2016年11月27日日曜日

礼拝メッセージ  2016年 11月 27
説教題  「神の栄光のための試練」
聖  書  ヨハネによる福音書 9章1〜11
(序論)当時のユダヤ人は、人の受ける苦しみ災いは、罪の結果であると信じていました。弟子たちは、この目の見えない人について「この人が生まれつき目が見えないのは、誰が罪を犯したためですか。本人ですか。それともその両親ですか。」と主に尋ねました。
(本論) しかし主は、「本人の罪ではなく、両親の罪でもない。ただ、神の栄光の現れる機会となるためである」と言われました。人への災い病気がこの世に入って来たのは、大きく言えば人類が罪に陥った結果ですが、災いがいつでも、その人の罪の結果であるとはかぎりません。災いに遭った時私たちは、神様のみ前に自分を省みることは必要です。しかし、他の人が「罪の結果である」と断定して人をさばいてはいけません。この世には、神の国の法則と自然界の法則があり、それを無視するとしっぺ返しを受けます。「与えなさい。そうすれば与えられます。」与えないで受けることばかり考えても神の国の法則から、得ることは出来ません。また、無謀運転、暴飲暴 食すれば、自然界の法則により災い 、病気という実を刈り取ることになります。しかし、病気はどんなに気をつけても神様の深い摂理により、また、ご計画のうちにもあり、後に益にするために与えられる場合があります。(ローマ人への手紙8:28) 災いに会っている人に対して冷たい態度でなく愛をもって接し神様の恩寵を祈らなければなりません。主はこの人の目に泥を塗り「シロアムの池に行って洗いなさい」と言われました。彼に対する信仰と服従の試験でした。そして癒されました。
(結論)この目が見えなかった人は、癒された恵みをあかしすることを、ためらいませんでした。両親と違い。「私は今まで目が見えなかったのに、今は見えるのです。…きっと神様が遣わした預言者です」 17、25節、リビングバイブル訳) 私たちは先入観を持たず、へりくだった心で神のみわざを見、神の言葉を聞きたいものです。




2016年11月20日日曜日

礼拝メッセージ  2016年 11月 20
説教題  「上に成長するために」
聖  書  詩篇 92篇 12〜15
(序論)「神様を信じて従う人は、なつめやしの木のように青々と茂り、レバノン杉のようにそびえ立ちます」(リビングバイブル訳)すべての木には上に伸びる部分と下に伸びる部分とがあります。すなわち、木には目に見える部分と、見えない部分とがある、ということです。そして、隠れている部分こそ、見える部分の成長のかぎです。
 
(本論)地中に伸びる隠れた部分は、隠れた供給源から栄養を得ると同様に、主のみ言葉によって、毎日主との静思の時を確保しないならば、主イエス様の恵みと知識に成長することは不可能です。
 「枯れたキリスト者になってしまう根本的問題は何ですか」と問われたら私は答える「毎日、祈りによって神様と交わりの時間を持つ時間を怠ることです」と、ジョージ・B・ダンカンは、言っています。日々の神様との交わりが無ければ、キリスト者は枯れてしまいます。ジョン・ウェスレーや榎本保朗先生などが、同じ決心をしています。その決心とは、「毎日の最初の時間を神様に捧げる」といううことです。必ずしも最初の時間としなくても良いのですが、とにかく最善の時間でなければならないことは確かです。
 
(結論)こうして神様との交わりの時間を持ち、信仰の木が下に伸びて行くなら、上に伸びる部分については、あまり気にしなくてもいいのです。下に成長するとともに上にも成長するからです。レバノン杉のように上に高い木が倒れないのは、下に根をしっかりと張っているからです。 
 「神様みずから世話をしてくださいます。おかげで老木となっても実を結び、青々と茂ることができるのです。そして、そのことが神様の栄誉となり、その真実を人々に知らせることになります」(リビングバイブル訳)

