2020年4月26日
主日礼拝メッセージ
水島ナザレン教会 牧師:滝本文明
主 題 「世界的感染症から聖書の教訓」 -出エジプト記9章1~7節
皆様、おはようございます。先週19日礼拝より5月3日まで、教会礼拝堂での兄弟姉妹の皆様と対面しての礼拝が出来なくなりましたが、私がいつも講壇から主のみ言葉を語っているつもりで、この文章を書いています。皆様も、いつもの姿を想像しつつ、原稿から主のメッセージを受け取っていただきたいと願っています。
さて、今日の箇所は、新型コロナウイルスが世界的感染へと広がった時から、いつも私の頭の中で浮かんでいた所です。主が、エジプトのパロ(ファラオ)王への、10の災いの第5番目のさばきです。創世記46章34節には、エジプト人が羊を忌み嫌っていたことが記されてあります。馬やラクダは戦争や物の運搬のために必要な家畜でした。そして牛は神聖の動物として尊んでいました。しかし、主は牛や馬や羊を同じようにうたれたのです。しかし、イスラエル人の家畜は全く安全でした。私たちが自分の健康や出世やお金、また、自分の子供などを何よりも尊いものと考えて、神様をほめたたえる礼拝や隣人への愛の奉仕を軽んじることへの厳粛な警告ではないでしょうか。主の許に在ってこそ子供も財産も健康も安全なのだと、この時代にあって本気でそのことを悟らせて頂きましょう。
1)人間の責任の大きさ
3節~4節、疫病(デベル)の災いがおこされました。「疫病」「デベル」という言葉は、旧約聖書では基本的には、神様のさばきに関する言葉として使われている言葉です。イスラエルのに対しても、異邦人に対しても「疫病」は、神様の裁きとして下される言葉として使われました。 神様は災いとして多くの家畜を殺されました。災いから、パロ(ファラオ)の罪、私たち人間の罪の重さを教えられます。人間の間違った判断のために、動物たちに災いがふりかかったのです。
人間の生き方は、多くの自然や生き物にも影響を及ぼしていく、この世界の端から端まで、すべての出来事と繋がっているのです。自分の行為で、神様の造り出された世界が破壊されているのか、私たちはきちんと知り、受け止め、悔い改める必要があります。
先日、NHKの9時のニュースで、アメリカの製薬会社が開発中のエボラ出血熱の治療薬を新型コロナウイルスに感染した患者に投与したところ、人工呼吸器などを必要とする患者のうち、およそ7割の人で改善が見られたとする報告がアメリカの医学雑誌に発表されました。エボラ出血熱の治療薬「レムデシビル」は、新型コロナウイルスに感染した重症患者に効果がある可能性があるとして、人道的な理由から日本や中国など一部の国ですでに投与が始まっています。
エボラ出血熱は、コウモリなどを自然宿主としてもともと存在しています。 コウモリの食用や、感染して死んだサルやコウモリに接触することにより人間に感染し、感染した人間の血液や体液に触れることにより、人から人へ感染します。アフリカでは死体に触れて弔う習慣があり、感染を拡大化させた一因とされています。
聖書に記されているエボラ出血熱の予防法、三千年以上前に書かれた旧約聖書に動物の食用や死体の扱いについて書かれています。その一部は以下のようです。
「また、鳥のうちで・・・これらは忌むべきもので、食べてはならない。すなわち、…こうもりなどである。」レビ記11:13-19
「次のことによっても、あなたがたは汚れたものとなる。すなわち、これらのもの(こうもり含む食用を禁止されている動物)の死体に触れる者はみな、夕方まで汚れる。 」 レビ記 11:24
「あなたがたは自然に死んだものを、いっさい食べてはならない。」 申命記 14:21
また人間の死体の取り扱いについては、
「どのような人の死体にでも触れる者は、七日間、汚れる。 」 民数記 19:11
エボラ出血熱は、コウモリを食べず、死んだそれらの動物にも触れず、そして出血熱で死亡した死体に触れなければ、このように拡大することはなかったでしょう。実際この旧約聖書を守っているユダヤ教徒はアフリカでも感染していないといいます。
