2014年12月28日日曜日

拝メッセージ  2014年 12月 28
説教題   「主の僕の闘い
聖 書   イザヤ書 第42章1~4節
(序論) 2014年の最後の聖日礼拝です。この1年、私たちの人生の旅路を折にかなう助けをもってお導き下さいました生ける主に感謝します。一つひとつの出来事のうちに、神の恵み深い慈愛の御手を覚えました。神様は無駄なくすべてを用いて私たちを教育されます。「神様は一番良い時に最善の事をしてくださる」このことをわきまえるまで、御言葉は弱い時の励まし、悲しい時の慰め、迷いの時の道しるべでした。

(本論) 今一度、素直に自分の立つ場所に目を注ぎましょう。主は、私たちが生きることを支え、この世界に御旨を伝えるために用いて下さいます。傷ついた葦を折ることなく、ほの暗い燈心を消すことなく灯し続けて下さるのです。イエス様は言われました:「人を支配する者、権力をふるう者にあこがれるな。かえってあなたがたの間で偉くなりたいと思う者は僕となりなさい」。これがクリスチャンのこだわりです。ここに立ち続けることが私たちの務めです。
 イザヤ書には4つの僕の歌があります:(42:1-4)(49:1-6)(50:4-9)(52:13-53:14)。僕という言葉は、本来奴隷を意味します。クリスマスの日、誕生されたイエス様はこの世界の支配者であるにもかかわらず、僕となられたのです。この世界の人々に仕える者として生き行かれました。「イエスは主なり」と告白する時、主と共に生きるのがキリスト者であるとすれば、これはまさに闘いつつ自分のものとする信仰の営みそのものです。神の僕として生きることは自己選択ではなく、上から声をかけられ決断して従うことです。地味ではあるが、いぶし銀のような輝きを秘めた生き方です。主の僕は、不利な状況の中でも全てを御手に委ねることのできる勇気と信仰をもって証しの行動を起こしま す。
(結論) 謙遜と臆病は違います。平和と妥協は別です。本当のキリストにある忍耐と謙遜を知る者だけが福音のために大胆になれます。こう祈りましょう:「主なる神様、御子が弟子たちの足を洗い僕となってくださいました。これを手本として僕のわざをさせてください。希望をもって落胆せずに主の証人となるためにすべての人の僕とならせてください。アーメン」 

2014年12月21日日曜日

礼拝メッセージ  2014年 12月 21
説教題   「イエス様に出会う喜び
聖 書   マタイによる福音書 第2章1~6節
(序論) クリスマスは救い主イエス様の誕生をお祝いする時です。聖書にはこの時、東の国の博士たちが主を訪ねたと記録されています。この出来事は私たちの希望です。東の国の博士たちは「異邦人」と呼ばれ、ユダヤ人には神の恵みの外側にいる者と考えられていました。この人たちが星に導かれてベツレヘムを訪ねます。「導かれて」「異邦人」さえ用いて、神様の祝福は全世界に伝えられました。

(本論) 博士たちのいちずなメシヤとの出会いの求道は報われ、メシヤに出会います。神様は人の努力を無にしないことの証しでもあります。彼らの真実で敬虔な信仰心は、神様の導きの中で整えられ、彼らはメシヤとの出会いの道を突き進みます。彼らの三つの捧げものは精一杯の全身で表わす献身でした。
 1黄金・・・王様への捧げものであり、服従の証し。
 2乳香・・・祭司の祈りの時に用いる香を表す和解のしるし。
 3没薬・・・十字架の贖(あがな)いのしるし。復活の希望が示される。
 人はキリストとの出会いで自分の中に衝撃を受け、変えられます。そしてそれが、新しく生きる決断をするチャンスとなります。そして、人と共に生きる幸いに向かって、自分のできることを模索し始めます。クリスチャンは自分の弱さを知りつつ、本当に強く生きられるその秘訣を心得ているものです。「主にあって、その偉大な力によって強くありなさい」(エペソ人への手紙6章10節)。この一言があなたを力づけ、「神様、導いてください」と祈る者になるでしょう。

(結論) クリスマスを経験した博士たちは、イエス様に出会った後、別の道を通って自分の国に帰ります。彼らはイエス様を証しするために、自分の置かれた場所に宣教者として派遣されるのです。イエス様と出会った者は、イエス様と共に共同体の中で兄弟姉妹と呼び合える仲間との交わりを大切にします。肢体としてお互いに支え合う神の愛の家族に組み込まれていることを自覚するのです。これは驚くべき自己発見であります。小さき者でありながら日常の中で喜びを体全体で表わす者に変えられます。

2014年12月14日日曜日

礼拝メッセージ  2014年 12月 14
説教題   「私たちへの福音」
聖 書   ルカによる福音書 第2章1~14節
(序論) 福音とは元来勝利の知らせのことでした。のちに、喜びをもたらす知らせを意味するようになりました。勝利ある人生のためにキリストは人となって私たちに救いの道を説き、その道を確立されました。今もイエス・キリストは私たちに、「人は救われる価値のある者」との招きを発信し続けてくださいます。

(本論) 恐れないでイエス様を信じ、神と人に仕える者であれと福音は語ります。あのベツレヘムの馬小屋を最初に訪ねたのは、羊飼いたちでした。貧しくいやしい仕事と人々にさげすまれた彼らがメシヤの誕生を聞かされます。わらを布団がわりにし、牛馬のエサ箱に寝かされているみどり子が救い主でした。イエス様の奇跡全体は暗さの中で起こりました。しかし、ここには嘆き悲しむ言葉はありません。マリヤの「わたしは主のはしためです。お言葉どおりこの身になりますように」ルカによる福音書第1章38節)。この委ねきった信仰だけが今も私たちを立ちあがらせます。「あなたの生きながらえるかぎり、良きものをもってあなたを飽き足らせられる」詩篇103篇5節)。この約束を果たしてくださる神が私たちの信ずる神です。

(結論) ヨハネがイエス様について、「彼は世にいた。しかし、世は彼を知らずにいた。彼は自分のところに来たのに、自分の民は彼を受け入れなかった」(ヨハネによる福音書第1章10,11節)と記しているように、あの夜「客間には彼らのいる余地がなかった」(ルカによる福音書第2章7節)。しかし、神のスポットライトは布にくるまれた飼い葉おけのみどり子にあたっています。メシヤが来られたという福音は私たちに届けられ与えられた福音であることに気づかされましょう。羊飼いたちが、何もかも自分たちに語られたとおりであったので、神をあがめ、また讃美しながら帰って行った」ルカによる福音書第1章20節)ように、人は主に出会うことで意味ある人生が始まるのです。

2014年12月7日日曜日

礼拝メッセージ  2014年 12月 7
説教題   「栄光の讃美」
聖 書   ヨハネによる福音書 第1章9~18節
(序論) "Christmas" は「キリストの祭」を意味します。父なる神様がイエス・キリストを私たちの世界に救い主として誕生させて下さったのです。このお方を自分の個人的な救い主(メシア)と信じ、このお方の生きてこられた道に従い、信仰をもって歩み続けましょう。これによって、本当の望みを持つことができ、多くの先人にも学んでいくのです。それらの人々は教会に集まり、礼拝と祈り、黙想の中で聖書に学び、信仰の養いを受けます。そして、キリストを述べ伝えることを生きがいとします。

(本論) クリスチャンはただ神様を信じることで、本当に自由な気持ちで神様の御旨に従うことを喜び楽しむのです。「すべての人を照らすまことの光があって、世にきた」ヨハネによる福音書第1章9節)。その証人として立ちあがる者に変えられたことを、感謝と喜びをもって生きる者とされます。人は誰しも暗さと空しさの中で希望を失ってしまうことがあります。今こそ御言葉(聖書)によって自分を見つめなおす時です。キリストの存在が「福音(喜ばしい知らせ)」であると気づかされる時です。キリストが私たちを導いてくださるのだから、神の祝福にあずかる望みを持って生きなさい、と聖書は語っています。

(結論) クリスマスの夜、ヨセフとマリア、羊飼い、東の国の博士たちは、まことの光に照らされて自分を発見し、本当は何が大切かを見分ける目を与えられました。神に従う喜びにより、イエス様の恵みをこの世界に福音として発信し続けたのがクリスチャンたちです。何かをどれだけ沢山持っているかでなく、愛されていることを大切にし、私のような者でも神の偉大さを世の人々に伝えられる、このことを人生の喜びとできる者です。クリスマスです。このお方の誕生を心から喜び、神の栄光を讃美しましょう。クリスマスの前に教会で灯されるキャンドルの光は、神様が私たちに求めておられる「世の光」としての存在の象徴です。

2014年11月30日日曜日

礼拝メッセージ  2014年 11月 30
説教題   「救い主を備えて待つ」
聖 書   ルカによる福音書 第2章22~33節
(序論) 今日からアドベント(待降節)に入ります。クリスマスを準備して迎えるのです。礼拝のたびごとにキャンドルを増して4本輝くとき、暗さの中に希望が持てることを、心躍らせてクリスマスーキリストの祭ーを待望するのです。ベツレヘムの馬小屋での御子の誕生はこの世の縮図です。「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩まず命の光を得る」と宣言されたお方によって救われなければならない自分に気づかされるのです。

