2019年12月1日日曜日

礼拝メッセージ  2019年 12月1日
説教題 「待ち望む」
  書  イザヤ書 第30章 18節
今日の聖書の言葉は、「すべて主を待ち望む者は幸いである。」と言います。どのように主を待ち望むべきなのでしょうか?
 第一に、心を静めて待ち望むべきだと教えています。「わが魂はもだしてただ神を待つ」(詩篇621) とあります。心の騒ぐ時、思い煩いや悲しみ、恐れや心配が心に溢れる時、心を静めて口をつぐんで神様を待ち望みます。
 第二に、忍耐して待ち望むように聖書は教えます。「主の前にもだし、耐え忍びて主を待ち望め」(詩篇377) とあります。
 第三に聖書は、信じて待ち望むように教えています。「いささかも疑わずに待ち望んでいなさい」(第一ペテロ113) 事態がどんなに悪くなっても、少しも疑わずに待ち望む、これが大切です。ノアもアブラハムも信じて待ち望みました。信じて待ち望むことにより、サタンに勝ち患難に勝ち、世に勝ちました。
 酒とマージャンで帰りが遅く、家計を顧みないご主人のために、苦しみ悩んでいた婦人がいました。結婚5年目、たまたま近所の幼稚園で開かれた特別伝道集会に、もしかしたら救われる道があるかも知れないと思って、その婦人は出かけました。集会にはとけこめませんでしたが、苦しみから逃れるためにせっせと集会に通いました。「どうか神様、あの主人を変えてください。でなければ家庭は破滅です」と、切実な思いで祈りました。ところがご主人は悪くなる一方で事態は悪化して行きました。
もうこれまでと、離婚を決意した彼女でしたがそれでも忍耐し祈り続けました。そのうちに「主人を変えてください」という祈りから「私を変えて、主人を愛せる者にしてください」という祈りに変わりました。すると自分の方が、よほど意地悪で皮肉屋で、愛のない自我のかたまりだと分かってきたのでした。主の愛の力により彼女の心が変わった時、ご主人も優しくなりました。そしてあれだけ飲んでいた酒もやめて、洗礼を受けたのです。彼女が教会に通い始めてから20年もたっていました。「長い間、手のほどこしようがない、と思われた主人でしたが、万事を益に変えてくださいました」と婦人の言葉です。
 いま困難や悩みの中にいる方も、どうぞ心を静めて、耐え忍んで疑うことなく、主に祈り主を待ち望んでください。「すべて主を待ち望む者は幸いである」

2019年11月24日日曜日

礼拝メッセージ  2019年 11月24日
説教題 「主よ。・・・祈りを」
  書  ルカによる福音書 第11章 1節
今日のみ言葉は、イエス様の祈りを見て弟子たちが「私たちにも祈りを教えて下さい。」と願ったことです。 私たちは、信仰の先輩たちと一緒に祈るとき、「ああ、何と素晴らしい祈りだろう。私もあんな祈りができないものか。」と思わされることがあります。イエス様の祈りは、天の御父との語らいですから、それを見聞きした弟子たちが、主の祈りの姿の麗しさ、力強さ、素晴らしさに引き付けられました。
 ある時、こう言った人がいます。「若い時に英語をやっておけばよかった。外国旅行の時に不便でね!でも…これで結構、世界中を回って来た!」「祈りが出来たらよいのに!でも… それでなくても、結構やっていける!」 あなたも思っていませんか? この箇所の弟子たちの願い、たわいもない願いと思ってはいけません。彼らの願いは、助けを求める叫びです。「主よ。祈りなしには進めません! でも、私たちは正しく祈れないのです!助けてくださいませんか‼」  
 祈りなき人は、霧の中で無線が故障した飛行機のようです。あらゆる悩み、不安を一人で身に負わなければなりません。唯一の救助者に無線連絡もしない、困ったことです。が、意外にも人はそれに気づきません。祈りなき人は、神様にとっては死人も同然です。愛する人の亡き骸を前にしたことがあるでしょう。もう一度ことばを交わせたらと思います。が…もう、ひと言も話してもらえません。 主は私たちと重大な話をしようとされますが、私たちは話すことをしません。祈れません。聖書はこれを「死んでいる」と言います。
    祈りなき人は、かげろうと同じです。やがてさばきの日に、神様の前に立つと神は仰せになります、「わたしはあなたを知らない。あなたの口から一度として願いや感謝の言葉を聞いたことがない。ここに来なくてもよい。あなたは、私のいない所へ行けばいい。自分で選んだ所、暗闇の世界へ行くがよい」このことを悟るなら、弟子たちの切実さを理解します。

2019年11月17日日曜日

礼拝メッセージ  2019年 11月17日
説教題 「感謝は勝利の秘訣」
  書  コロサイ人への手紙 第2章 6~7節
徒然草 第百二十三段
「思うべし、人の身に止むことを得ずして営む所、第一に食う物、第二に着る物、第三に居る所なり。人間の大事、この三つに過ぎず。飢えず、寒からず、風雨に侵されずして、閑(しず)かに過ごすを楽しみとす。ただし、人皆病あり。病に冒されぬれば、その愁(うれ)い忍び難し。医療を忘るべからず。薬を加へて、四つの事、求め得ざるを貧しとす。この四つ、欠けざるを富めりとす。この四つの外を求め営むを奢(おご)りとす。四つの事倹約ならば、誰の人か足らずとせん。(吉田兼好著)
 この言葉の中に、しみじみとした吉田兼好の「万物有情」への感謝があります。現代は不足を知って、足ることを知らない「餓鬼道」時代です。しかし、このような時代の中にあって、私たちは、深い感謝をもって生きられるのは、主の救いを受けたおかげであり、信仰の賜物です。
 主イエス・キリストを受け入れた者には、深い感謝があります。その感謝は、たましいの底から湧き出てくる感謝です。キリストに根ざし、キリストと共に歩き、キリストに教えられ、キリストにあって建てられてゆく「信仰生活」には、はっきりとした「聖霊様の助け」があります。御霊の臨在有るところには平和と感謝があります。感謝は勝利の秘訣です。感謝のない心、感謝のない時間は、サタンの踏み込む危険な瞬間となります。
「主イエスを喜ぶことは、あなたの力です。感謝をささげることは、あなたの力です。」「感謝をささげる事は、素晴らしい喜びがある。主は傷ついた心、いやし包む。我らの感謝を、救い主にささげる。その憐れみゆえに」