このレビ記、 民数記、 申命記の書かれた三千年前は、ウイルスの存在はおろか、伝染病という概念すらなかった時代です。しかし正しい予防法が書かれているのは偶然でしょうか。
聖書に預言されている伝染病の脅威
1941年、世界最初の抗生物質の登場より多くの人々が細菌感染から救われ、1980年には天然痘の根絶宣言がWHOから出され、人間と感染症との戦いは人間が勝利したかのようでした。
しかし、約二千年前に書かれた新約聖書の黙示録 6章7節 にはこのように書かれています。
「私は見た。見よ。青ざめた馬であった。これに乗っている者の名は死といい、そのあとにはハデスがつき従った。彼らに地上の四分の一を剣とききんと死病と地上の獣によって殺す権威が与えられた。」
この「死病」とは疫病、すなわち感染性伝染病を意味します。
1980年代、感染性伝染病が人間にとってもはや古い病気になりつつあった時代であったなら、疫病で人間が大量死すると書かれている聖書のこの箇所は、時代遅れの物語としか思えなかったでしょう。
しかし、1999年には薬剤耐性菌が出現、そして21世紀になり新型インフルエンザ、SARS、エボラ出血熱の流行と、人類は感染性伝染病の脅威に再び怯えているのです。疫病に脅かされ死にさらされる人類の歴史は、聖書に記されているようにまだ終わっていません。
聖書は決して非科学的な古ぼけた本ではありません。それは、神が書かれた書物です。ですから、聖書の内容を信じることができるのです。
2)感染症の広がりは、終末時代への備えをするようにという警告
ハーベストタイム(テレビ伝道番組)の中川健一が、質問者に次のように回答しておられます。
■Q:新型コロナウイルスが世界に広がっています。本当に恐ろしい時代です。この問題は、聖書的にはどう考えたらよいでしょうか。
A. 回答
A:タイムリーな質問をいただきました。これは、断定的に答えるのが難しいテーマですが、私なりの考えを述べてみたいと思います。いつものように3つ申し上げます。
1番目に、疫病の存在は、被造世界が堕落した状態にあることを示しています。
質問者様は「本当に恐ろしい時代です」と言われましたが、実は、世界規模の疫病の被害は、歴史の転換点でたびたび起こっています。古代には天然痘、中世から近世にかけてはペスト、19世紀にはコレラ、第一次世界大戦期にはスペイン風邪と言われたインフルエンザが、多くの人々の命を奪いました。最近の感染症の広がりは、人類史的に言えば、グローバル化と関連しています。疫病との戦いは、被造世界が完全な状態に回復されるまで続きます。
2番目に、疫病が霊的メッセージを持っている場合もあります。
つまり、神が疫病を通してお語りになるということです。その例を3つ挙げます。①出エジプトの時代、神はエジプトに疫病をもたらされました。目的は、ファラオにイスラエルの民を解放させるためです。②カナンの地に定住して以降の時代、神はイスラエルの民に疫病をもたされました。目的は、イスラエルの民を悔い改めに導くためです。③イエスは、すべての病を癒されました。これは、イエスが救い主であることを証明するしるしとなりました。疫病に霊的メッセージが込められているかどうかは、慎重に判断する必要があります。
3番目に、疫病は、患難期の予表と見ることができます。
終末時代に関して、イエスはこう語っておられます。 「大きな地震があり、方々に飢饉や疫病が起こり、恐ろしい光景や天からの大きなしるしが現れます」 (ルカ21:11)。黙示録16章には7つの鉢の裁きが出て来ますが、これは患難期に地上を襲う最悪の疫病と災害の預言です。今起こっている感染症の広がりから学ぶべき教訓は、それ以上に過酷な疫病と災害に対して自分は備えができているだろうかといことです。イエス・キリストを救い主と信じた者は、患難期の裁きから守られます。
参考になる聖句
「また私は、大きな声が神殿から出て、七人の御使いに、『行って、七つの鉢から神の憤りを地に注げ』と言うのを聞いた」 (黙示録 16:1)
感染症の広がりは、終末時代への備えをするようにという警告と考えることができます。
