2016年10月30日日曜日

礼拝メッセージ  2016年 10月 30
説教題  「繁栄の時の失敗」
聖  書  ペテロ第一の手紙 1章5〜7
(序論)使徒ペテロは、キリスト者の歩みの中に、時には試練が必要であると言っています。「なければならない」とも訳される意味の表現です。いずれにしても、試練は、時にはキリスト者にとって必要なものといっても過言ではありません。
(本論)ペテロは、試練について二つの角度から語っています。まず「いまは、しばらくの間」と、試練が短期間のものであることを銘記させようとしています。私達の経験する試練は、人の一生ということに比べても、また永遠という無限の広がりに比べても、非常に短いものです。試練は確かに強烈なもので、有無を言わせずに迫ってくるものですが、大体において、全生涯に比べるならば非常に短期間のことです。
 第二に、ペテロは、さまざまの試練のあることを指摘します。「さまざまの」というのは、「いろいろな色の」と訳する表現です。ある種の試練は暗い彩をしており、ある種のそれは、明るい彩をしています。
逆境の時は、繁栄の時よりもかえって容易である場合があります。その証拠に、逆境のとき見事に勝ち抜いた者たちが、繁栄のとき大敗北を経験しています。ダビデ王、ソロモン王が、平和な時、祝福された時、失敗へとつながりました。私たちの人生も幸せな時、物事が順調に行ってる時こそ注意が必要です。 
(結論)再度語ります。明るい彩の試練があるといううこと。幸せな時、物事が順調に行ってる時こそ注意が必要であり、み言葉に聞かなければならない時であると考えます。




2016年10月23日日曜日

礼拝メッセージ  2016年 10月 23
説教題  「主よわたしをあわれんでください」
聖  書  マルコによる福音書 10章46〜52
(序論)「魂の叫び」という言葉がある。今日のバルテマイの叫びは、私自信の魂の叫びでもある。イエス様一行が、エリコの町から去られようとすると、大ぜいの群衆がついて来ます。その時、バルテマイという名の盲目の乞食が、道端に座っていました。ナザレのイエスのお通りだと聞いてバルテマイは大声を張り上げました。「ダビデの子イエスよ、私をあわれんでください」と繰り返し、繰り返し叫びました。48節「うるさい。黙れっ」と誰かが怒鳴りつけました。
それでも、バルテマイは、ますます声を張り上げて「ダビデの子イエスよ。私をあわれんでください」と叫び続けました。
(本論)神様に近づく時、二つの声が聞こえて来ます。
 第一に「お前には価値がない」と、否定的なサタンの声。古代では、病気や苦しみは、誰かの罪の結果だと考えられていました。「黙れ。うるさい。お前には憐れまれる資格がないんだ」との意味で群衆の一人の声が聞こえました。その時、バルテマイは怒り狂うことも出来ました。嘆き悲しむことも出来ました。でもバルテマイはそうしないで主の憐みを求めました。先週、いじめを苦に自殺した13歳の女子中学生の報道がありました。人間の生きる価値の否定の声が子ども達の中にあります。
 第二に、第二番目の声49節、「彼を呼べ」イエス様の憐れみの声が聞こえて来ます。「何をして欲しいのか」という問いは、「神様に近づいても良い」「あなたも神様に愛されているのだ」と語られた言葉です。「私たちは、ありのまま受け入れられる者です」(ローマ58)「価値のある大切な存在です」(イザヤ434)「救われている者です」(ローマ10:10,13) 「赦されている者です」(ヨハネ第一1:9) 
(結論)このバルテマイのように、イエス様に祈り叫びたいものです。
私を憐れんでください。子ども達を憐れんでください。家庭を憐れんでください。親、兄弟を憐れんでください。私達の教会を憐れんでください。日本を憐れんでください。