2019年11月10日日曜日

礼拝メッセージ  2019年 11月10日
説教題 「悩みと慰め」
  書  詩篇 第34篇 19節
相田みつを さんの詩集「人間だもの」の中に「悩みは尽きねえんだな、人間だもの」とあります。ダビデの歌と書いてあるこの詩篇34篇にも「正しい者の悩みは多い。しかし、主はそのすべてから彼を救い出される」(新改訳19節)とあります。
 そこで問題になるのが、悩みすぎて健康を害したり、悩みに埋没して前に進めなくなるのは、大きな人生の損失です。神様は、すべての地球の生命に燦燦と光と熱を与えて命に輝きを下さっているのに、笑顔が戻らないのは希望に生きないのは、ある意味で罪なのかもしれませんね。人は笑顔で生きる義務がある、と言うと強引でしょうか。
 さて、この詩篇1節でダビデは「わたしは常に主をほめまつる。その賛美はわたしの口に絶えない。」と言います。ダビデは、度々の戦いで手柄をたて、イスラエルの民に人気が高まりました。そのためサウル王のねたみを買い命を狙われました。敵であるペリシテ人の地に逃れ、狂人のふりをし命拾いしました。ダビデは、心の中で主に助けを求めたのでしょう。そして主は彼に答え、彼のすべての恐怖から救い出してくださいました。
 この中で詩人は、「彼らが主を仰ぎ見ると彼らは輝いた」(5節・新改訳)とうたっています。全世界の悩みを一身に背負ったような重苦しい顔をして教会に来た人で、イエス様を信じ主を仰ぐようになると、その人の顔が輝くような顔に変わってしまう人が何人もいます。主を仰ぐとき、その人の顔は輝いて来ます。しかし、輝きを保つには、ずっと見続けることが必要です。

2019年11月6日水曜日

礼拝メッセージ  2019年 11月3日
説教題 「洗足」
  書  ヨハネによる福音書 第13章3~5節
今日のみ言葉は、イエス様の最後の晩餐の席での出来事です。
イエス様は、上着を脱ぎ、手ぬぐいを腰にまとい、自ら たらいを取って
弟子たちの足を洗われました。「洗足の物語」は、読む者に深い感動を与えます。「主であり、また教師である私が、あなたがたの足を洗ったからには、あなたがたもまた、互いに足を洗い合うべきである。わたしがあなたがたにした通りに、あなたがたもするように手本を示したのだ。…もしこれらのことが分かっていて、それを行うなら、あなた方は幸いである」。(ヨハネによる福音書1417節)
 12弟子の足を洗われた主は、今わたしたちの、けがれた足をも洗っておられます。この霊的事実に目覚めるとき、私たちも、極度のへりくだりをもって、主が示されたその「手本」にならいたいものです。「洗足」の精神は、主の恵みにあずかる秘訣です。
「われらの足を洗い給う神」のお姿を、今も、私たちは、全世界に見ることができます。それゆえ、私達も互いに足を洗い合うべきです。 
 「もしこれらのことがわかっていて、それを行うなら、あなた方は幸いである」と主は十字架の死を前にして、わたしたちに、この「手本」をお示し下さいました。なんと崇高なお姿でしょうか。お互いがこの世の生活でつけた泥を洗い落とし合う交わりです。ペテロは、「主のためには自分は命も捨てます」と言ったが、その夜のうちに三度イエス様を知らないと言ってしまうように、人の真実さなど頼りになりません。へりくだって主のみ言葉に聞き、主の愛をいただいて互いに愛し合い、足を洗い合って、主の教会を建て上げましょう。

2019年10月14日月曜日

礼拝メッセージ  2019年 10月13日
説教題 「神の民の少数派」
  書  士師記 第7章6、7節
   ギデオンは、たった300名で、巨大な浜辺の砂粒のように思えたミデヤン人の陣営を攻め、イスラエルの国を解放しました。神様は、多くの場合、少数派とともに働いて来られたことを聖書は語ります。民主主義は多数を必要とします。しかし、神様は少数派でも満足しておられるかのようです。
 ですから、たとえ少数派の一人となっても落胆してはいけません。ギデオンの300人、12弟子のことを思い起こしましょう。また、サウルの子ヨナタン王子と道具持ちの若者のことも覚えます。(サムエル記上146) ヨナタンは、道具持ちを励まして言いました。
「さあ、われわれは、この割礼なき者どもの先陣へ渡って行こう。主がわれわれのために何か行われるであろう。多くの人を持って救うのも、少ない人を持って救うのも、主にとっては、なんの妨げにはならないからである」。 こうして、ギデオンと300人はミデヤン人の陣営を破り、少年の、二匹の魚と五つのパンで5000人養い、弟子たちも恐れ驚嘆した「風も波も従わせられるお方」である主、ヨナタン王子と道具持ちの若者はペリシテ人を打ち、主イエス・キリストの十二弟子は、当時の世界をひっくり返したのでした。
 私たちも少数派であっても、神様が共にいてくださり、無から有の神、あえて少ない数で戦いを求められる神様の御心を受け、少しで少数派をもって、世の中に大胆に神様のみ旨を知らせ語り神の国を築きましょう。神様は日本の少数のクリスチャンを用いて、この国をこの町をひっくり返そうとしておられるのかも知れませんね。