(本論) シメオンという老人は信仰深くメシヤの到来を信じ待っていました。聖霊に感じて宮に入った時、マリヤとヨセフ、幼子を見て感動し、「私の目が今あなたの救いを見たのですから」と涙しました。彼は、色々な人生経験の中でなお自分をもって生きた人生の教師です。「人生の冬の時期」を通して神様はついにメシヤに出会うチャンスを与えてくださったと感動しました。神様は今もなお約束を実行するお方です。夜空に光る「明星」として存在しておられるのです。今は通過点であって、神は必ずわたしを良き地に導いてくださると信じましょう。人は、イエス・キリストによって新しい価値を持ち、自分の周りをはかりなおすことができるのです。そして、自分の務め を命がけで守る者に変えられるのです。

(結論) シメオンは、常に神様と出会うことのできる無垢な信仰と、神の声を聴くチャンネルに合わせ「聴き耳をたてて」待つ者であれ、というメッセージを私たちに伝えています。「われらにおのが日を数えることを教えて、知恵の心を得させてください」(詩篇90篇12節)。この緊張感がたまらなく幸いと思えるのです。感謝して生きる日々を信仰をもって味わうことができる生き方が、神様の約束の成就として一人ひとりに体験させてくださいます。 

2014年11月26日水曜日

礼拝メッセージ  2014年 11月 23
説教題   「輝いて生きる」
聖 書   ピリピ人への手紙 第2章12~18節
(序論) 人はどのように生きれば「生きがい」のある自分になれるのか。この問いに答えるのがキリスト教です。「輝いて生きる」人生でありたいと思いつつ、いつも失望と挫折を味わう私たちです。しかし、聖書の中の聖書と言われるヨハネによる福音書3章16節には、神はそのひとり子を賜ったほどにこの世を愛してくださった」とあります。「この世」に自分の名を入れて読むと、キリストを模範として生きるメッセージが聞こえてきます。苦行の人生ではなく、喜びと感謝のある、しかも輝いて生きる者に変えられる人生が、神の望まれる人生です。

(本論) 聖書の神は、信じ従う者に「常に善意をもって働きかけ、神が望んでおられることを自分の祈りとしなさい」と言われます。そして、この祈りは叶うと信じられるのです。だから、つぶやかず、疑わないで、キリストを信じる者らしくいちずに従ってまいりましょう。謙遜と柔和をもって神と人々に仕えつつ、決して自分を見失わないで、確固たる自分をもっているしたたかな存在感のある人生です。あたかも暗い夜空にまたたく星にたとえられます。「曲がった邪悪な時代のただ中にあって、傷のない神の子となるためである。あなたがたは、いのちの言葉を堅くもって、彼らの間で星のようにこの世に輝いている」(ピリピ人への手紙2章:15節)。これが私たちの生きが いです。

(結論) 毎年クリスマスが近づくと子どもたちが歌います。「星のように愛の光を暗いすみに照らしましょう。歌えいざ、歌え、たたえの歌を輝かせ、いざ輝かせ、愛の光を」。この讃美を日常生活の中で証しする者にならせていただきましょう。「わたしは自分の走ったことがむだでなく、労したこともむだではなかったと誇ることができる」(ピリピ人への手紙2章16節)。パウロのこの言葉を私たちも人生の晩年に告白したいものです。

2014年11月16日日曜日

礼拝メッセージ  2014年 11月 16
説教題   「イエス様が愛された人々」
聖 書   詩篇 第126篇
(序論) キリスト教の神は、慈愛の神です。罪人なる人間を救うために、イエス様は「十字架につけられ死にて葬られ、陰府にくだり、三日目に死人のうちよりよみがえり」(使徒信条)と、私たちは信仰告白します。私たちは今も生きて働き、語り、教え導く神を信じているのです。

(本論) 今生き給う神を、「恐れる」のではなく、「畏敬の念をもって」神に生かされている自分を発見します。聖書と教会を通して神様に出会うことができます。神様と楽しい関係を持つと、人とのお付き合いも広く新鮮になり、幸せを感じる者になります。これがキリスト教の醍醐味です。
・聖書は、真の神様とは、イエス様とはどんなお方かを理解させます。
・この方は人の苦しみ、思い煩いをわかってくださいます。
・私たちのために涙を流される神がクリスチャンの信じる神様です。そして信じた者は、自分の人生の務めを見出し、自分らしく生きることを悟ります。
パウロは告白しています。「謙遜の限りをつくし、涙を流し、ユダヤ人の陰謀によってわたしの身に及んだ数数の試練の中にあって、主に仕えてきた」(使徒行伝20章:19節)。かつてクリスチャンを迫害した彼が、復活の主に会うことで生き方を180度転換して、後悔のない人生を全うしたのです。

(結論) 人は、苦しみ悩む者です。そのすべてを神様は御存じです。しかし、困難を通過してこそ、神様を喜ばせ、人のために何かができることを幸せな自分と思える者になるのです。「涙をもって種をまく者は、喜びの声をもって刈り取る。種を携え、涙を流して出ていく者は、束を携え、喜びの声をあげて帰ってくるであろう」(詩篇126篇:5,6節)。神様は、常に苦労する者の働きに十分な祝福をすでに用意して待っておられる。これが私たちのゆるがない希望です。

2014年11月9日日曜日

礼拝メッセージ  2014年 11月 9日
説教題   「主の前に立て」
聖 書   列王記 上 第19914
(
序論) 私たちの人生は、クリスチャンであっても、そうでなくても調子の良いときもあれば悪いときもあります。聖書に出て来る預言者エリヤもそうでした。エリヤも力強い姿を見せることもあれば、恐れと不安に押しつぶされそうになって弱々しい姿を見せることもありました。エリヤがどのように主に取り扱われていったのかを見ながら、私たちが弱さを覚える時、神様が私たちとどのように関わってくださるのかを確認しましょう。
(本論) 多くのバアルの預言者に主の力によって勝利したエリヤでしたが、それによってイスラエルの王と王妃に命を狙われることになってしまいました。それが恐ろしくなり、不安になってエリヤは逃げ出しました。「もう死にたい」とまで言いました(19:4)。そうして肉体的にも精神的にも限界まで追い詰められ、行き着いた神の山ホレブのほら穴に隠れるようにして入り込んで休みました。するとそこで主は「エリヤよ。ここで何をしているのか」と語りかけ、ご自身を現してくださり、エリヤに「外に出て、山の上で主の前に立て」と命じます。激しい大風や地震、火があったけれども、その中に主はおられなかった。しかし、確かに神がそこにおられることをエリヤは感じ取り、主の「かすかな細い声」を聞き、外套で顔をおおって主の前に出る決心をし、逃げ隠れていたほら穴の入口に立ち、再び主からの召しを思い起こし、新たな主から使命に奮い立つことができました。
(結論) 私たちも主がご自身を現してくださっていることを知るとき、主の前に立ち、主からの使命に奮い立って生きることができます。エリヤにご自身を表してくださった神は、現代の私たちにも聖書を通してご自身を現してくださっています。私たちも聖書のことばを通して神様を知り、主の前に立たせていただきましょう。

2014年11月2日日曜日

礼拝メッセージ  2014年 11月 2
説教題   「宗教改革の心」
聖 書   ローマ人への手紙 第5章1〜11節
(序論) 1517年10月31日、マルチン・ルターは「免罪符」の販売に抗議し、ヴィッテンベルク城教会の扉に95の提言を張り出し、この日が宗教改革記念日となりました。ルターの宗教改革は、「聖書に帰れ」という運動でもあります。

(本論) 1518年、ルターは異端と断罪されますが、人は誰によって救いの祝福をうけるのか、それはイエス・キリストを信ずる信仰によって神の義が恩寵として与えられると聖書は答えてくれます。そこから人の生きる目標が見えてきます。率直に「私は神の作品であって、良い行いをするように、イエス・キリストにあって造られたのである」(エペソ人への手紙第2章10節)という御言葉を受け入れることができるのです。私たちが大事にするのは、誰がどうこう言ったということではなく、御言葉を通して神はどう語っておられるかを真実に聴き、応答しようとする信仰姿勢です。

(結論) 聖書をとおして次の事を確かめましょう。
・御子を十字架につけてまで神様は私を愛してくださっていること。
・祈る時いつも「天の父よ」と呼びかけるお方が私の救い主であることの神認識。
・神様と真正面に向かい合い、人を大切にする愛の心を持って人と接するよう心がけること。
・どんな大変な時も、このことは譲れないこだわりのあることが、一つの道を完走する者の強さ。
先程讃美した新聖歌280番「神はわがやぐら」、この讃美こそルターの本音です。この歌は将来必ず大いなる祝福が与えられると信じていたことを表しています。

