2014年10月26日日曜日

礼拝メッセージ  2014年 10月 26
説教題   「自ら変わる勇気」
聖 書   ヨハネによる福音書 第21章20〜23節
(序論) 神様がこんな私をも必要として選んで下さったことを聖霊に教えられましょう。この気づきにより、感謝と喜びのある日々に変えられます。伝道の書に、「順境の日には楽しめ、逆境の日には考えよ」(第7章14節)とあります。神様は全てを無駄なく用いて私たちをたくましい信仰者に導き育ててくださいます。「神様は人生のあらゆる出来事から幸福な結果を生み出して下さる」(ローマ人への手紙第8章18節、柳生訳)何と望みに満ちた信仰でしょうか。
(本論) 使徒ペテロを用いた神は今も私たち一人ひとりに目をとめて、「私はあなたを必要とし選び召した」と言ってくださいます。いつも一番でないと納得しなかったペテロです。復活のイエス様にお会いした時も、主の愛されていた弟子ヨハネと比べ、「主よ、この人はどうなのですか」(ヨハネによる福音書第21章21節)と問い返したペテロでした。主は答えて、「私はあなたに求めます。あなたは私に従って来なさい」と。「あなたは」、このきびしい言葉をもってペテロに服従を求めます。ルカはもう一つエピソードを書き残しています。ルカによる福音書第22章61、62節です。「彼がまだ良い終わらぬうちに、たちまち鶏が鳴いた。主は振り向いてペテロを見つめられた。 その時彼は、『今日、鶏が鳴く前に三度私を知らないというであろう』との主のお言葉を思い出した。そして、外へ出て、激しく泣いた。」この涙こそペテロの砕かれた心を表す服従の証しでした。神が自分を変えて下さるとの信仰の開眼の時でした。
(結論)神様は一人ひとりの信仰告白を受けとめてくださいます。信仰からくる内面的な戦いを通して変えられる自分に気づきます。
日々み言葉に聴き、祈りに導かれる時、祈りは信仰の決断をさせます。神と共に生きる決断が神との関係を常に強い結びつきとします。小さな勇気が神様と共に生きる原点です。この原点に帰ることで信仰は成熟していきます。

2014年10月19日日曜日

礼拝メッセージ  2014年 10月 19
説教題   「望みの祈り」
聖 書   ルカによる福音書 第11章1〜13節
(序論)人はどんな「祈り」を持っているかで、人柄とか生きがいまでもが見えてきます。ある時、弟子たちがイエス様に尋ねます、「どう祈ったらよいのでしょうか」と。その時イエス様は教えてくださいました。これが教会が大切にしている「主の祈り」です。本当は、「主が教えて下さった祈り」というのが適切かもしれません。祈る言葉さえ知らなかった私たちが、神様を見上げ、自分を知り、イエス様が愛された事柄全てを愛する者にならせていただくための成長と課題がこの祈りには包含されています。
(本論)祈りの呼びかけは「天の父よ」です。遠い存在である神様を「アバ父よ」と近くにおられる方として意識させます。お父ちゃん、パパとでもいう親密な表現です。「御名があがめられますように」。キリストのために自分を捧げて生きる、「栄光のために」。これが私たちの生きる目標の原点です。神様は日常の生活の隅々にまで行き届いてご配慮されます。「日ごとの食物」までも神様の慈しみです。「求めよ」「門をたたけ」。私たちに必要なものを知っておられる神は、「しきりに」願い求める忍耐強い祈りを求めます。神様は手軽な答えは見せません。 
(結論)神様は望みをもって一途に求める祈りには、必ず良き結果に向かって導き配慮し、一番良い時にその祈りをかなえて下さる。これがクリスチャンの強さです。人は、祈りを通して待つことを学び、待つことによって既に神の側で用意されている答えを楽しみに待てる者となれます。神様の恵みは無条件に与えられます。その恵みに人が応答する生き方で信仰からくる望みに輝けるのです。

2014年10月12日日曜日

礼拝メッセージ  2014年 10月 12

説教題   「一途な求め」
聖 書   ペテロの第一の手紙   第2章18〜25節
(序論) 聖書は難しい哲学書ではなく「信仰」の書です。その内容は「人を教え、戒め、正しくし、義に導くのに有益である」(テモテへの第二の手紙3章16節)とあります。人は、聖書によって生きるに値する者だと気づかされます。救いの恵みによってイエス・キリストの十字架と復活を信じ、望みある人生を一途に求めさせます。人は、様々な状況の中に置かれながら神様に導かれ、「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。全ての事について感謝しなさい」(テサロニケ人への第一の手紙5章16~18節)という言葉を素直に受け入れられる者に私たちを変えてくださいます。

(本論) 「一途に神を求めよ。信仰からくる祝福を生活の中で味わいなさい」このことをクリスチャンは大切にしています。ペテロは欠点の多い者でした。しかし、神様はこのペテロを大いに用いて教会の柱としました。それは、ペテロが失敗の中で、ただ神の愛情豊かな御言葉を信じ、そこに帰って立ち直ったからです。神様は私たちをとらえて教会の肢体とされます。そして、人生の終わりにこう叫ばさせてくださいます。「わたしは戦いをりっぱに戦い抜き、走るべき行程を走りつくし、信仰を守りとおした」(テモテへの第二の手紙4章7節)一途に走り抜ける人生の勝利者の言葉です。

(結論) 神様を求め続けましょう。神様に聴きながら子どものように素直な気持ちで従う時、新しいことが恥まり、継続していきます。私たちに先立って導いてくださるイエス様は、私たちと同じ人間として人の世の悲しみを味わった方です。このお方が私たちの模範として足跡を残してくださっています。このお方が私たちに約束してくださっています、「あなたがたは、この世では悩みがある。しかし、勇気を出しなさい。私はすでに世に勝っている」(ヨハネによる福音書16章33節)このお方こそ私たちの良き牧者なのです。

2014年10月5日日曜日

礼拝メッセージ  2014年 10月 5

説教題   「常に共なる神」
聖 書   創世記   第28章10〜17節
(序論) 神様は私たちひとり一人を大事な器として用いるために、整え育ててくださいます。新約聖書27巻の内、13巻を書き残したパウロの回心は劇的なものでした。神様は一人をとらえて主の証人の業を拡大します。人が偶然と思える出会いを神様は決定的な出来事にします。誰かとの出会いによって、一生が決まる場合があります。特に神様との出会いは自分の人生を変えます。

(本論) パウロはキリストとの出会いを通して、キリストを運んだ男と言われるような人間になりました。信仰によって生き抜いた人々の証しがキリスト教の歴史です。小さく貧しい人間を神様は祝福して、誰にでも福音を語り伝える者にならせてくださいます。
信仰の確かさはインマヌエル(神、我らと共にいます)の信仰です。「わたしはあたたと共にいて、あなたがどこへ行くにもあなたを守り」(創世記28:15)神様が常にどんなところでも臨在の主として私のそばにいて下さるという決定的な出会いを経験し、常に新しくこのことを胸に刻むようにしましょう。人は神様の語りかけを聴くことのできる存在です。

(結論) さあ立って、町にはいって行きなさい。そうすれば、そこであなたのなすべき事が告げられるであろう使徒行伝9:6)神様が与えられる仕事、奉仕、誰かとの出会いに、私たちは意味を感じとって、すべてがみ栄になると信じるのです。加えて、人との出会いの中にも祝福を覚えます。人は誰かの力によって自分の未来が開けることがあります。だからこそ、神に寄り添われ、人と寄り添うことによって、「常に共なる神」を信じることができます。