2019年9月15日日曜日

礼拝メッセージ  2019年 9月15日
説教題 「私を強くしてくださる方」
  書  ピリピ人への手紙 第4章11~13節
パウロは13節で「私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでも出来るのです」。この個所を別の訳では「私は、私のうちに力を注ぐお方にあって、どんなことでも出来ます」。「私は、私のうちに内住するお方の力を通して、何でもする準備が出来ています」。「私は、私に力を与えてくださる方にあって、すべてのことをする強さを持っています」。
私達は、経済状況の変動ばかりでなく、自然災害や、生活環境、仕事の環境などが変わると、そこで焦燥感やストレス受け、自分を見失いそうになります。喜びもなく、思い煩いや不安ばかりが増し、憂鬱になってきます。
 パウロは、ほかの聖徒の誰よりも苦難を味わい、逆境に次から次へと見舞われた人です。でも人生の敗北者になりませんでした。パウロは、「私を強くしてくださる方」、すなわち、キリストに心をいつも向け、このお方に依存し、根ざし、このお方とのしっかりとした、いのちの結合を持ち、このお方と交わり、より頼んでいました。パウロにとってキリストは生活の生ける現実でした。
 13節のみ言葉に注意すべきことは、「どんなことでも」というのは、「私のしたいことすべてのこと」ではなく、「私がすべき、どんなことでも」という意味です。このみ言葉は、自己中心的願望達成のために悪用されることがありますが、そういうことではありません。「み心が天で行われるように、地でも行われますように」という精神の中で、「主がともにいてくださるから、それは必ず出来る。だから強く雄々しくあれ」と聖書は勧め励ましています。

2019年9月2日月曜日

礼拝メッセージ  2019年 9月1日
説教題 「信じる者の叫び」
  書  列王記下 第4章1、2節
この列王紀4章は、エリシャの奉仕の記録です。27節にあるようにエリシャは、主のお言葉で成すべきことを知り、主のお言葉通りに行動しています。このことをよく見ますと、これらの記録はエリシャの働きではなく、エリシャを用いてなされた、主ご自身のみ業であることが判ります。
 ここに見る、「未亡人と預言者の会話」は、昔の話だけでなく、現代の私たち周辺でも時々見られる「家庭悲劇」の様子です。その未亡人の苦しみと、その子供たちの悲しみを、最もよく知っておられたのが神様だ、と聖書は無言のうちに語っています。
 私たちは、このような「愛の奇跡」を信じる時に、どのような闇の中にも、神様の愛を仰ぐとき、光を見い出すことが出来ます。一びんの油から無限に恵みの油があふれ流れたように、また神様の愛と憐れみは、主を信じる者の上に、無限に注がれていることを確信できます。
「あなたのために何をしましょうか。あなたの家に、どんな物があるか、言いなさい」これは預言者エリシャの言葉ですが、同時にまた、神様の声でもあります。 不可能を可能とし、無から有を呼び出される神様が、未亡人の家庭をお救い下さったように、主を信じる者の叫びにも、あわれみの手を延べてくださることを聖書は言わんとしています。
 主なる神様は今も、「あなたのために何をしましょうか」と尋ねておられます。あなたの心の重荷を悲しみ苦しみを、主に申し上げましょう。主は信じ求める者を決して、いつまでもその苦しみを不条理を、そのまま放置なさいません。

2019年8月26日月曜日


礼拝メッセージ  2019年 8月25日

説教題 「主に申し上げよ」

  書  コリント人への第1の手紙 第10章13節

この個所は伝道者パウロが、初代教会のキリスト者を慰め励ますために書かれた手紙です。今の時代の人々も、試練のない人生などありえません。ましてや、キリスト者として神様の御心に従って生きようとすれば、するほど、そこに戦いが出て来ます。

1.試練とのがれる道 神様は、二つセットでご自分の計画を遂行されます。神様は、私たちの試練を、私たち以上に、良くご存じです。だから、必ず「逃れの道」も計画しておられると聖書は言います。ならば「逃れの道のない」試練はありえない、ということになります。愛と恩寵なる神様は、逃れの道も用意して、なおかつ、耐えられないような試練も与えられない、お方です。しかし、私たちを訓練するために、逃れの道が、どこにあるかを、お示しにならないことがあります。私たちが、無策の策で、すべてを主に委ねることを求められることがあります。どんなに大揺れの試練の日にも、主のみつばさの陰に宿る時は、平安が与えられます。

2.主に申し上げる 主にある皆さん、一人胸を痛めず、主にあなたの心の重荷を、ためらわないでおろしてください。そして、こころゆくばかり、あなたの願いを、愛なる主に申し上げてください。私たちクリスチャンには祈るという道が開かれています。主は聴いて下さる、と約束されています。答えがすぐに来ないかも知れません。しかし、あなたの魂からもれた、ひと言、ひと言は、決して、地には落ちません。試練を信仰の目でみて行きましょう。そこには、たしかに主のみ手、お働きがあるのですから。

2019年8月19日月曜日

礼拝メッセージ  2019年 8月18日
説教題 「ひざをかがめた祈り」
  書  エペソ人への手紙 第3章14~16節
今日のエペソ人への手紙は、パウロにより獄中で書かれたものです。冷たい牢獄の石だたみに、ひざまずくパウロの心境を思う時、何か身の引き締まるものを感じます。
 膝をかがめることは、恵みであり、力であり、慰めであり、主のみ前に出ていることになります。 膝をかがめない時には、私たちの魂は、痩せ衰え、無気力となり、魂の感受性が鈍くなってしまっています。 しかし、膝をかがめると、理屈なしに天が開けます。膝をかがめると、み言葉が開けて来ます。そして、神様の働きが、あらゆる角度から示されて来ます。膝をかがめることは、迷信ごとではありません。私たちが、膝をかがめないために、どんなに主を悲しませて来たことでしょう。そればかりか、膝をかがめないために、自分のみにくさや、汚れの露出に気付かなかったことがしばしばです。でも、ひざまずく時、おのずと魂はきよめられて行きます。
 アフリカの宣教師のリビングストンは、膝をかがめた祈りの姿で、天に召された、と言われています。なんと崇高な姿でしょうか。 私たちも、忙しければ忙しいほど、機会、チャンスをとらえて主の前にひざまずきましょう。これは信仰を霊的にする秘訣です。ひざまずかない一日は、なんと無味乾燥な一日となっていることでしょう。機会を見つけ主の前にへりくだる、ひざまずく時を一日一回は、必ず持ちましょう。そうすれば、あなたの人生に感謝があふれ、心の平安を取り戻し、力に満ち溢れ、人生の荒海がおそってもそれを乗り越える勇気と希望が与えられます。