2014年10月26日日曜日

礼拝メッセージ  2014年 10月 26
説教題   「自ら変わる勇気」
聖 書   ヨハネによる福音書 第21章20〜23節
(序論) 神様がこんな私をも必要として選んで下さったことを聖霊に教えられましょう。この気づきにより、感謝と喜びのある日々に変えられます。伝道の書に、「順境の日には楽しめ、逆境の日には考えよ」(第7章14節)とあります。神様は全てを無駄なく用いて私たちをたくましい信仰者に導き育ててくださいます。「神様は人生のあらゆる出来事から幸福な結果を生み出して下さる」(ローマ人への手紙第8章18節、柳生訳)何と望みに満ちた信仰でしょうか。
(本論) 使徒ペテロを用いた神は今も私たち一人ひとりに目をとめて、「私はあなたを必要とし選び召した」と言ってくださいます。いつも一番でないと納得しなかったペテロです。復活のイエス様にお会いした時も、主の愛されていた弟子ヨハネと比べ、「主よ、この人はどうなのですか」(ヨハネによる福音書第21章21節)と問い返したペテロでした。主は答えて、「私はあなたに求めます。あなたは私に従って来なさい」と。「あなたは」、このきびしい言葉をもってペテロに服従を求めます。ルカはもう一つエピソードを書き残しています。ルカによる福音書第22章61、62節です。「彼がまだ良い終わらぬうちに、たちまち鶏が鳴いた。主は振り向いてペテロを見つめられた。 その時彼は、『今日、鶏が鳴く前に三度私を知らないというであろう』との主のお言葉を思い出した。そして、外へ出て、激しく泣いた。」この涙こそペテロの砕かれた心を表す服従の証しでした。神が自分を変えて下さるとの信仰の開眼の時でした。
(結論)神様は一人ひとりの信仰告白を受けとめてくださいます。信仰からくる内面的な戦いを通して変えられる自分に気づきます。
日々み言葉に聴き、祈りに導かれる時、祈りは信仰の決断をさせます。神と共に生きる決断が神との関係を常に強い結びつきとします。小さな勇気が神様と共に生きる原点です。この原点に帰ることで信仰は成熟していきます。

2014年10月19日日曜日

礼拝メッセージ  2014年 10月 19
説教題   「望みの祈り」
聖 書   ルカによる福音書 第11章1〜13節
(序論)人はどんな「祈り」を持っているかで、人柄とか生きがいまでもが見えてきます。ある時、弟子たちがイエス様に尋ねます、「どう祈ったらよいのでしょうか」と。その時イエス様は教えてくださいました。これが教会が大切にしている「主の祈り」です。本当は、「主が教えて下さった祈り」というのが適切かもしれません。祈る言葉さえ知らなかった私たちが、神様を見上げ、自分を知り、イエス様が愛された事柄全てを愛する者にならせていただくための成長と課題がこの祈りには包含されています。
(本論)祈りの呼びかけは「天の父よ」です。遠い存在である神様を「アバ父よ」と近くにおられる方として意識させます。お父ちゃん、パパとでもいう親密な表現です。「御名があがめられますように」。キリストのために自分を捧げて生きる、「栄光のために」。これが私たちの生きる目標の原点です。神様は日常の生活の隅々にまで行き届いてご配慮されます。「日ごとの食物」までも神様の慈しみです。「求めよ」「門をたたけ」。私たちに必要なものを知っておられる神は、「しきりに」願い求める忍耐強い祈りを求めます。神様は手軽な答えは見せません。 
(結論)神様は望みをもって一途に求める祈りには、必ず良き結果に向かって導き配慮し、一番良い時にその祈りをかなえて下さる。これがクリスチャンの強さです。人は、祈りを通して待つことを学び、待つことによって既に神の側で用意されている答えを楽しみに待てる者となれます。神様の恵みは無条件に与えられます。その恵みに人が応答する生き方で信仰からくる望みに輝けるのです。

2014年10月12日日曜日

礼拝メッセージ  2014年 10月 12

説教題   「一途な求め」
聖 書   ペテロの第一の手紙   第2章18〜25節
(序論) 聖書は難しい哲学書ではなく「信仰」の書です。その内容は「人を教え、戒め、正しくし、義に導くのに有益である」(テモテへの第二の手紙3章16節)とあります。人は、聖書によって生きるに値する者だと気づかされます。救いの恵みによってイエス・キリストの十字架と復活を信じ、望みある人生を一途に求めさせます。人は、様々な状況の中に置かれながら神様に導かれ、「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。全ての事について感謝しなさい」(テサロニケ人への第一の手紙5章16~18節)という言葉を素直に受け入れられる者に私たちを変えてくださいます。

(本論) 「一途に神を求めよ。信仰からくる祝福を生活の中で味わいなさい」このことをクリスチャンは大切にしています。ペテロは欠点の多い者でした。しかし、神様はこのペテロを大いに用いて教会の柱としました。それは、ペテロが失敗の中で、ただ神の愛情豊かな御言葉を信じ、そこに帰って立ち直ったからです。神様は私たちをとらえて教会の肢体とされます。そして、人生の終わりにこう叫ばさせてくださいます。「わたしは戦いをりっぱに戦い抜き、走るべき行程を走りつくし、信仰を守りとおした」(テモテへの第二の手紙4章7節)一途に走り抜ける人生の勝利者の言葉です。

(結論) 神様を求め続けましょう。神様に聴きながら子どものように素直な気持ちで従う時、新しいことが恥まり、継続していきます。私たちに先立って導いてくださるイエス様は、私たちと同じ人間として人の世の悲しみを味わった方です。このお方が私たちの模範として足跡を残してくださっています。このお方が私たちに約束してくださっています、「あなたがたは、この世では悩みがある。しかし、勇気を出しなさい。私はすでに世に勝っている」(ヨハネによる福音書16章33節)このお方こそ私たちの良き牧者なのです。

2014年10月5日日曜日

礼拝メッセージ  2014年 10月 5

説教題   「常に共なる神」
聖 書   創世記   第28章10〜17節
(序論) 神様は私たちひとり一人を大事な器として用いるために、整え育ててくださいます。新約聖書27巻の内、13巻を書き残したパウロの回心は劇的なものでした。神様は一人をとらえて主の証人の業を拡大します。人が偶然と思える出会いを神様は決定的な出来事にします。誰かとの出会いによって、一生が決まる場合があります。特に神様との出会いは自分の人生を変えます。

(本論) パウロはキリストとの出会いを通して、キリストを運んだ男と言われるような人間になりました。信仰によって生き抜いた人々の証しがキリスト教の歴史です。小さく貧しい人間を神様は祝福して、誰にでも福音を語り伝える者にならせてくださいます。
信仰の確かさはインマヌエル(神、我らと共にいます)の信仰です。「わたしはあたたと共にいて、あなたがどこへ行くにもあなたを守り」(創世記28:15)神様が常にどんなところでも臨在の主として私のそばにいて下さるという決定的な出会いを経験し、常に新しくこのことを胸に刻むようにしましょう。人は神様の語りかけを聴くことのできる存在です。

(結論) さあ立って、町にはいって行きなさい。そうすれば、そこであなたのなすべき事が告げられるであろう使徒行伝9:6)神様が与えられる仕事、奉仕、誰かとの出会いに、私たちは意味を感じとって、すべてがみ栄になると信じるのです。加えて、人との出会いの中にも祝福を覚えます。人は誰かの力によって自分の未来が開けることがあります。だからこそ、神に寄り添われ、人と寄り添うことによって、「常に共なる神」を信じることができます。

2014年9月28日日曜日

礼拝メッセージ  2014年 9月28

説教題   「御手のぬくもり」
聖 書   ガラテヤ書   第8章9〜13節
(序論) 人は「故郷」に帰る旅人だと言います。聖書には「地上では旅人であり寄留者である」(ヘブル人への手紙11:13)と書いてあります。人は、旅に出かける時、目的を持って出かけます。目的地に着くまでには、楽しいこともありますが思いがけないトラブルに遭遇することがあります。しかし、どんな時も神様は私たちと共にいてくださいます。そして、神様は真理への道に導いてくださるのです。それ故、旅の途中で遭遇する出来事は、「あなたに乗り越えてもらいたい」という神様からの愛のメッセージです。全てを最善の結果に導かれる神様からの祝福の中にいるのです。

(本論) 信仰に生きるとは、「私に従ってきなさい」と呼びかけてくださるお方を信じて聴従の決心をして従い続ける行為です。「ただ神が全てを良きに導いてくださる。」このことを信じて共に礼拝する仲間と一緒に神様を中心に人生を楽しめる世界なのです。聖書に出てくる人々の一生は、信仰による生き方の一つひとつに神様に従った者の輝きをみせてくれます。それは、彼らが希望をもって生きたからです。ゼカリヤはこう予言しています。「そこには、平和と繁栄との種がまかれるからである。すなわちぶどうの木は実を結び、地は産物を出し、天は露を与える」(ゼカリヤ書8:12)神が昔ヤコブに与えた約束を思い出しましょう。「私はあなたに約束したことを果たすまで決して見捨てない」(創世記28:15、新共同訳)

