2020年11月22日日曜日

礼拝メッセージ 2020年11月22日
説教題 「キリスト者の祈り」
  書  サムエル記 下 5章17~19節
(序論)ダビデは北イスラエル、南ユダの王として民から油を注がれエルサレムに首都を移し全イスラエルの王となりました。それは隣国ペリシテ人にとって大きな脅威となり、そこでペリシテ人は軍隊を送ってダビデを探させました。そのことを知ったダビデは、「要害に下って行った」と17節にあります。
神様のみ旨を求める者  昨日のネットニュースに「コロナの死者よりも多い自殺者数に海外メディアが驚愕」と見出しで、「10月、自殺によってコロナの10か月間よりも多くの日本の命が奪われる」と衝撃的な見出しが躍ったのは、「CBS NEWS」です。警察庁の仮統計によれば10月だけで自殺者数は2,153にも昇っている。これで上昇するのは4か月連続だそうです。現在日本では、「今年に自ら命を奪った人の数は、17,000人以上にも昇る。」とありました。
危急存亡、危難が迫って滅びの瀬戸際の時に、神様に助けを求める人は多くいます。しかし、ダビデは、助けを求めに神殿に行ったのではなく、神様のみ旨を求めに行ったのです。ここにダビデの信仰があり、聖書は、ダビデ王のこの件を通してキリスト者の祈りのあり方を、示そうとしています。
イエス様もゲッセマネの園で「わたしの思いでなく、み心がなるようにしてください。」と祈られました。 ダビデは、身近に迫った、ペリシテ人の総攻撃を前にしながら、彼の願いでなく、神様のみ旨を求めたことは、決して安易なことではなかったはずです。
そして、ダビデは主にみ旨を聞きながら、ついには主の勝利に与かりました。ダビデが主に伺ったのは、ダビデが、かつてペリシテ人と一緒に暮らした、あの苦い失敗があったからでしょう。主は、へりくだったダビデに、ご自身で勝利を与えられました。私達の勝利の秘訣は、これではないでしょうか。自分の失敗を思ってへりくだり、み旨を頂いて主にある道を進むことです。
(結論)主は創造者であり、私達は神様に造られた者、被造物です。特に主により贖われた者の祈りは、決して無駄には終わりません。世の光として、また地の塩としての役目を果たします。祈りは、品性と人格を造り、なぜなら、祈りには聖霊が働いて下さるからです。祈りは何にも勝る最大の武器であり、祈りから、見えないものが見え、聞こえないものが聴こえて来るからです。

2020年11月15日日曜日

礼拝メッセージ 2020年11月15日
説教題 「苦しみの中に喜びと祝福あり」
  書  ペテロの第一の手紙 4章12~14節
(序論)この手紙は、使徒ペテロがローマにいた時、現在のトルコ周辺にある教会に向けて書いた手紙です。異教社会に住むキリスト者が、忠実に生きることによって迫害を受けていました。苦難の中にあるキリスト者を、励ますための手紙です。
1)苦難は栄光への道  ペテロはこれを武装することだと言っています。迫害に対する武装は、苦難こそ使命をなしとげ、栄光にあずかる道である、と。何と勇ましく高尚な生き方でしょうか。迫害だけでなく病気、貧しさ、不遇という試練に対しても同じです。この武装で立ち向かうべきです。イエス様の模範によって実証された、いのちの道です。3節のみ言葉「……もうそれで十分であろう」は、心にぐさりと刺されるみ言葉です。放蕩の生活は、もう充分ではないか、彼らは神様の裁きの座で、申し開きをしなければならない、とペテロは聖書は言います。
今日、今、イエス様を仰ぎ、苦難を栄光の道である。と、はっきり認識し心の武装をいたしましょう。
2)苦しみの中に喜びと祝福  12節には「火のような試練」という言葉があります。これは一般的な意味での試練ではなく、キリストを信じているゆえの試練苦しみのことです。ここで、この火の試練を、「何か思いがけないことが起こったかのように驚き怪しむことなく」、原文の語順は、「愛する者たち。驚き怪しむな」「不審に思ってはならない」(新改訳)。強調は「驚き怪しむな」です。ペテロは、この地方は、最近信仰を持った者たちも大勢いただろう、と考え、つまり、迫害の未経験者たちも、けっこういたと思われ、ペテロはこうした人々が、キリストのための苦しみを、特別なものとして捉えないようにと願いました。13節「キリストの
苦しみにあずかれば、あずかるほど、喜ぶがよい」と言ったペテロは、本当に信仰に生きた者のみが言いうる言葉です。キリストのみ名のゆえに、苦しみを受けるとき、それは、キリストの苦しみにあずかることです。
(結論)私たちは、「キリストの思い」を持たずして、人生に、意義も、理想も、幸福も、見出すことは出来ません。誰かが、キリストの苦しみに、あずかることによって、誰かが、主に救われ、地上でも天国でも、活きる命が与えられ、主の祝福にあずかれるものです。