2019年8月7日水曜日

礼拝メッセージ  2019年 8月4日
説教題 「途方にくれても行き詰まらない」
  書  コリント人への第二の手紙 第4章8~10節
私たちは、人生の歩みがいつも順調に運び、幸せに満ち、 バラ色に輝くものであってほしいと願っています。 私もそうであってほしいと願っています。 ところが、たちの歩みはいつも順風満帆に運ぶ というわけにはいきません。幸運に恵まれる時があれば、 思わぬ困難や逆境に直面することもあります。山あり谷ありです。 事柄がうまく運んでいる時には、私たちは自分の力を 過信してしまい、友人の協力を必要としなくなります。 それが一旦、大きな困難に直面したり、逆境に陥ったりすると、 自分の力のなさをいやというほど味わされます。 世の中には自分ひとりの力ではどうしても解決しない 問題があることに気付かされます。
 今日の聖書の箇所は、人生の一番困難、試練に直面した人が何を頼りにし、どこに根拠を置いて失望と立ち向かう力を得たかを示したものです。聖書は、パウロが、弟子や使徒たちが、福音を伝え、初代教会を造っていく有様が書かれています。パウロはその中心的な人物で、彼によって多くの教会が生まれました。 パウロは『ローマ信徒への手紙』や『コリント信徒への手紙』など、新約聖書13書簡を書いています。初代キリスト教会の布教に。大変よい働きをした人です。
ところが、別の面から見て彼ほど困難に直面した人はいませんでした。 キリスト教の布教は順風満帆の道筋を歩むことができず、伝道者はいたるところで迫害を受け、困難に直面しました。パウロはその最たる人であったといえます。迫害どころか、海難事故に遭遇したり、牢獄に放り込まれたりしました。 しかし、決して挫けませんでした。倒れても立ち上がり、人々に福音を伝えました。外から見れば絶望的な状況にあっても、ギブアップしませんでした。その力はどこから 来たのでしょうか。絶望的な状況の只中にあってもパウロは 行き詰らず、窮しなかったのは、神様を信頼していたからです。 いかなる時にも神様が共にいて下さり、支え、力を与え、希望を 与えて下さることを信じていたからです。「わたしたちは、 四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても 失望せず・・・」。神を信じるパウロはあらゆる困難に耐え、克服できる底力を与えられたのです。絶対者への信頼が、この底力をもたらせたのです。
桜美林大学の創立者・清水安三先生の愛誦聖句も、これでした。「せん方つくれども希望を失はず」。この聖句に 幾度も鼓舞されて草創期の学園の経営に尽力されたと聞いています。 清水先生は、パウロの苦難を思いつつ、しかも、彼の信仰に 倣っていかなる時にも神様を信頼し、不思議な力を与えられて 歩んだのです。 人生が順調に運んでいる時、ともするとわたしたちは 神様のことを忘れてしまいます。かえって苦難にある時に、神様の力添えと救いを信じることができるとしたら、苦難や 試練には大きな意味があるのかもしれません。
皆さんの人生が順調に運ぶことを願いつつ、しかし、苦難に ある時こそ神様一番身近にいて、本当の希望を与えて 下さることを心にとめたいものです。

2019年7月22日月曜日

礼拝メッセージ  2019年 7月21日
説教題 「彼はいま、祈っている」
  書  使徒行伝 第9章10~15節
今日の使徒行伝第9章は、教会を迫害していたサウロに主から声をかけられ、主の弟子と選ばれた記録が記されています。(19節)
 そして復活の主が、ダマスコにおいてアナニヤに語られたお言葉が10節以降です。「彼はいま、祈っている」なんと厳粛な言葉でしょうか。主はすべてをご存じです。いま主は、迫害者サウロの中に伝道者パウロを、見られたのでした。それは、パウロが主のみ前に、心砕かれて祈る姿を見られたのです。
人間には、人々は誰も、想像も出来ないことでした。しかし、主は祈るパウロをご存じでした。
「彼はいま、祈っている」、これは、初代教会へ、パウロを推薦された主キリストのお言葉です。
 第一に、主に救われるということは、主の器とされることである、という事実です。主はサウロをご自身のために用いようとして救われたのです。聖書の示す人間の栄光は、主の信任を受け主のみ心を行うことです。芸術や学問、教育や事業、病人や家族に生涯を捧げることを尊いとするのが人間です。であるならば、神様に生涯を捧げる光栄がキリスト者は判っていい筈です。
 第二に、主に使命に生きる人生は、迫害に直面するということです。サウロは主のために働き出すとすぐ迫害され、教会の人々からも、すんなりとは受け入れてもらえませんでした。加害者サウロが今度は被害者の側に立つようになりました。主キリストを憎んでいた者が、主キリスト様と同じ立場に立ったのです。ルカは、このことを「教会の前進」と言いました。教会の前進とは、主のしもべが生まれることです。
 次に使徒行伝第12章4-5節には、み使いのペテロ救出とヘロデ王が神に栄光を帰さなかったために虫にまれて死んだことが記されています。「教会では熱心な祈りがささげられた」と、初代教会は「祈祷と宣教」の歴史です。一夜明ければヘロデに殺されるペテロのために、教会は夜を徹して男も女も老いも若きも心を一つにしてとりなしの祈りをしました。ペテロが神の栄光を表して殉教出来るように、と。 しかし、主は人々の祈りにペテロの救出という奇跡をもって答えられました。主は私たちの願いをはるかに超える答えをくださいます。主に祈る時、すべてを主に委ね、大きなことを期待して祈りましょう。