(結論) キリスト者は、どんな状況に置かれても、神様の愛によって生かされていることを信じます。私たちは、主イエスの十字架と復活を信じているからこそ、どんなにへこんでいても希望を抱き、立ちあがることができるのです。「神はそのひとり子を世につかわし、彼によって私たちを生きるようにして下さった」(ヨハネⅠ,4:9)キリストの証人として、私たちは生かされているのです。今朝、「私は主にふれられて」という歌を讃美しました。お互いに主の愛によって生かされていることを感謝し、今週も歩いていきましょう。

2014年9月22日月曜日

礼拝メッセージ  2014年 9月21

説教題   「立ち上がり歩きなさい」
聖 書   使徒行伝 第3章1〜10節
(序論) キリスト教の神は今、私たちの中に働く神です。このお方は具体的に「言葉ーロゴス」をもって、今わたしにあなたにいつも近づいて教え導いてくださいます。そのことを聖書をよりどころとして強い信仰をもって「イエスは神の子である」と信じているのがクリスチャンという存在です。人は自分が誰かに愛され支持されて生きていることを知る時、幸せを覚えると聖書は言います

(本論) ここに一人の足の不自由な男がいます。歳は40歳くらいで神殿の「美しの門」と呼ばれる門の外で物乞いをして生きていた者です。ペテロとヨハネが物を乞うこの男に近づき、「物」ではなく「イエス・キリストの名によって歩きなさい」と癒しの奇跡を見せます。彼の右手をとっておこしてやる」足とくるぶしがたちどころに強くなり躍り上がって立ち歩きだした。歩き回ったり踊ったりして神を賛美しながら彼らと共に「宮に入って行った」使徒行伝3:7、8)この姿はかつての私たちです。彼は神殿の門の外にいました。つまり救いとは何の関わりがないと思い込んで運命を決め込み、しかたがない、これが自分なのだと惰性で生きていた彼、「置かれていた者」でした。人と関わる幸せを経験しない人生でした。「笑う」ことのない日々でした。この者に神は「キリストの名の権威で」彼の全身を「癒された」のです。

(結論) 彼のその後はどうであったか、私たちは想像するしかありません。でも、これだけは確かです。彼は自分が神様に愛されていたのだと気づき新しい生き方へ方向転換を実行したことです。自分の現在がどうであれ、この生命は自分のためだけでなく隣人のためにも輝いて燃え続ける使命が与えられている。それを生きがいとする自己発見です。彼は「十字架を負うて生きる」苦難の道を引き受けることのできる強さ持つ者にされるでしょう。

2014年9月16日火曜日

礼拝メッセージ  2014年 9月14

説教題   「人生の先輩に乾杯」
聖 書   テトスへの手紙 第2章1〜10節
(序論) 15日は敬老の日です。これは教会から始まった行事ではありませんが、「老人を敬い人生の教師として彼から学べ」という考えは聖書にも散見されます。「あなたは白髪の人の前では、起立しなければならない。また、老人を敬い、あなたの神を恐れなければならない。私は主である。」(レビ記19章32節)とあります。これは「自分の今あるのは、誰かの愛と気づかいによって支えられた結果であることを覚えておきなさい」という意味でもありましょう。

(本論) それ故、若者よ「老人をとがめていけない。むしろ父親に対するように、話してあげなさい。年をとった女には母親に対するように」(テモテへの第一の手紙5章1、2節)と勧めています。しかし、老人たちには「自らを制し、謹厳で、慎み深く、また信仰と愛と忍耐において健全であるように勧め」と、美しく老いるとはどんなことかを具体的に示しております。「人は誰かの星となれ、そして内容のある人の道を歩みなさい」ということではないでしょうか。「明けの明星」となって生きよう、これが神様が私たちに求めておられることです。神様は、不思議な摂理をもって私たちにそのような人生の先輩方と会わせてくださり、それらの方々の背中を見ながら今日まで自分の旅路を来られたのではないでしょうか。

(結論) もちろん、人は反面教師でもあります。失敗を見せて「それにもかかわらず生きる値打ちがある人生」があることを教えてくれます。特に信仰の先輩がその苦悩の中の真実を語ってくれます。人は不思議な神様の導きとしか言いようのない自分の物語を書き続けています。特に出会いの不思議さは私たちの将来を決定づけるものでした。その先輩方に励まされ、応援があって神様から離れずここまで来ました。「人生の先輩に乾杯」と感謝できる出来事を思い起こします。信仰の身支度を整えて、「ありがとう」と一言伝えておきたい人がいるのではないでしょうか。

2014年9月7日日曜日

礼拝メッセージ  2014年 9月7

説教題   「幸いな交わり」
聖 書   ピリピ人への手紙 第2章19〜30節
(序論) イエス様は、「自分は価値のない者」と思いこんで引っ込み思案になったり人間嫌いになった人に目をかけ愛しておられます。神様の前には人は誰でも平等に生かされています。神様はどんなに小さく弱い者、役に立たないと思いこんでいる者にも、「わたしはあなたを必要としている」とおっしゃいます。

(本論) 新しい隣人との関係を作って自分の力量を発揮しなさい、と神様は語り続けておられます。世界の人々に福音を伝えたパウロは自覚していました。「わたしは一人では何もできない。あなたに手伝ってもらって神様の素晴らしさが伝えられます。だから喜びと苦しみを一緒に分かち合える仲間になりましょう。教会は神様の家族なのだから」と語り行動し続けました。パウロはテモテを必要としました。「彼の神様と人々への誠実な働き、彼の徹底的な献身は暗い夜に輝く星のように人々に希望を与えている。」エパフロデトもパウロの働きのためにピリピの教会の使者として援助してくれていることに、パウロは感謝しています。彼が肉体の弱さゆえ皆の重荷になってい るかもしれないと心を痛めていることについて、ピリピの教会にとりなしの言葉で彼を弁護しているパウロのやさしい気づかいを知ることができます。

(結論) 人は、わたしは弱くいたらない者です、と自分を小さくみせることもあります。しかし、教会では、人はお互いに主にある友として他者を必要とします。そこに自分の存在の確かさを確認しながら、自分の務めを果たさせてもらいます。「幸いな交わり」の中で、隣人と出会い、その出会いを神様の摂理と信じ行動する時、愛をもって人に関われます。神様は私たちを広い場所に引っ張り出して、主の証人の務めを兄弟姉妹と共にさせてくださいます。

2014年8月31日日曜日

礼拝メッセージ  2014年 8月31

説教題   「福音の使者」
聖 書   使徒行伝 第18章5〜11節
(序論) 「福音」は、「ふくいん」と読みます。この言葉は教会用語とも言えます。聖書は福音書とも言います。教会での説教は福音の説きあかしです。福音とはどんな意味でしょうか。国語辞典には、「うれしい知らせ」「喜びのおとずれ」「イエス・キリストの説いた神の国と救いの教え」と書かれています。人は聖書を通して、神からの語りかけを聴くことができ、それ故聖書は、独りよがりに読むのではなく、そこに神からのメッセージがあると信じて読み聴くことが大切なのです。

(本論) 「悔い改めて福音を信ぜよ」 (マルコによる福音書1章15節)「悔い改めて」、これはこの世に合わせて生きるのではなく、「方向転換」して神様を認めて、神様からの良き知らせを信じて生きなさい、ということです。自分の立つ「場」が変わるとすべて見方、感じ方が一転します。これが一生の一大転機をもたらします。自己中心から誰かのために私に何ができるか。しかも、その出来ることを私にしなさい、と神様は迫って来られます。自分の事ばかりでなく隣人のことを視野に入れた神の子どもへと脱皮して、成熟することを喜び願い祈る者へと変えられるのです。これが神様と向き合って生きる信仰のリアリティーです。そして、神様の働きのために積極的に参加する者となりま す。

(結論) 人はどんなに小さい存在でも神様の息のぬくもりによって生きます。この幸福感は他では味わうことができないもので、私たちは悔いなき人生を歩ませていただきます。そこには神様から与えられる使命が見えてくるからです。何が起こっても失望せず、神様の御旨が成就するために、小さな共働者として生かされている自信と誇りに生きたキリスト者たちの足跡は、今も心ある人々の憧れの生きざまです。

2014年8月24日日曜日

礼拝メッセージ  2014年 8月24

説教題   「本当の強さ」
聖 書   詩篇 第31篇14〜24節
(序論) 人は誰かのために必要な者として生まれ生かされていることに気づかされるまで、自分について自信と誇りを持てないものです。置かれた場所で自分らしく生きることができる者だと思えるまで、神様は私に慈愛をもって限りない関心を示されると聖書は教えます。ですから、成功の物語より挫折と失敗の中で慰めを得た人生を歩んだ者の中に、本当の慰めと励ましを発見します。弱さの中に強さを味わう、聖書は本当の強さに生きる信仰者の強さを示しています。