■最後に、サムエル記下24章10~19節(P472)で、神様の裁きと憐みの深さを教えられます。
1節をリビングバイブルでは、「神様が再びイスラエルに怒りを燃やすようなことが持ち上がりました。 ダビデはどうしたことか、人口調査をして国民をわずらわそう、という思いにかられたからです。」とあり、また同じ内容が、歴代志上21:1節(P590)にあります。
サタンがダビデを誘ったと記されています。この二つから、神様はダビデに対するサタンの誘いを許容されたと言えるでしょう。ダビデは調査を軍団長ヨアブに命じましたが、ヨアブは国が強くなるのは兵力の多寡によらず、神様の祝福によるものであり、王は何故調査を望まれるのかと問い、諫めました。人口調査そのものが問題なのではなく、根底にある民の数を国の拠り所とし、神様への信頼を失っていたことが問題でした。ダビデはヨアブを説き伏せ、ヨアブは調査を実施し、イスラエルには兵士80万人、ユダには50万人であると報告しました。
民を数えて後、ダビデは自ら良心の咎めを覚えました。預言者ガドが来る前です。「とがめを感じた」との言葉は、「打つ、打たれる」の意味です。ヨアブに諫められた時には気づかなかった、でも、ここでは心打たれ、気づかせられ、神様の前に罪を告白しました。ダビデの魂が打ち砕かれた様が示されています。ダビデは、翌朝ガドを通し、神様の言葉として裁きが告げられ、七年の飢饉、三ヵ月の敵国が追うこと、三日間の疫病かを選ぶよう尋ねられ、人間の手ではなく、「主の手に陥ることに…。主のあわれみは深いから」と神様の裁きに服し、神様の憐れみに拠りすがりました。神様は疫病を下され、民の内七万人が死に、しかし、御使いが更にエルサレムに手を伸ばそうとした時、神様は災いを下すことを思い直されました。ダビデは、民ではなく自らへの裁きを神様に求めました。その日、ガドは、ダビデを訪れ、エブス人アラウナの打ち場に上り、主のために祭壇を築くよう命じ、ダビデは、その言葉に従い、祭壇を築き、全焼のいけにえを捧げました。神様の裁きは、終わりました。
神様の裁きからの救いは、ダビデの悔い改めによりましたが、その土台は、神様の憐れみによりました。神様は、ご自分からエルサレムを裁くことを思い直され、ご自分から救いの方法をガドを通し告げられました。さらに言うならば、ダビデ自ら罪が示されたのは、神様の働きによりました。ここでダビデが祭壇を築いた場所は、ソロモン王が神殿を建てた場所、さらには神の御子キリストが十字架に架かれらた場所となりました。サムエル記はダビデの不従順をもって終えています。ダビデの生涯が神の憐れみによる恵みの生涯であったことを示しているのです。神様は、まことに憐れみ深いお方です。ご自分に背いた私たち人間を憐れみ、御子キリストの十字架による贖罪の故に罪を赦し、神様とともに生きる真の幸いの道を与えて下さいます。私たちは、信仰の歩みにおいても神を見失い、高ぶることがあります。しかし、その中で罪が示されることがあります。それは神様の働き、聖霊なる神様の働きです。決して嬉しいことではありませんが、神様がお取扱いになろうとされているのです。そして、蒔いた罪の種を刈り取らなければならない、神様の裁きに服さなければならないこともあります。でも、その時に、魂が打たれ、神様の憐れみに拠りすがる者を、神様は、赦し、必ず立ち上がらせて下さいます。神は、そのようにして練り聖め、ご自身の憐れみを証しされるのです。そうしていく時に、神様がダビデに対するサタンの誘いを許容されたことが、少し見えてきます。神様は、ダビデの高ぶりを砕かれ、深くお取扱いになり、ご自身の憐れみを証しされたのです。
自分の罪や弱さが示された時、神様の深い愛のお取扱いの時であることを覚えましょう。神様の裁きに服す時、神様の憐れみに拠りすがり、キリストの十字架を見上げ、神様に身を委ね、主を待ち望みましょう。神様が私たちに与えて下さっているのは、災いの計画ではなく、平安を与える計画であり、将来と希望を与える計画であるのです。(エレミヤ書29:10~11)