2019年7月14日日曜日

礼拝メッセージ  2019年 7月14日
説教題 「最善と最悪」
聖 書 ローマ人への手紙 第8章28節
座右の銘とする人も多い「人間万事塞翁が馬」という格言があります。「塞」とは「とりで」で「翁」とは「老人」のことですから「塞翁」というのは、国境の砦の近くに住んでいた老人ということになります。
 ところで、この老人の馬がある時逃げ出し国境を越えて胡(えびす)の方へ行ってしまいました。近所の人が気の毒に思って見舞いに行きますと、塞翁は平気な顔で「ありがとうございます。しかし、これがどんな幸せを呼ぶかわかりません」とすましていたのでした。案の定、それから数か月たつと、逃げた馬が立派な胡の馬を引き連れて帰って来ました。近所の人々が、今度は喜びに行きました。すると塞翁は、別に喜んでいる様子もありません。そして、「なあに、これがまた、どんな不幸の種になるとも限りませんからね」と言うのです。
 ところが、やはり確かにその通りで、老人の息子が馬好きで、それに良い馬が来たと言うので喜んでそれを乗り回しているうちに、落馬して足を折り、生まれつきのような足が不自由な者になってしまったのです。さあ、今度はさすがの老人も悲観しているに違いないと近所の人々が見舞いに行きますと、老人は相も変わらず、別に苦にした様子がありません。そして、「今度のことがまた、どんな幸いになるかもわかりませんよ…」と言うのです。不思議なことに、それから一年ほどたった時です。胡の軍勢が要塞を超えて攻め込んで来ました。その時、要塞の付近の若者たちは一人残らず戦争に駆り出されては、ほとんどが戦死してしまいました。しかし、その老人の息子だけは、足が不自由であったために召集を免れ、親子ともども生き残ったというのです。
 これが「人間万事塞翁が馬」の話ですが、およそ人生はこういったものとの格言です。だから福が来たからと「有頂天」にならず、また災いが来たからと
悲しむのはよくないとの教えです。
 しかし、聖書の神様の教えは、全く違います。使徒パウロは「神は、神を愛する者たち、すなわち、ご計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を益となるようにして下さる」と確信をもって言います。「神にある人間万事これみな益」だと聖書は語ります。不幸と思われる病気も事故も、いえ最悪と思われる死でさえキリスト者には益となるのです。

2019年7月9日火曜日

礼拝メッセージ  2019年 7月7日
説教題 「罪の赦しと永遠の命」
聖 書 箴言 第6章6~8節
今日のみ言葉は、あの有名なイソップ物語の「アリとキリギリス」の童話を思い起こします。
 このイソップ物語は、自然科学的には間違いもあると言われますが、「アリのところへ行って学びなさい」というのが、今日の箴言のみ言葉です。アリは勤勉なものの代表です。アリがどんなに自らのために備えをするか、よく見ていると分かります。アリには、働くために命令したり、取り締まったり、監視したりする者は別段いませんが、真夏の暑さをいとわず、忙しく食物を集め、冬の必要に備えるため、注意深く運んでは蓄えるのです。
 それは、私たちに勤勉を教えているだけではありません。それは、私たちに、未来のための備えをすべきことをも、教えるのです。とは言っても、単に老後の備えを、ということではありません。もちろん勤勉に働いて老後の備えをすることも大切です。しかし、それよりももっと大切なことは、来世のための備えをせよ、と聖書は教えています。
 死は思いがけない時にやって来ます。聖書のアリの教えをもって知恵を得ましょう。人生の夏のうちに、悔い改めて救い主キリストを受け入れ信じ、罪の赦しと永遠の生命を自分のものとしておくこと。そうすれば、冬のような死がやって来ても、キリギリスのように泣くことはありません。
 「死に至るまで忠実であれ。そうすれば、あなたに命の冠を授けよう。耳のある者は、霊が諸教会に告げることを聞くがよい。」「わたしは、あなたの行いを知っている。見よ、わたしは、あなたの前に門を開いておいた。だれもこれを閉めることは出来ない。あなたは力が弱かったが、わたしの言葉を守り、わたしの名を知らないとは言わなかった。」(ヨハネの黙示録2章10節、3章8節)

2019年6月26日水曜日

礼拝メッセージ  2019年 6月23日
説教題 「参加すべき競争」
聖 書 ヘブルへの手紙 第12章1~3節
2020年、東京オリンピックが1年1か月後にひかえて、先週入場券の申し込み結果が発表されました。 よく「参加することに意義がある」と言われ、人種、宗教を超えて世界中の若者が、メダル目指して競争します。 東京オリンピックは、平和国家を宣言している日本が開催するので、「世界平和のための祭典」とも言われています。
 さて今日のみ言葉は、人生を「参加すべき競争」と言っています。私たちは、どういう姿勢でこれに参加すべきでしょうか。 
 第一に、一節に「私たちは多くの証人に囲まれている」と呼びかけています。 神様は、長いリレー競争をさせておられるということです。信仰の先輩たちは、それぞれの受けもち区間を走り終えて次の走者に、信仰のタスキを渡し、スタンドに登って走者に声援を送っているということです。 リレー競争ですからゴールインするのは最終走者だけです。前に走った人々にとっては、後に走る人々がしっかり走ってくれないと自分が頑張ったことが無駄になります。ですから精一杯の声援を送っているのだと言うわけです。 私たちの信仰は、私個人のものではなく、私たちがしっかり走らないと、先輩の労苦を無駄にしてしまうことなのだ、そのことを悟って、いっさいの重荷とからみつく罪を捨てて、忍耐をもって走り抜かねばならないのです。
 第二に、しっかり「走り抜く秘訣」が記されています。 2~4節、信仰の創始者、完成者であるイエス様から目を離さないこと。 5~13節、困難があったら愛の訓練と思って耐え忍ぶ。 14~17節、教会の友との平和と自らのきよめに努めること。 26~29節、私たちは揺り動かされないみ国をうけているのだから、感謝し慎みと恐れをもって神様に仕えて行こう。 今日私たちは、文字通り最終走者です。先輩の声援を受けています。この秘訣で走り抜きましょう。

