拝メッセージ 2014年 12月 28日
説教題 「主の僕の闘い」
聖 書 イザヤ書 第42章1~4節
聖 書 イザヤ書 第42章1~4節
(序論) 2014年の最後の聖日礼拝です。この1年、私たちの人生の旅路を折にかなう助けをもってお導き下さいました生ける主に感謝します。一つひとつの出来事のうちに、神の恵み深い慈愛の御手を覚えました。神様は無駄なくすべてを用いて私たちを教育されます。「神様は一番良い時に最善の事をしてくださる」このことをわきまえるまで、御言葉は弱い時の励まし、悲しい時の慰め、迷いの時の道しるべでした。
(本論) 今一度、素直に自分の立つ場所に目を注ぎましょう。主は、私たちが生きることを支え、この世界に御旨を伝えるために用いて下さいます。傷ついた葦を折ることなく、ほの暗い燈心を消すことなく灯し続けて下さるのです。イエス様は言われました:「人を支配する者、権力をふるう者にあこがれるな。かえってあなたがたの間で偉くなりたいと思う者は僕となりなさい」。これがクリスチャンのこだわりです。ここに立ち続けることが私たちの務めです。
イザヤ書には4つの僕の歌があります:(42:1-4)(49:1-6)(50:4-9)(52:13-53:14)。僕という言葉は、本来奴隷を意味します。クリスマスの日、誕生されたイエス様はこの世界の支配者であるにもかかわらず、僕となられたのです。この世界の人々に仕える者として生き行かれました。「イエスは主なり」と告白する時、主と共に生きるのがキリスト者であるとすれば、これはまさに闘いつつ自分のものとする信仰の営みそのものです。神の僕として生きることは自己選択ではなく、上から声をかけられ決断して従うことです。地味ではあるが、いぶし銀のような輝きを秘めた生き方です。主の僕は、不利な状況の中でも全てを御手に委ねることのできる勇気と信仰をもって証しの行動を起こしま す。
(結論) 謙遜と臆病は違います。平和と妥協は別です。本当のキリストにある忍耐と謙遜を知る者だけが福音のために大胆になれます。こう祈りましょう:「主なる神様、御子が弟子たちの足を洗い僕となってくださいました。これを手本として僕のわざをさせてください。希望をもって落胆せずに主の証人となるためにすべての人の僕とならせてください。アーメン」