(本論) 人生のどん底から人々に望みを与えた涙の預言者エレミヤはこう言います:泣きやむがよい。目から涙をぬぐいなさい。あなたの苦しみは報いられた」(エレミヤ書31章16節、新共同訳)。神は、無駄なく試練をも用いて私たちを育ててくださいます。しかも、苦労の実を持って他人を喜ばせもてなす者にしてくださいます。これこそ本当の強さを持った巨人です。人は誰しも失望という沼地に踏み込むことがあります。自分の居場所は何と暗いところかと人と比べて不幸の主役になりたいと思う時もあります。しかし、イエス様は、私の現実をどうご覧になっているかと視点を変えると、暗さの中に光が射してきます。

(結論) 「しかし、わたしは主を仰ぎ、わが救い主の神を待つ。わが神は、私の願いを聞かれる」ミカ書7章7節、新共同訳)。神と向き合うその場所に帰ることが自己理解を一転させます。「いじけず、愚痴らず、やけを起こさず、神にすべてを委ねる勇気を持って立ちて歩め」という声を聴くでしょう。神の愛は信ずるに値し、従う者を辱めない主が小さな私に与えてくださる祝福の大きさに驚く時が来ます。神に期待すること、これが自分の弱さを超えさせるバネとなります。

2014年8月17日日曜日

礼拝メッセージ  2014年 8月17

説教題   「誰かに気づかわれて」
聖 書   イザヤ書 第43章1〜7節
(序論) 幸いな者とは、「神様と出会い」、「あるがままの自分と出会い」、しかも「人の中でもまれながら人間となる」と聖書は教えます。8月15日は69回目の終戦記念日でした。戦争体験をした方々から平和のありがたさを聞かされます。最もつらい目撃者から聞かされる言葉はなんと残酷なものになれるものかという罪人としての人間の姿です。

(本論) しかし、この罪人を救うためにインマヌエルの主となってくださるという許しの福音の証しをイエス・キリストは示してくださったのです。聖書のメッセージは、私たちに神に帰ることによって始まる愛の開示です。先手を打たれる神の気づかいによって私たちは神に覚えれれていることに気づき、神への方向転換をすることで新しい恵みの世界に生かされていることを信仰をもって確信できます。神の愛の気づきと同時に私を取り巻く人々にも覚えられ支え合って生きることを学びました。

(結論) 小さな平和を共有できる喜びを感謝、その土台は主の十字架の許しを覚えること、お互いに平和をつくりだす者として生きるために信仰をもって仕え合う姿勢を大事にしたいものです。神様は私たちのこの願いを必ずかなえてくださると信じ自分らしい生き方に誇りをもつ、神さまに従い続けてまいりましょう。私たちは神様につながることで花を咲かせ実を結ぶ私の人生となるのですから積極的に生きましょう。神と人を大切にしたキリスト者になれとイエス様は励ましてくださいます。

2014年8月10日日曜日

礼拝メッセージ  2014年 8月10
説教題   「平和を祈る」
聖 書   マタイによる福音書 第5章1〜11節
(序論) 教会の夾竹桃が今年も咲きました。もう一カ月も咲いては散り、散っては次の花が開くのです。人に気づかれようと気づかれなかろうと咲くという自分の務めを果たしているかのようです。私が「夾竹桃」を意識して好きになったのは、以前広島の被爆者の手記を読んだからです。こんな内容でした。「昭和20年8月6日、ピカドンは一瞬にして広島の30数万人の人を殺し、焦土としました。草木も生きられないだろうと言われていたのに、次の夏、この木は芽を出し花を咲かせたのです。その生命力の強さに私たちは生きる希望を与えられたのです。」これを読んで以来、8月を特別に意識するようになりました。

(本論) 聖書は、人の争いの種はその心にあるといいます。「あなたがたの戦いや争いは、いったいどこから起こるのか。それはほかではない。あなたがたの肢体の中で相戦う欲情からではないか。あなたがたは、むさぼるが得られられない。そこで争い戦う。」(ヤコブの手紙第4章1,2節)それが私たちです、と誰もが本音の自分を認めるでしょう。しかし、神様はそんな私にもかかわらず、神の恵みによって「生きよ、あなたは地の塩、世の光としてこの世に存在しなさい」と言ってくださいます。この狭間で自分のために隣人のために祈ることを励む者とされます。

(結論) この神様の言葉は、自分に望みを持たせ、御旨にかなう自分であろうと固守させます。そして、出会う人と関わる主の証人の務めが果たされます。お互い自分の一番近い人々に対して平和の運び手の役割ができる時、神と共に穏やかな平和を満喫させられます。

2014年8月3日日曜日

礼拝メッセージ  2014年 8月 3日
説教題   「キリスト讃歌」
聖 書   コロサイ人への手紙 第3章12〜17節
(序論) 8月を迎えるとやはり「平和」について考えます。イエス様は私たちに、人として一番大切なことは「まず神の国と神の義を求めなさい」(マタイによる福音書6:33)、そうすれば様々な思い煩いから解放されます、そして心安らぐ平和を味わい、こころを「平安」によって治めるようにしなさいと教えています。

(本論) 「主をほめたたえよ」。何がおころうと、心配事があろうと、神様のもとに本当の私たちの故郷があるから、信じて神と共に自分を生きよ。これがキリスト教の福音です。1945年8月6日午前8時15分、人類初の新型爆弾が広島を死の地獄にしました。次いで、9日午前11時2分長崎にも。この原爆によるいたましさは今に続きます。戦争の傷跡はこの水島にもあります。亀島山の地下軍事工場の跡、水島明神町のふれあい会館の庭には当時朝鮮半島から強制的に連れて来られ、再び故郷に帰れなかった人々の記念碑があります。あのむごい時代を生きた人々の中に、その置かれた場所で神様をほめたたえることをやめなかったクリスチャンがいました。苦しみの向こう側に神の約束 の新しい天と地が用意されていることを信じて、その時を待ち望んでいた神の僕の働きが私たちの教会の出発であったことを覚えていきましょう。

(結論) イエス・キリストを救い主、人生の導き手と仰ぎ、そのお方が指示される道を疑いなく信じて歩み続けましょう。謙遜、柔和、寛容を身につけ、忍び合い、許し合って生きることを共に楽しみましょう。
 礼拝で気持ちを一つにして神様を賛美することによって、神様の臨在を感じ、キリストの愛がお互いを結び合わせていることを実感することができます。また、讃美によって沢山の勇気が与えられます。讃美のあふれる教会、讃美のあふれる家庭にしましょう。

2014年7月28日月曜日

礼拝メッセージ  2014年 7月 27日
説教題   「見張っておられる神」
聖 書   ホセア書 第14章4〜7節
(序論) 会堂の中に「嵐の中の舟」を描いた渡辺禎雄氏の版画がかかっています。ガリラヤ湖で嵐を静めたイエス様の奇跡の物語です。斜めに傾く舟、目を大きく見開いた弟子たちの表情は恐れと不安に満ち、絶望の中で死をも覚悟しているかのようです。穏やかな日常が突風によってすべてが無に帰す。これが私たちの現状です。しかし、ここに神の愛の働きかけの奇跡が起こるのです。この舟にキリストが乗っておられるのです。

(本論) ガリラヤ湖の弟子たちの経験は、私たちに「取り戻せる」希望を持たせ、祝福された将来を神が用意してくださっているとの信仰に導かれます。マルコによる福音書第6章には、弟子たちだけで舟に乗り、海の真ん中に出ている時、逆風のためこぎ悩んでいるのをご覧になって、イエス様は夜明けの4時頃海の上を歩いて彼らに近づき、「しっかりするのだ。わたしである。恐れることはない。」と言われ、舟に乗りこまれると、「風はやんだ」と書いてあります。彼らの信仰経験は、死の陰の谷を歩む時もわたしのそばにいてくださるメシアと会う経験となりました。

(結論) 常に私たちに目を注ぐ神が耳をそばだてて、深きふちからの私たちの叫びを祈りに変えて聞いてくださっています。そして、私たちの帰るべき場所に導いてくださいます。そこに、将来に関わる夢と希望が見えてきます。今朝のテキストはただキリストの言葉によってすべては変えられていくという真理を私たちに教えてくれています。ガリラヤ湖上に浮かぶ舟の奇跡の物語から、私の人生に働く神の恵みを見せていただきます。礼拝の初めに賛美した221番はペテロもトマスも立ち直りのチャンスをイエス様から頂いたその証の賛美です。

2014年7月20日日曜日

礼拝メッセージ  2014年 7月 20日
説教題   「和解の祝福」
聖 書   エペソ人への手紙 第2章11〜22節
(序論) キススト者の平安の原点は、この小さい者をご自身の愛によって、神が私の味方として立ちあがってくださっている、私はイエス様を信ずることによって、神様と平和の関係にあるという確信が持てることです。主の十字架と復活、キリストの生きられた生涯のすべてにより、人は神様の一方的な愛によって神と「和解」した存在だと信じられるのです。