2019年6月17日月曜日

礼拝メッセージ  2019年 6月16日
説教題 「天国に行くためには」
聖 書 コリント人への第一の手紙 第15章20~22節
今日のみ言葉は、使徒パウロがコリントの教会に宛てて書いた手紙の一節です。コリントの教会は、パウロが大変な苦労をしながら伝道旅行し、その中で生まれた教会のひとつでした。 パウロがコリントの人々に最も大切なこととして伝えたのは、「キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書の示すとおりに、三日目によみがえられたこと」(第一コリント153-4)でした。 キリストの死と葬りと復活の3つを信じること、これが福音の三要素です。 
 ところが、コリントの教会の中に「死者の復活はない」と主張する人々が出てきました。パウロはこの手紙で、復活否定論に反論しています。その論点を要約するなら、次の2点です。
 
 1. 一つは、キリストの復活を信じることは、信仰の実質です。キリストの復活を信じる人は、もはや自分の罪の中にいない、と約束されているからです。
 
 2. 二つめは、罪の問題が解決された人に用意されているのは、死者の復活です。それは神の国に入るためです。神の国とは、キリストが王となって支配される平和と正義の国です。 キリストを信じる者は、死者の中からよみがえって、神の国の民となるという希望を持つ者です。
 ここで、キリストの復活は「初穂」という表現がされています。初穂があるということは、後に続いて多くの者が復活するということを表しています。
あなたも福音の三要素を信じ、神様の無罪宣言をお受けになりますようにお祈りいたします。

2019年6月6日木曜日

礼拝メッセージ  2019年 6月2日
説教題 「試練とのがれる道」
聖 書 コリント人への第一の手紙 第10章13節
 この箇所は、伝道者パウロが、初代教会のキリスト者が耐えられないような迫害に直面した時、彼らを慰め励ますために書かれた手紙です。
 試練のない人生などありません。ましてや、キリスト者として神様のみ心に従って生きようとすればするほど、そこには戦いが生まれます。しかし、どんなに苦しくても、神様に従って生きることは、尊いことです。
 神様は、私たちの試練を、私たち以上にご存知です。だからこそ、試練と同時に、のがれる道をも備えてくださるのです。しかし、私たちを鍛錬するために、のがれる道がどこにあるかを、お示しにはなりません。どんなに大揺れに荒れる試練の日にも、無策の策で主におゆだねしつつ、みつばさの陰に宿ることが平安の秘訣です。
 愛する兄弟姉妹、ひとり胸を痛めず、主にあなたの心の重荷を、ためらわず降ろしましょう。そして、こころゆくばかり、あなたの願いを主に申し上げましょう。主は、あなたの涙の祈りを聞いていてくださいます。応えがすぐに来なくても、あなたの魂からもれた、ひとこと一言、涙の祈りは、決して地に落ち消え去ることはありません。
 試練は、信仰という眼鏡をかけて見る時、主のご計画とあわれみ、主のご愛と支えが見えて来ます。
礼拝メッセージ  2019年 5月26日
説教題 「主の御言葉に権威」
聖 書 マタイによる福音書 第8章5~13節
 マタイは、この章から次章にかけて、主のみ業を記録しています。これらのみ業は、色々な機会になされたことが引照から分かります。マタイは、まとめて記して、主のみ業全体を把握出来るようにしていると考えられます。
 主は七章の山上の説教において「権威ある者のように、教えられました」。今日の箇所では、イエス様の権威がすべてのものの上に及んでいることが、具体的な例を持って示されています。
 第一に、らい病人のいやしです。らい病人は汚れた者とされ、人から隔離されていましたが、彼は主のご愛とみ力を信じて、あえて近づいて来て懇願しました。「「主よ、御心でしたら、きよめていただけるのですが」。主の能力を信じつつも、自分の罪と汚れを認めて「御心でしたら」と、謙遜して言います。主は「手を伸ばして、彼にさわり」一言のもとに癒されました。主は、ひと言の言葉だけによっても癒すことがおできになれますが、特に手を伸ばして、この病人に触れられたのは、主の愛を示す行為であったと思われます。
 第二に、中風のいやしです。百卒長は、その僕の中風がいやされることを願って来ましたが、わざわざ来ていただかなくても「ただお言葉を下さい。そうすれば僕は治ります」と言います。百卒長はローマの軍人です。異邦人でありながら、このような厚い信仰があることに、主は非常に感心され、「行け、あなたの信じたとおりになる」と言われました。その時、僕は癒されたのでした。(813節) ここで、信仰ある人の祈りが人を救うことを学ぶと共に、み言葉が信仰の根拠であることも学びます。(詩篇10719,20節) 次に、ペテロのしゅうとめは、熱病が癒されるや直ちにイエス様に仕えました。ここで主のいやしが即刻完全であることを知ると共に、癒された者の感謝が自然に奉仕となって表れることを知ります。

2019年5月21日火曜日

礼拝メッセージ  2019年 5月19日
説教題 「勇敢であれ、勝利の主」
聖 書 ヨハネによる福音書 第16章33節
主イエス様は「あなたがたは、この世では苦難(なやみ)がある」と言われます。 私たちすべての苦難、悩み、苦しみ、病、死をイエス様はことごとく知っておられます。 主イエス様は人となられて自らも同じような、もっと辛い経験をされました。「この大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではなく、罪は犯されなかったが、あらゆる点において、私たちと同じように試練に遭われたのです」(ヘブル4:14-15)とある通りです。
 イエス様は私たちに「しかし、勇気を出しなさい」と言われます。 主は私たちと共に忍び、耐え、悩み、苦しみ、私たちの背負う重荷を共に負ってくださいます。 
 弟子たちは、イエス様の言葉によって、どのような状況に直面しても、心に平和が与えられ、勇気を出すことが出来る者とされます。 主の受難も十字架も、栄光への道であり、イエス様の天への帰還は、勝利への凱旋でした。 そのことを確信して弟子たちは、私たちは、イエス様と同様、雄々しく生きることが出来るのです。
 この勝利者イエスを信じる事によって、イエス様の勝利が今も生きて、世に勝たれた主として私たちと共に歩んでくださいます。 このキリストと共にある生活、キリストに支えられる生活、キリストと共にいることを目指す生活こそが、私たちを支え、力づけ、世に勝つ道なのです。
 