2016年11月13日日曜日

礼拝メッセージ  2016年 11月 13
説教題  「あなたらしく生きなさい」
聖  書  イザヤ書 64章8
(序論)私は、私らしくあるがままの自分で、生きられたら何と楽なことでしょうか。私たちは偉人伝など、素晴らしい人生を生きた人の書物を読んで感動します。私もそのような立派な人になりたいと、自然な願いが起ります。
(本論)ところが、そのうちに苦しくなって来ます。その素晴らしい方と自分とは、あまりにかけ離れているように感じてくるからです。「自分は何とつまらない人間なんだ。どんなに逆立ちしても、あの人のようにはなれない。たいした人生は送れるはずがない。」そして、心が暗くなります。何がいけないのでしょうか。幾つかの理由があります。
 第一に、その人は、神様は人を皆、違うように造られたという事を忘れているという事です。男女の違い、生い立ち、能力、性格の違いなど一人として同じ人はいません。努力すれば何でも出来る、というのはある程度までです。だから、無いものを求めても苦しいばかりです。いつも人と比べて、優越感と劣等感の間を行ったり来たりすることになります。
 第二に、その人は、自分の願いを中心にすえてしまった、ということです。私たちには、神様という造り主がおられ、一人一人は、神様の目的にそって皆、違って造られた、と聖書は語ります。(64:8節)(45:9節)
ですから、造り主である神様を無視して、いくら願ってもそれは難しいのです。
(結論)最終的に神様から聞く言葉、「あなたはあなたらしく、あなたを生きなさい」という励ましです。たとえ自分の気に入らない私であっても、そのように受け入れることです。病弱な体や自分の性格、またいろんな理由で苦労を強いられている人生かもしれません。しかし、願っても得られないものに翻弄されず、自分を必要以上に見下げず、あるがままのあなたで生き生きと、強く美しい人生を生きて行きましょう。




2016年11月6日日曜日

礼拝メッセージ  2016年 11月 6
説教題  「試練は脱出への道」
聖  書  コリント人への第一の手紙 10章13
(序論)使徒パウロほど、救霊の情熱に燃えた人物はいません。見知らぬ町に入れば、少女から悪霊を追い出し、天幕作りの生活に入れば同業の夫婦をキリストの戦士に生まれ変わらせ、牢獄では看守一家を救い出し、権力者の前に引き立てられれば、彼らをどんどんクリスチャンにしてしまいました。このパウロが、人生には試練があるが、神は脱出の道も備えられると語ります。
(本論)まずパウロは第一に、多くの困難は別に新しいものでも、特別なものでもなく、これまで多くの人々が先に、同じ問題にぶつっかて来たものである、と語ります。自分だけが何故こんな困難が…と考えがちですが、病気・死・人間関係・夫婦問題・死別・貧しさ・人種差別・戦争・裏切り・結婚・子育て・寂しさ・容姿美貌の差・知能・生まれ育ち・性別など、二千年以上前から同じ問題で、誰かが苦しみ悩み経験しているものです。
 そして第二に、「試練とともに、脱出の道が備えられている」と語ります。
神様の愛とご真実が、私たちを苦しみの中に放って置くことが出来ず、必ず脱出の道も備えて下さるという約束です。大きなのように見えているものが、もしかしたらなのかも知れません。仕事や結婚などで壁を感じる時があります。八方ふさがり、心は暗い谷間をさ迷ってどんどん落ち込んで行きます。壁だと思っていた分厚い鉄板に、実は取っ手が付いていて、押せば何と、ぎいっ〜と開き光が差し込んで来るのです。壁と思っていたのが扉だったわけで、両者は同じ板でした。
(結論)この事は、何か別のところに脱出の道が備えられたのではなく「試練そのものが脱出への道」だったという事、問題が取り除かれて救われたのではなく、困難をしっかりと受け止める姿勢の中に、救いの道があるのだ、と教えています。「試練は恵みへの通路」と自らを励まし、苦しみの中にある友を励ますことが出来ますように。共に苦しんで下さる十字架の主イエス様と一緒に、試練を受け止める勇気が与えられますように。