(本論) 神の御手の中にある愛されている私は、神の慈愛のぬくもりの中でかけがえのないものなのです。私たちは、神様がこの罪深い者を徹底的に追い求めて探し出された羊です。この者を「わたしの支持する我がしもべ」として取り扱って下さる。ここが「生かされている」私たちの居場所なのです。しかも、救いの恵みによって、神との和解によって、自分のことばかりでなく他者のために生きたいという願いを持つ者に変えられた私たちです。神様は、争いの多い人間関係を失望とあきらめで終わらせず、一緒に喜び、一緒に苦しみ、そして望みの朝を待ち望む理解しあえる関係に変えさせてくださいます。

(結論) もう一度、主の祈りを一語一語味わいつつ祈ってみましょう。私たちは、すでにイエス・キリストが歩まれた道をたどって、主と共に歩んでいくのです。私たちは主の救いを持ち運ぶ務めを与えられたしもべにすぎません。和解の福音の祝福を味わい実行するために、人々との良き出会いを求めていきましょう。人々の中で生き働くのが私たちの使命です。

2014年7月13日日曜日

礼拝メッセージ  2014年 7月13日
説教者   日本ナザレン教団鹿児島教会 久保木聡牧師
説教題   「『ほんまに良かったぁ~』と言える人生がやってきた」
聖 書   ローマ人への手紙   第8章 28〜30節
 神はあなたを、また世界を極めて良いものとしてお造りになりました。この世界に要らないものはありません。草食動物は植物を食べ、肉食動物は草食動物を食べ、動物の排泄物も死骸も大地の肥やしとなり、植物が育っていきます。何一つ無駄なものがない世界を神様はお造りになりました。
 しかし、人間はそのことを受け入れられない現実があります。ある人を要らないと切り捨てて人間関係がいびつになり、あるものを要らないと捨てて生態系が壊されています。神の視点に立つなら、すべてが必要なのですから、要らないと思えるものすら益とされていくのです。そのことを信じていくなら、人間関係も良好となり、地球も住みやすくなるのです。しかし、なかなかそう思えないのが人間の現実かもしれません。
 イエス・キリストは世間が必要としないどんな人に対しても、「あなたが必要」とおっしゃいました。あなた自身、自分の中のある部分に「こんな自分はいらない」と言いながら、自分を傷つけてしまっているかもしれません。しかし、キリストは「そんなあなたも大切だよ」とおっしゃって、あなたを抱きしめておられるのです。
 自分の人生を振り返って、この経験は無駄だった、あの人との出会いは無意味だった、と言えば言うほど、むなしさが増すものです。今はわからなくてもすべてに意味があり、わたしの人生を豊かにするための良き学びであったと気づかされ、喜び踊る日に必ずつながります。今まで気づかなかった自分の人生の輝きに驚かされる日々はもうあなたの手のひらにあるのです。

2014年7月6日日曜日

礼拝メッセージ  2014年 7月 6日
説教題   「神様からの新しい任命」
聖 書   使徒行伝 第9章9〜16節
(序論) 人は自分が神の慈愛の御手の中で生かされていることを知るまで、放浪の旅人である、と言われます。キリストにお会いするまで、パウロの人生は波乱に富んだものでした。彼はキリストにお会いするまでの自分の半生を次のように述べています:「ユダヤ教を信じていたころのわたしは激しく神の教会を迫害し、また荒らしまわっていた」(ガラテヤ人への手紙第1章13節)神はこの人をとらえてご自身の働きの器としました。

(本論) パウロのダマスコ途上における復活の主との衝撃的な出会いが、彼のその後の人生を激変させました。主はパウロについて次のように語ります:「さあ、行きなさい。あの人は、異邦人たち、王たち、またイスラエルの子らにも、わたしの名を伝える器として、わたしが選んだ者である。」(使徒行伝第9章15節)キリスト教の世界宣教の始まりはパウロにあるといえます。異邦人伝道の困難さの中で、救いの恵みの確信が彼を前に押し出したのです。神の愛への素直な応答として主のために精一杯生きることの素晴らしさを主の僕は体験しました。
 モーセもまたパウロと同じ通過点を通り、神からの新しい任命を受けて、エジプトで奴隷とされていた同胞のために自分を神にささげて、私たちの模範となりました。

(結論) 「いっさいの重荷と、からみつく罪とをかなぐり捨てて、わたしたちの参加すべき競争を耐え忍んで走りぬこうではないか」ヘブル人への手紙第12章1節)私たちに人生の目標と任務とを与え給う神ご自身が、責任をもってそれを成就させてくださるとの信仰に立ちましょう。

2014年6月28日土曜日

礼拝メッセージ  2014年 6月29日
説教題   「生きる力」
聖 書   マタイによる福音書 第4章1〜4節
(序論) 梅雨が過ぎると夏の日差しにうんざりしつつも、自然の営みの不思議さに感動します。育ちゆくものの変化の中で、神様は確かにおられると気づかされます。私たちは全てのことを通過点として良き結果に向かって導かれていることを信じましょう。キリスト者にとっては、神は善意をもって私たちをいこいのみぎわに導いてくださるという信仰が大事なのだと教会は語り続けてきました。

(本論) 「神はそのひとり子を世につかわし、彼によってわたしたちを生きるようにして下さった。それによって、わたしたちに対する神の愛が明らかにされたのである。」(ヨハネの第一の手紙4章9節)礼拝の交読文を心にとめて味わいましょう。このことを信じる時、人間嫌いにならず、人に寄り添いつつ、生かされていくことに感謝ができます。私たちは、神の大きな愛の中に覚えられつつ、神と人のために良き者として働かせていただくのです。私たちの務めは御旨に従い、地の塩、世の光として生きていくことです。自分を神の手の中の宝として大事に生きましょう。そして、隣人を大事にし、出会いの不思議さを覚えておかげ様の関係を継続していきましょう。良い関係の継続は許しと支え合 いと祈りが必要です。

(結論) クリスチャンにとって生きているとは、肉体だけでなく神との関係において、信仰により愛の絆によって生かされていることをも意味します。御言葉に養われる命がここで注目されます。私たちは御言葉によって愛の人に変えられ、感謝と喜びをもってこの世に出かけていくことができるのです。

2014年6月22日日曜日

拝メッセージ  2014年 6月22日
説教題   「共に働く者」
聖 書   コリント人への第二の手紙 第6章1〜10節
(序論) 新聖歌257番は疲れた時、落ち込んだ時、私がどう生きることを神様が喜んでくださるかを再認識させてくれる信仰告白の賛美です。この歌の折り返しは、「キリストは生きておられる、わがうちにおられる、すべては御手のうちにあり、今日も励もう主に守られ」です。

(本論) おだやかな時だけでなく、時には荒海の中を進む小舟の様な私たちでも、必ず向こう岸に着かせてくださることを信じて、「御手の中にある」わたし。だから喜びと勝利の信仰を持って、「今日も励もう主に守られ」。ここに気力と希望の保障があります。ルカによる福音書19章に、取税人ザアカイと罪人を招くイエス様との愛の会話があります。このことは、今も私たちのために実行されています。パウロもまた主イエス様との出会いの経験者でした。彼は自分の「生き方」を軌道修正したのです。彼みずから否定していたイエス様に捉えられ、イエス様を受け入れ、命がけでイエス様を世界に紹介したのです。自分をささげて主の僕となる生き方でした。そこから始まる行き 様は徹底して「神と共に働く者」(コリント人への第二の手紙6章1節)でした。「ほめられても、そしられても、悪評を受けても、好評を博しても、神に僕として自分をあらわしている」(同8節)

(結論) 神と共に働く者であり、信仰によって兄弟姉妹と呼び合う人たちと互いに共感しあえることを喜びとしましょう。この交わりと絆が不完全な人間の集まりである教会の中から生まれることを信じましょう。今、厳しい現実の只中におかれていても、「にもかかわらず」、神の計画が信仰の目で見えることでキリスト者は輝いていきます。ハレルヤ!ではありませんか。

2014年6月15日日曜日

説教題   「ぬくもりの摂理」
聖 書   申命記 第1章26〜33節
(序論) 神様は私たち一人ひとりのために不思議な計画をお持ちです。そして、私たちをその計画に向かって導かれます。私たちは、自分らしく生きることを見つけるまでは迷いますが、これが自分の生かされている意味ではないかと気づき始めると、精一杯努力することが生きがいとなり、「燃ゆる人生」に変えられます。

(本論) 人は生きておられる神に導かれてこそ真に生きることができるのだということに気付くと、どんな出来事の中でもあきらめず、神と人のために自分の賜物を使いきれる者にされる、と聖書は教えています。自分が望み、求め、計画した道ではないと思える道であっても、神様は「ぬくもりの御手で私たちにタッチして」、あなたに私の共働者になって欲しいと望まれます。人は冷たい運命に流されるのではなく、神の摂理の御手に導かれて生きている、という自覚を信仰を持って受け入れたいものです。全ての出来事を通して神様に応答する者は、今置かれている状況の中で何ができ、何をしなければならないかを神に示していただき、世の光として一隅を照らす神の子どもとし て生きることに務めます。