「世に打ち勝つ勝利、それは私たちの信仰です。だれが世に打ち勝つか、
それはイエスが神の子と信じる者ではないか。」 (ヨハネ第一5:4-5

2019年5月18日土曜日

礼拝メッセージ  2019年 5月12日
説教題 「揺るがないクリスチャン」
聖 書 コロサイ人への手紙 第2章6~12節
私たちを責め立てる債務証書の無効
▼私たちは、イエス様から離れては、決して神様を知ることが出来ません。イエス様の内にこそ、神様の満ち満ちたご性質がかたちをとって宿っているからです。
 私たちは、バプテスマによってイエス様と共に葬られ、肉のからだ、すなわち罪深い古い人を脱ぎ捨て、イエス様と共に甦らされました。これによって神様は私たちの全ての罪を赦してくださいました。 そればかりか、私たちの罪状が記された「債務証書」を十字架に釘づけにして無効にしてくださいました。十字架の力によって悪の勢力は無効になり、私たちは二度と罪に定められることはありません。(ローマ81
 イエス様のうちにある者は、すべて新しい被造物です。主イエス様と一つになった私たちは、勝利の人生を歩むことが出来ます。
 主イエス様のうちに根を深く下ろし、信仰の道をしっかりと歩ませてください。 世の流れに流されないように主に捕えられ、霊的に目覚めて偽りを見分けることができますように。
礼拝メッセージ  2019年 5月5日
説教題 「弱いと強い」
聖 書 ペテロ第一の手紙 第1章1~7節
▼(序論) この手紙は、主の一番弟子、使徒ペテロから教会初期の迫害(使徒8章)のために小アジアの各地に散って寄留している、キリスト者たちに宛てられた手紙と思われます。 当時、まさに到来しようとしていた火のようなネロ皇帝の大迫害を前に、彼らの信仰を堅固にし、励まし慰めるために記されたものです。
 
▼(本論) ローマ帝国の迫害をうけていた時、教会はローマをバビロンと呼びました
513節)。 2節でペテロは、キリスト者を神に選ばれた人々と呼んでいます。
 1. 父なる神様に選ばれた私  父なる神様に認められ、聖霊様により、きよめられて、み子イエス・キリスト様に従い、かつその血の注ぎかけを受けるように選ばれている、と言っています。 三位一体の神様、すなわち父なる神様の予知と選び、キリストのあがない(血のそそぎ)、そして、聖霊(御霊のきよめ)です。 私たちの救いは、父なる神様の選びによって始まり、キリストの血によってあがなわれ、聖霊の聖潔(きよめ)によって完成されました。 この神様の働きによって(新たに生れさせ)られた(3節)だけでなく、(生ける望みを)いだかせてくださいました。 すなわち、キリストの復活により私たちも必ずよみがえる。これは、私たちの生活を活気づけ、いのちあるものとするので、(生ける望み)と言われます。世の人の望みは、物質か境遇によるもので「死んだ望み」であるが、私たちの望みは「生ける望み」です、とペテロは語ります。
 
 2. 弱いからこそ強い  パウロも第2コリント12章で「わたしの力は、弱いところに完全にあらわれる。だから、キリストの力が宿るように、むしろ喜んで自分の弱さを誇る。私が弱い時にこそ、私は強い」と語りました。 ペテロは、イエス様を三度「知らない」と言ってしまった、痛烈な失敗から立ち直らせて頂いた経験から、ネロ皇帝の大迫害から、ローマから逃れ都落ちし、落ち込んでいるキリスト者を力づけ慰めたかったのでした。 ルカ2232節「シモン、シモン、私はあなたの信仰がなくならないように祈った。あなたが立ち直った時には、兄弟たちを力づけてやりなさい」との主の言葉が頭から離れず、ローマから逃れたキリスト者たちを励まさずには、おれなかったのでしょう。
 
▼(結論) 私も体調を崩し、力のなさ奉仕への障害を感じ落胆しました。その時、今日のみ言葉により、弱いときにこそ強いこと、自分が弱い時にこそ、主が働かれることを感じました。 だから、弱さを受け入れ誇り、主により頼みます。

2019年4月16日火曜日

礼拝メッセージ  2019年 4月14
説教題 「心に十字架を」
聖 書 ヨハネによる福音書 第19章1420
序論) 今週は主が十字架につけられた週、受難週です。そしてこのヨハネ19章は、主の十字架のみ業を記録した章です。心を静め思いを聖別して、主が成し遂げてくださった救いの道に心を留めましょう。 総督ピラトはユダヤ人の敵意に太刀打ちできず、ついに主を十字架につけるべく引き渡しました。私たちはここに、人間の世の中には、正義を守る力がないことを、はっきり示されます。ピラトは、イエス様に罪を認めることが出来ないので、主を守ろうと努めたのですが守れなかったのです。
 
(本論) イエス様が十字架に渡された日は、過ぎ越しの前日でした。ピラトは早朝から裁判を行います。
 1. 人類の救い、裏切り、主の愛  イエス様は、私たちのために嘲りを黙々と受けられます。昼の12時頃、ピラトは嘲笑をこめて「さ、あなた方の王です」と言います。 ユダヤ人たちの前に立つイエス様の姿は悲惨なもので、人に敬い慕われるようなメシヤの姿ではありませんでした。(イザヤ53)。「カイザルの他には、私たちの王はありません」という叫びは、唯一の王である神様を拒み、ローマ皇帝に仕える者だと自任するものです。神の御子を拒むことは、神様を裏切ることです。このように、人類の救いは、裏切り者さえも赦された主の愛によって全うされます。
 2. ゴルゴダの十字架、神の最高の愛  十字架は、王の王であるイエス様の謙遜と従順のクライマックスです。人類を救うために、イエス様は「ご自分で十字架を負って」ゴルゴダに行かれ、十字架につけられ、「死さえまでも」父なる神様の御心に従われます。ピラトは罪状書きに、ヘブル語とラテン語、ギリシャ語で「ユダヤ人の王ナザレのイエス」と書いて、十字架の上に掲げます。ユダヤ人たちは、真の王であり大祭司であるイエス様を否定し、死に追いやりましたが、神様は、ローマ人やユダヤ人たちの言葉を通してイエス様が王であると宣言し続けられます。
 