2020年11月8日日曜日

礼拝メッセージ 2020年11月8日
説教題 「赦し・捨てず・忍び・期待される神」
  書  使徒行伝 9章 1~9節
(序論)パウロの人生は、波乱万丈の人生でしたが、今日の9章の回心の出来事を通して、彼の人生は大きく変わって行きます。そしてこの回心の出来事は、サウロ自信を変えただけではなく、福音宣教に大きな変化をもたらしました。弟子たちは、エルサレムを中心にユダヤ人伝道に向かい、パウロは異邦人への伝道に向かいました。
1)イエス様に出会ったサウロ  (3-7)ダマスコの近くまで来たとき、そこで不思議な経験をします。天からの光を受けて地に倒れ、そこで「サウロ、サウロなぜわたしを迫害するのか」という声を聞いたのです。それは太陽よりも明るく輝いて、同行者たちとの周りを照らした」とあります。同行している人には見えず、サウロ一人にだけ見えた超自然的な光でした。ところで、「サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか」という言葉は、大変奇妙な表現です。サウロが迫害していたのは、クリスチャンや、その教会であって、イエス様に対してしたことではなかったからです。サウロはすかさず尋ねます。「主よ。あなたはどなたですか」と。「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。」の「私」と「あなた」という言葉は、原語ではとても強調されていることばです。「神なる私を、あなたが迫害している」と。私たちの人生に、突然、いろんな形で不思議な方法で、神様が介入されることがあります。人はその時、人生の大きな転機を迎えます。
2)主の憐みと期待  ここで、「わたしは、あなたが迫害しているイエスである」との言葉はいったいどういう意味でしょうか。それは、あの十字架で死んだイエス様が、復活しておられるということ、エルサレムで弟子たちが言っていたことは本当だったということです。たとえ知らないでしたこととはいえ、クリスチャンを迫害したことは、神であり、主であられる方を迫害するという大罪でした。
(結論)そうした大きな罪人である者に対しても、主イエスは深いあわれみと赦しをもたらしてくださいました。「あわれみ」とは、受ける資格のない者が受ける親切のことです。
罪人のかしらのような私でも愛され、赦され、捨てず、忍び期待して下さる神様が私たちの主なのです。

2020年11月1日日曜日

礼拝メッセージ 2020年11月1日
説教題 「主は徹底的にあなたを守るお方」
  書  詩篇 121篇 1,2節
(序論)エルサレムに向かう巡礼者が、シオンの山に近づき、遥かに見えるシオンの山に向かって、「私は山に向かって目を上げる。私の助けは、どこから来るだろうか」と問いかけ、確信をもって、「私の助けは、天地を造られた主から来る」と歌ったのがこの詩です。
1)創造主なる主を見上げる  私たちは前途の困難を思うとき、「私の助けはどこから来るのだろうか」、「どのような助けが、私にあるのだろうか」と不安に包まれることがあります。
 しかし、詩人はここで、主への信頼を告白しています。「私の助けは、天地を造られた主から来る」と。主は天地を造られたお方、全能者であって無から有を創造されたお方です。このお方からこそ助けは来ると、信仰を告白しています。それは「神には何でも出来ないことはない、このお方なら、わたしの直面する困難においても必ず助けてくださる」という信仰です。創造主こそ私の救い主です。 目の前の試練ではなく、試練をも支配していてくださる主に目を向けることが出来る人は本当に幸いです。耐え難い試練の中でも、その試練を見つめるのではなく、しっかりと創造者なる主を見上げることが、試練の中でも勇気と平安が与えられる最大の秘訣です。
2)徹底的な守り  4節「見よ、イスラエルを見守る方は、まどろむことなく、眠ることもない。」 神にはうっかり見過ごすということはない。神は一瞬たりとも私たちから目を離すことはない。「イスラエルを守る方」という言い方には、事柄は私個人の関心ばかりではないことの表明があります。しかし、私は「イスラエル」の一人である、ということです。旧約のイスラエルは、新約のキリストの教会の予表と受け取ることができますから、神は教会を守る方であり、そこにいる私を見守る方である、ということです。 クリスチャンの人生は、天のエルサレムに向かう巡礼の旅です。その旅路には、乗り越えねばならない問題の山も出てきます。しかし、その旅路には必ず神の助けがあります。その助けは、神様の徹底した守りです。主に信頼する者を主は徹底的に守られます。
(結論)この臨在の主に絶えず、どんなときも憩い、信頼し、このお方により頼んで、人生の旅路を、天国目指して歩んでまいりましょう。主はあなたを徹底して守る方です。