(結論) 聖書の中の人間模様は、私たちにこれらのことをしっかり理解させてくれます。アブラハムしかり、ヤコブしかり、ヨセフしかり、もちろん、イエス・キリストの生涯は今この時代の真っただ中で私たちの望みと模範です。神のぬくもりの御手が私たちをゆっくり磨き上げてくださいます。福音の語り部となる、これが私たちの望みです。

2014年6月8日日曜日

説教題   「語りかけ給う神」
聖 書   ヘブル人への手紙 第1章1〜3節
(序論) 私たちが信じる神は、私たちに語りかける神です。哲学によって考えられた神ではなく、「わたしはこういう者だ」と発信し続けておられる神です。聖書によって神の声を聞くことができます。そこからくる新しい生き方と価値観により本当の意味で生きる者とされると聖書は語ります。その真理は今の時代に生きる者にも平安と勇気を与えてくれます。

(本論) 私たちが毎週、日曜礼拝の中で告白する使徒信条の最初の言葉は、「われは天地の造り主、全能の父なる神を信ず」です。私たちは、「神様、私の願いと意思とを実現させてください」ではなく、「神様、あなたの御心を悟らせてください」と祈る者にならせていただきましょう。そこから、神の恵の言葉に対して素直にその言葉を受け入れる者に変えられます。御言葉への聴従により神と対話する者に変えられていきます。信仰的であるとは、ひたすら聞くことに徹するとも言えます。そして次に神への応答の行動が始まるのです。

(結論) 神への応答として人が生きる時、マタイによる福音書の最後の言葉が私たちを奮い立たせるでしょう:「それゆえに、あなたがたは行って」(28章19節)「あなたがたに命じておいたいっさいのことを守るように教えよ。見よ、わたしは世の終わりまでいつもあなたがと共にいるのである。」(28章20節)私たちがこの世で、神のみ心に添って生きて行くことは、まさに戦いでありますが、神の約束が私たちを支えてくださいます。御言葉の光を大切にいたしましょう。

2014年6月1日日曜日

説教題   「祈り・感謝・望み」
聖 書   テサロニケ人への第一の手紙 第5章12〜25節
(序論) 聖書の神は、祈る者であれ、どんな状況の中でも感謝できる者であれ、そして希望を持ち続けることのできる者であれ、そのように神によって変えられた者を祝福してくださいます。

(本論) 第一に、祈りのある人生。祈りの人は、自分の都合の良いことだけを求め「神さま、私にお恵みをください」などと祈ることは決しありません。そして、祈りの人は、自分がどんなつまらない者であるかを知っており、いつも大きな支えのみ言葉によって生きています。そのお方の御旨にそう生き方を求め続けます。また、祈りは隣人を気付かされます。
 第二は、どんな時、どんな想定外の出来事にも感謝で締めくくれる自分であるようにすすめます。素晴らしい導きと摂理の中で生かされている私たちです。神様は小さい者を注視されておられます。すべては神様の御旨と信じ受け入れる時、感謝ができる、これがキリスト者です。
 第三は、インマヌエル(神われらと共にいます)の神と共に行く道です。ここに希望があります。「艱難をも喜べる者」と聖書にあります。「それだけではなく、艱難をも喜んでいる。なぜなら、艱難は忍耐を生み出し、忍耐は練達を生み出し、練達は希望を生み出すことを、知っているからである。そして、希望は失望に終わることはない。」(ローマ人への手紙5章:3,4,5節)神の恵みに生きる者は失望に終わらないとの約束です。神様の先手がいつも望みを用意してくださいます

(結論) 私たちはどこにおるべきでしょう、どこに立ち続けるべきでしょう。新聖歌339番を心から賛美しましょう。これが私たちの信仰です。
 「恵みの高き嶺 日々わが目当てに 祈りつ歌いつ われは登り行かん
     光と聖きと 平和に満ちたる 恵みの高き嶺 われに踏ましめよ」
 「険しき坂をも 直ぐなる岩をも 御助けある身は ついに登りきらん
     光と聖きと 平和に満ちたる 恵みの高き嶺 われに踏ましめよ」

2014年5月25日日曜日

説教題   「その名はインマヌアル、神われらと共にいます
聖 書   マタイによる福音書 第1章18〜24節
(序論) 私たちはイエス・キリストを通して神に出会い、人生の意味を見出します。イスラエルの民は「インマヌエル(神われらと共にいます)との予言(イザヤ書7章14節)の成就を切に祈り求めていました。この予言の成就がクリスマスです。

(本論) 人となられたイエス・キリストによって、救いの経験に導かれます。このお方が「神われらと共にます」ことを私たちに味あわせてくださるのです。神さまの一方的な愛がイエス・キリストをインマヌエルとして私たちの中に降誕させてくださいました。このお方を見上げる時、「み子によってこの世は救われる」という希望をもたされます。(ヨハネによる福音書3章17節)私たちは常に「われらと共にいます」神と共に人生の旅路を歩く者とされているからです。このお方はどんな時も、どんな境遇の変化にも、信ずる者の味方として、勝利を目当てに感謝と喜び、そして望みの祈りで締めくくる人生を選び取らせていただけます。インマヌエルの神は祝福を約束し、同時に苦しみをも共 に背負って下さるお方です。

(結論) わたしは悩みのうちに主に呼ばわり、わが神に叫び求めました (詩篇18篇6節)。信仰者は奈落の渦の中で、インマヌエルの神様に叫び求めます。「彼は私を愛し離れないゆえにわたしは彼を助けよう。彼はわが名を知るゆえに、わたさいは彼を守る」(詩篇91篇14節)この約束を信じて生きるのがクリスチャンです。どんな時も私たちのそばにおられる神は、私たちを裏切らず、み言葉の約束通り一人ひとりの具体的な生活の中で、ご自身の愛をお示しくださいます。これがキリスト者に与えられている恵みです。

2014年5月18日日曜日

礼拝メッセージ  2014年 5月 18日

説教題   「神の言葉に生かされる
聖 書   エゼキエル書 第2章1〜10節
(序論) 健康食品の多さに驚きます。人は、肉体的に健康であることを気にしがちですが、人間は精神的な生き物であることを忘れてはいけません。加えて、神様との関係を切に求める霊的な存在であることも自覚することが大切です。

(本論) 人間が神様との正しい関係を確立して、人生の土台とし、その人生を支え励ましてくれるのが聖書です。聖書は、すべて神の霊感をうけて書かれたものであって、人を教え、戒め、正しくし、義に導くのに有益である。それによって、神の人が、あらゆる良いわざに対して十分な準備ができて、完全にととのえられた者になるのである」(テモテへの第二の手紙4:16、17)
 クリスチャンは信仰と生活の規範として聖書を「聖典」と信じ受け入れます。道に迷う時、道標が進むべき方向を示してくれるように、聖書は私たちの人生のあらゆる出来事に答えを出して、完全に教え導いてくれます。教会が聖書を読むことに力を抜いた時、悲惨な結果になることは歴史が証明しています。エゼキエルはみ言葉を食べなさいと表現しています。(エゼキル書2:8~3:3)

(結論) イエス様はご自分を「天よりのパン、命のパン」と言われました。「わたしが命のパンである。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決してかわくことがない」(ヨハネによる福音書6:35)
 時に聖書には哀歌とうめきと嘆きの言葉もあります。しかし、これをよくかんで腹に納めるとき、はつらつとした喜びがあふれます。聖書は、にがさの後に甘い蜜の幸せを経験させます。命の糧が私たちを永遠に生かしてくださいます。まず、聖書を手元に置きましょう。そして開きましょう。

2014年5月13日火曜日

礼拝メッセージ  2014年 5月 11日

説教題   「人の計算が崩れる時」

聖 書   創世記 第32章22〜32節

(序論) 母の日の起源:5月の第二聖日は「母の日」として特別に母を覚えて礼拝する習わしがキリスト教会にはあります。1905年5月9日、アメリカのバージニア州ウェブスターのメソジスト教会で40年近く日曜学校(教会学校)の教師として奉仕されたクレア・ジャーヴィス婦人が亡くなり、その娘アンナ・ジャーヴィスはお母さんの好きだったカーネーションの花を沢山飾ってお母さんをしのびました。このことが列席者に大きな感動を与え、その後、1914年アメリカの祝日と定められ、世界中に広まったのです。

(本論) 人は誰しも、母のやさしさと強さに育まれて人生の土台を作ってもらいました。時には悲しい母との思い出しかない人においても、今自分が生き働き、家族を持ち、友を持っていることが、生きる力となっています。神と人の前に謙遜になって、この日、「お母さん、ありがとう」と感謝しましょう。

(結論) 神は御自身のふところに私たちが帰るまで、この混沌とした社会の中で忍耐強く導き支えてくださいます。私たちは生かされて、萌える野山の緑のように人をいやし励ます者に育てられます。そして、神さまとの出会いが、摂理のうちに用意されていることに気づくのです。 