(結論) ゴルゴダに立った十字架は、人類に対する神様の最高の愛です。その愛を受け入れる者は、だれでも、罪赦され救われます。 群衆の中にまぎれて「主を十字架につけろ」と叫んでいる者の一人が、自分ではないかと思わされます。かたくなな私を活かすために、十字架の恥と苦しみを受けてくださった主よ! 日々私自身を十字架につけ、自分の十字架を負って主に従うことが出来ますように。

2019年3月17日日曜日

礼拝メッセージ  2019年 3月17日
説教題 「望みのある未来」
聖 書 ヤコブの手紙 第1章1~5節
(序論) ヤコブの手紙は、特定の教会や特定の聖徒に書かれた者でなく、クリスチャン一般に読まれるように書かれた手紙ですので、公同書簡と呼ばれています。
作者ヤコブは、マリヤがイエス様を生んだ後ヨセフとの間に出来た子どもたちの一人です。(マルコ63) ヤコブは、復活の主に会い、エルサレムの教会で、主の兄弟ヤコブとして重んじられ(ガラテヤ119)、エルサレム会議で重要な役割を果たしました。クリスチャン生活の実践的側面を教えたのがこの手紙です。
 
(本論) 試練に会ったとき、どんな態度を持つかが霊的な成長を左右します。
 1. 試練は忍耐を、忍耐は成長を  試練に会ったとき、私たちは、心配や恐れで心を乱さず「この上もない喜び」と思いなさい、とヤコブは教えています。試練は私たちの目を、神様に向けさせ、神様だけに頼る者となるように成長させる訓練の場です。
 試練の時は、忍耐を「完全に」働かせなければならないほど大変ですが、その結果「何一つ欠けたところのない」「完全な者」となると約束されています。 全能なる神様は、望みのある未来を備えておられます。「主の山に備えあり」です。 また、知恵の欠けた者は神様に求めましょう。与えてくださいます。神様は、試練の中にある私たちを決して見捨てられません。 忍耐し、知恵を求めつつ乗り越えるなら、完全という実を結ぶことが出来ます。
 2. 世のものは全て有限  貧しい人も富んでいる人も、この世で味わうことはすべて、一時的です。 神様は、貧しい人を選んで信仰を豊かにし、永遠の国を相続させてくださいます。富んでいる人も、何も残らない日が来ることを忘れてはなりません。キリストにならって善を行い、自らを低くしましょう。 この世のものはすべて有限であり、神様が備えておられる永遠の豊かさは、ただ神の国にあります。
 
(結論) 私たちは、神様との関係の中で試練を見なければなりません。そして上から与えられる知恵によって問題を解決しなければなりません。神様が贈り物として与えてくださった祈りという「直通電話」を活用しましょう。いつでもどこでも信仰の通話ボタンを押し、神様が与えてくださる知恵をいただきましょう。神様の知恵がなければ、試練を乗り越えることは出来ない、ということを忘れないでください。(12節)

2019年3月4日月曜日

礼拝メッセージ  2019年 3月3日
説教題 「目の前の壁は必ず崩れ落ちる」
聖 書 ヨシュア記 第6章1~5節
(序論) 主はヨシュアに、不思議なことを語られました。エリコ攻略のために、七人の祭司たちが角笛をもって主の箱の前を行き、その前後をイスラエルの戦士たちが進んで、七日の間、一日に一回ずつ町の城壁を回り、七日目には七回まわって、祭司の笛を合図に民は大声でときの声を上げよというのです。イスラエルがそのみ言葉通りにすると、町の城壁は崩れ、イスラエルはみ言葉に従ってエリコの町を聖絶しました。
(本論) 1. 主への信頼を試された出来事  主の不思議な戦術は、長い間イスラエル軍の将として多くの実戦を経験してきたヨシュアにも全く考えられない攻城法でした。 どんなに私たちが考えても角笛を吹いて町を回ることが、城壁を崩すことになるとは考えられません。ですからこの命令は、城を攻める方策ではなく、ヨシュアとイスラエルが、主ご自身を軍の将として仰いでいるかどうかを、ためすものであったと思われます。 しかし、ヨシュアは自分の経験や戦術にとらわれず、主のみ言葉に従いました。自分の経験や知識にとらわれず、主のみ言葉に素直に聞き従うすなおさ、柔軟さ、主に対する信頼はキリスト者にとって重要なことです。私たちの主日礼拝、日々の密室の祈り、献金、それは主を大牧者と仰ぐ姿勢にほかなりません。それが大勝利の鍵です。
 2. 理解するより、み言葉に従う   ルカ5章5、6節のように、ペテロも主のご命令を理解出来ませんでしたが、「お言葉通りやってみましょう」と網をおろして網が破れそうになるほどの大漁を経験しました。 神様が何をせよ。と言われるかを正確に聞くことが大切であり、理解することより主に信頼して、み言葉に従うべきです。
主にとって難攻不落の城はありません。私たちは、しばしば克服不可能と見える困難に出会いますが、そのときこそ「軍の将である主」をお迎えし、自分の常識に反しても、主のみ言葉に従い、主を信頼して歩みましょう。その時、自分の考えとは全く違ったやり方で、主が道を切り拓いてくださるのを経験するでしょう。
(結論) 主はエリコの民を聖絶されましたが、イスラエルの偵察隊を助けたラハブとその家のものをすべて救われました。主は主の民のいと小さき者の言葉に対しても忠実に責任を果たされるお方です。かつての敵、エリコの住民ラハブを救い、彼女が本当に主をおそれたので、御子イエ・スキリストに至る血統の中に加えて下さいました。罪人であった私を憐み、救い出して神の子としてくださった主の恵みに感謝いたします。