょうか。港というのは、ただ暴風雨の時の避難所というのではなくて、新しい航海に向かわせる出発点でもあるのです。魂の港である神様は「すべて重荷を負うて苦労している者は、私のもとに来なさい。あなたがたを休ませて上げよう」と、優しく招いていてくださいます。その胸に飛び込んで来た者に、 新しい希望と力を満たし、使命を与え新しい航海に出発させてくださる愛なる神様です。
 何かに失敗して再起の気力を失っている方、家庭の問題から涙と悲しみの日々を送っておられる方、表面は幸福そうでも、人知れず悩みをかかえて不眠の夜を明かす方はおられませんか。あなたの近くにおられる魂の港である神様に心を向けてください。神戸の生んだ世紀の偉人と言われた賀川豊彦先生も、五歳にして両親を失い四国の片田舎で育ち、愛に飢えていた暗い寂しい少年でした。しかし、中学生の時ローガン宣教師に導かれてキリストの愛のふところに飛び込んだ彼は、神様の愛と力に満たされて新しい船出をしました。神戸の貧民街に身を投じキリストの愛を説いた彼は、やがて「貧民街の聖者」として日本以上に世界的にも知名度が高くなりました。また多くの社会事業を起こして社 会と国家のために尽くしました。愛に飢えた暗い寂しい賀川少年が、弱い者・悲しめる者の友「ドクター・カガワ」としてその生涯を生き抜くことができたのは、愛なる神様を魂の港として持っていたからでした。
(結論)神様は人生の航海で、魂を休ませる港となってくださいます。新しい航海に出発させてくださる愛と赦しの神様です。