2014年5月4日日曜日

礼拝メッセージ2014年 5月4日

説教題   「小さき者からの光」

聖 書   マタイによる福音書 第18章1~6節

(序論) 五月晴れの空に泳ぐ鯉のぼりに、子どもへの親の愛を感じます。子を思う親心です。日本社会に生きる私たちが教え語り伝えたいことは、共に生きる他者への配慮です。人は他者から沢山の愛をいただいて生かされていることを悟る時、他者を大切にする者になれます。主の弟子たちでさえ、誰が一番偉いかと互いに競い合いました。しかし、主は「神の国」では誰が偉いのかを問題とされました。

(本論) 主は幼な子を会衆の真ん中に立たせて、誰でも「心を入れかえて幼な子の様にならなければ」と、低さを強調されました。価値観の多様さの中で低さを積極的に闘いとれと言われます。人は皆共存する喜びを経験して、他者に対して寛容になれます。そして生まれ変わって自分と共に隣人に配慮する者となれます。これは「生まれ変わって」と言われる本当の意味で自分を知り、神に導かれて人間理解をすることの苦闘を通過できるのです。人は「試練」を通して神の真実を分からせていただけます。(Ⅰコリント10:1-13)
 子育ては祈りによって支えられ、望みをもって常に戦うことを求められています。大切なのは、「主の薫陶と訓戒によって」子どもを育てることです。子育ての望みは、「神様の助けがある」との信仰にあります。

(結論) 「植える者も水を注ぐ者も、ともに取るに足りない。大事なのは、成長させて下さる神のみである。」(コリント人への第一の手紙3章7節)ここに福音的教育の成果を見せていただけるのです。苦闘の中に神様の導きと助けが必ずあると信じられる時、すべてを感謝に変えていただけます。人生はいつも一つの締めくくりの時、「感謝の実を結ぶ」。このことが大切なことだと思います。

2014年4月28日月曜日

礼拝メッセージ2014年4月27日

教題 「勝利を賜る神」

聖 書   コリント人への第一の手紙
第15章54〜58節

(序論)誰もが今の時代は良い方向に向かっているとは思っていません。しかし、主の十字架と復活によってこの時代の只中に希望の約束があります。「わたしたちの主イエス・キリストによってわたしたちに勝利を賜る神に感謝しよう」(コリント人への第一の手紙15:57,新共同訳)

(本論) 思い煩いの多い現実の中で、「たとえ、明日この世界が滅びると聞かされても、わたしはリンゴの苗木を庭に植えるだろう」と宗教改革者マルティン・ルターは言いました。彼は当時の腐敗したカトリック教会に対してプロテスト(抗議)したのです。もう考えまい、自分の今を守り通せばそれでいいではないか、そういう逃げもあったでしょう。彼の唯一の関心は御言葉 に聴くことでした。常に聖書に帰り、聖書から出発する、この繰り返しによって自分の生き様を確認しつつ、神と人に仕え通しました。彼を支えるお方は復活のキリストでした。「だから、愛する兄弟たちよ。堅く立って動かされず、いつも全力を注いで主の業に励みなさい。主にあっては、あなたがたの労苦がむだになるこ
とはないと、あなたがたは知っているからである。(コリント人への第一の手紙,15:58)「だから」「主にあって」このことが大事なポイントです。

(結論) 神様は私たちの苦労を用いて本当の望みと喜び、生きがいを持たせて人生の勝利者にしてくださいます。 十字架のあがないによって生きることを保障して下さるお方が私たちの救い主です。このお方にお会いし信 ずることのできる者にされたことは、まさに奇跡です。地上の生涯は死で終わるのではなく、復活とその先にある永遠の命こそ大切なのだとキリスト者は考えます。

2014年4月13日日曜日

礼拝メッセージ2014年4月13日

説教題   「つらぬく愛」

聖 書   マタイによる福音書 第26章20〜25節

(序論)今日は棕櫚の聖日です。今週は「受難週」です。
 月曜日:宮清め 
 火曜日:論争 
 水曜日:ベタニヤでの安息
 木曜日:洗足、過ぎ越しの食事(最後の晩餐) 
 金曜日:受難日(十字架) 
 土曜日:墓の中の主  
 日曜日:復活(イースター)
 これらのことを偲びつつ、木曜日の出来事に注目しましょう。


(本論) 教会の中にダ・ヴィンチの「最後の晩餐」の絵があります。屈託のない12人の弟子たちがイエス様を中心に何か話しています。「誰が一番偉いか」が話の中心だったのでしょうか。やがて起こることをご存じの主にとっては、淋しい孤独の時でもありました。「わたしをひとりでけ残す時がくる であろう。いや、すでにきている」(ヨハネによる福音書16:32)主は自分を見捨てる者たちと生涯最後の食卓を囲んでいます。大見えをきったペテロがいます。主を売ったイスカリオテのユダがいます。同じ場所、同じ時、同じ食卓を囲みつつ、主の心に思いをはせる者はいなかたのです。これが最後の晩餐でした。しかし主は彼らを愛し通されたのです。罪びとを招くことを使命とされたご自身
の「生」を全うされます。「しかしわたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈った、それで、あなたが立ち直ったときには、兄弟たちを力づけてやりなさい」(ルカによる福音書22:32)ここにすべてを貫く神の愛があります。  

(結論) 私たちは救われた罪びとです。しかし今、信仰によってイエス様に覚えられ、祈られている私たちです。神様のお取り計らいの中に生かされているのです。ここに全ての望みの根源があります。この最後の晩餐は、キリスト者の最初の喜びの晩餐となりました。教会は今もなおこのことを引き継いで「聖餐式」を行っています。

2014年4月6日日曜日

礼拝メッセージ2014年4月6日

説教題   「従順な羊として」

聖 書   詩篇 第23篇

(序論)キリスト教のシンボルには、十字架、羊、ぶどうの木、輝く星、ともし火等があります。一般に神とはスーパーマン的なオールマイティに勝利するお方との印象がありますが、キリスト教の神は、「弱さの中に隠れている」神と言えます。

(本論) 全能の神が「心を痛めて」人間に迫る愛として存在しておられます。頑張る強さでなく、人に寄り添う「良き羊飼い」と呼ばれるにふさわしい神様です。人は良き羊飼いに養われる羊なのです。この羊は自分のすべてを他者に与えて命を全うします。羊の強さは導く者に従い通す従順の強さです。
 神様が小さい者にこそ目を注いでおられるとはなんと素晴らしいメッセージではありませんか。
「わたしは良い 羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。わたしは羊のために命を捨てる」(ヨハネによる福音書10:14,15)

(結論) このお方を信じて、その言葉に委ねた人生には、素晴らしい希望が見えてきます。私たちが信じる神は、常に私たちと行動されます。なぜならそこには神に「支持」された生き方があると預言者イザヤは言います。人は我を張る生き方から愛の犠牲を喜べる者になれます。私に近づいてくださる神からいただく力によって強くされて初めて本当の強さに生きる者にされます。これがキリスト者の誇りなのです。「主にあって、その偉大な力によって強くなりなさい」(エペソ人への手紙6:10)ここにキリスト者の強さの秘訣があります。

祈り: 神よ、あなたに従うことで誘惑の道から守られます。主の導きのままに一日一日を旅立って行きます。アーメン

2014年3月30日日曜日

礼拝メッセージ2014年3月30日

説教題   「尽きざる神の慈しみ」

聖 書   ホセア書 第13章4〜8節

(序論)聖書の伝道の書7章14節に、「順境の日には楽しめ。逆境の日には考えよ」とあります。調子よく行く時も、いかない時も、いかなる時も神はその中を通らせつつ、人について、神について、考えさせるのです。

(本論) 神様は私たちに言われます、「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい」(テサロニケ人への第一の手紙5章16〜18節)これが神様が私たちに求めている幸いな状態だと言われます。
 イエス様に「愚かな者よ」と言われた金持ちがいました(ルカによる福音書12章13〜21節)。彼は豊かであったけれど他人と共に生きていることを喜べませんでした。謙遜であることができませんでした。いつ死ぬかも知れぬはかなさ を考えませんでした。主は人はみな寄り添うて生きる、弱いけれど神様によって生かされている、このことを知れ、と教えられます。人はみな共同体の中で肢体の関係で生かされているのです。
 「わたしはエジプトの国を出てからこのかた、あなたの神、主である。あなたはわたしのほかに神を知らない。わたしのほかに救う者はない」(ホセア書13章4節)この原点は神様に愛されている信仰者の心すべきことです。


(結論) 神の慈しみは絶えることがない。このことを知る時、心から喜びがわいてまいります。教会の中に新しい風が起こることを信じて共に集いましょう。内なるものを強くされて新しい年度の出発に希望をもって踏み出してまいりましょう。恵みの手ほどの雲が見えております。今日 まで支え給うた神が、私たちを祝福して御名をほめたたえさせて下さいます。神の恵みは日常の出来事を通して分からせて頂けます。