2016年10月16日日曜日

礼拝メッセージ  2016年 10月 16
説教題  「努めて祈りなさい」
聖  書  ペテロの第一の手紙 4章7〜11
(序論)霊界の指導者、パウロ・リース博士が、ケズウィック大会で「キリスト者の危機」と題して述べられた記事を見つけました。機会あるたびに、自らに言い聞かせる内容です。
(本論)第一の危機は、祈りがなおざりになって来たら、それはクリスチャンの危険信号です。「万物の終わりが近づいている。だから、心を確かにし、身を謹んで、努めて祈りなさい。」と、使徒ペテロは語ります。
 祈りは、努力・工夫しないと継続することは難しいものです。サタンは、クリスチャンを、祈らせまいとして いることを前もって知っておくべきです。祈りを怠るクリスチャンに、勝利ある生活はありません。恐ろしいことです。いつの間にか、祈らなくても平気で生きている。「祈りは、呼吸と同じである」と言われますが、祈らない と言うことは、呼吸しないで生きているのと同じです。クリスチャンにとって、あり得ないことです。
 現代は、聖霊なる神様が働かれている時代です。神様に祈らなければ、主のみ業は前進しないようになっている。とパウロ・リース博士は言っています。寒くなると、朝の祈り、夜の祈りが出来にくくなります。クリスチャンの危機であると同時に、そのクリスチャンの所属する教会の危機でもあります。
 皆さん、「努めて祈りなさい」は、主からの命令です。家族のため、子どものため、親、兄弟、親戚のため、主にある兄弟姉妹のために、祈り続けましょう。そして、この道こそが、祝福を受ける道であります。
 第二は、愛が薄れる時(8節)。第三は、不平が出て、心のこもらない交わりになった時(9節)。第四は、奉仕が貧弱になった時(10節)。
(結論)私たちには、聖書という絶対的な鏡があります。だから、謙虚に、自らを映し出し、反省と共に、力を得て、末の世における、良き証し人として用いられ、「小事に忠なる者は、大事にも忠である」です。聖書を読むこと、祈ること、礼拝と祈り会を大切にしましょう。


2016年10月2日日曜日

礼拝メッセージ  2016年 10月 2
説教題  「筋金入りのキリスト者」
聖  書  ローマ人への手紙 5章1〜5
(序論)  先週の特集で私は、改めて教えられました。私たちの信じている福音の価値は、莫大な価格に匹敵することを。もしサタンが、「1億円上げるから信仰を捨てよ。天国行きをキャンセルせよ」と言ったとしたら私は「1億なんかいらない」と言うことに気が付きました。福音は、1億円以上の価値があるのです。
 さて今日は、ローマ書から三つの喜びと忍耐について学んでみたいと思います。
(本論) ここに三つの喜びが書いてあります。第一に、キリスト者は未来において神の栄光にあずかるから喜ぶ。 第二に、現在には患難があるが、その中にあっても喜ぶ。(3節)患難は喜ばしいものではないが、信仰の上からは、むしろ有益なものである。(ヤコブ1:2-4 忍耐は消極的ですが、忍耐により、私たちの人格は筋金入りにされ、ひいては神様への信頼を深められるのです。ゆえに忍耐により練達されることは積極的です。こうした練達(熟練した達人キリスト者の意)された者には希望が生じます。こうしてついに、私たちの希望と信仰は、強く、何ものにも動じなくなるのです。そうなった時、どんな事が起ろうとも失望落胆せず、また、万事が益であることが分かります。
 それは、神様が聖霊様を与えて、私達の心に神様の愛を満たしていてくださって、神様がどんなに深く私を愛してくださっているかを、全身で感じることが出来るからです。ゆえに忍耐は有益であることが分かります。しかし、忍耐と我慢は違うと言うのです。我慢とは、「仏教の煩悩の一つで、強い自己意識から起こす慢心のこと」を言います。だから我慢はしてはいけないそうです。我慢していると、火山の爆発や地震が起こる現象と同じことが人生の中で起きてくるのです。忍耐は、良き未来を見据えて、耐え忍ぶことです。母親が、子育するのは成長の喜び希望があるから、大変な育児にも頑張れるものです。そして、自分の親の愛を身を持って知ることが出来ます。
(結論) 第三に、このような人は、未来における神の栄光にあずかるから喜ぶだけでなく、現在において、神ご自身をよろこぶのです。(11節) 恵みの主ご自身を喜び、深い主との交わりに入った者は、どんな患難に遭遇しても「いつも喜んでいる」ことができる。(第一テサロニケ5:16) 「主を喜ぶことは、あなたがたの力です」(ネヘミヤ8:10