2015年7月26日日曜日

礼拝メッセージ  2015年 7月26日
説教題  「小さきものに近づく勇気
聖  書  マタイによる福音書 第18章 1〜5節
(序論) 人は「誰が偉いか」を競います。主の弟子たちもそうでした。その時主は、幼な子を呼び寄せ、彼らのまん中に立たせて言われました。「よく聞きなさい。心をいれかえて幼な子のようにならなければ、天国に入ることはできないであろう。この幼な子のように自分を低くする者が、天国でいちばん偉いのである。」(マタイ18章:2-4)
(本論) 子どもとは育ちゆく途中の存在です。弱く未完の器です。誰かの助けを必要とする存在です。その中に私たちの目を開く教材が隠れています。私たちがいつか忘れている事、それは誰かに支えられながら今日ある自分とならせていただいたという謙遜な自己認識です。頼りない存在の自分が助けられ、人に仕える心を与えられている事、これを忘れるなと子どもを見て気づくのです。他者をキリストの名によって受け入れることをイエス様は大事な教訓とされています。出会いの不思議さの中で、希望と笑いのある人生を発見します。それはどんな人とも主の名によって出会わせていただいたという信仰です。どのような人との関わりであるにせよ、御名による必 然の出会いは、主と共にいつか共働者に育てられる関係かもしれませせん。
(結論) 日常生活の中で、他者に対して無関心という冷たい心の持ち主にならないように、主にあるぬくもりを持って助けを必要とする人々に近づいていきましょう。小さい者を無視しがちな自分に気づかせていただきながら、幼な子に近づくこの行為を通して、小さき者に近づく勇気を持たせていただきたいと思います。将来この教会を担ってくれる子どもたちとの出会いのために、心を合わせて主に仕えてまいりましょう。

2015年7月19日日曜日

礼拝メッセージ  2015年 7月19日
説教題  「神に用いられた人々
聖  書  詩篇   第51篇 14〜19節
(序論) 子どもが叫びます。「見て、見て、できたよ。」鉄棒の逆上がりができたのです。その子は、自分の存在を確かめているのです。自分を気遣ってくれる人と一緒に自分を確認したいのです。この姿は大人も同じです。どんな時でも神が私たちにも目をとめて、私たちの存在を認めてくださっています。人は罪人なる十分に気づき、くだかれた悔いた心を持って神を信じ受け入れる時、全き平安を与えられます。
(本論) そして、神に用いられることを願う者に変えられます。自らがキリスト者であるとの自覚が大切です。信仰の仲間と共に切磋琢磨して、自立した信仰者に育てられます。人の欠けにつまづくことなく、自分の課題を示されて、まわりをすべて教師として謙遜に聞く耳を持つことができます。自覚的な信仰を具体的な生活の場で証しすることを神は喜ばれます。その意味で、ダビデは信仰者の模範です。欠けの多い者であるにもかかわらず、神に助けてもらう以外に再起できない自分に追い詰められて、神との関係を維持します。
(結論) 彼は牧童でした。神は彼をサウロ王の次の王として召し、使命を与えます。ダビデは王としての権力を持った時、彼の弱さが拡大していきます。バデシバとの罪の結果、預言者ナタンを通して叱責されます。彼の素直さが、王座をけって神の前に平伏させます。神はこの姿を受け入れてくださいました。神は彼を用いてイスラエルを回復されました。神のなさることは不思議です。岡山の宣教も神の摂理の中で始められ、今も継続しています。山室軍平、石井十次、留岡幸助など神に用いられた人々、その他多くの人々がいます。

2015年7月12日日曜日

礼拝メッセージ  2015年 7月12日
説教題  「真夜中の賛美
聖  書  使徒行伝 第16章25〜34節
(序論) 使徒行伝はキリスト教がいかに世界に向かって伝えられていったかの記録です。この16章は、パウロの第二回伝道旅行によりピリピ教会が始まった時の記録です。青く輝くエーゲ海にうつる街並みでの宣教は、順風満帆の伝道ではありませんでした。しかし、神は地の果てまで伝える福音の種まきをキリスト者に実行させました。外には戦い、内には恐れがあったのです。それにもかかわらず神の御業は前進しました。
(本論) 神と出会い、人と出会い、それらをすべて用いて福音は伝えられていきました。パウロとシラスはルデヤと出会い、占いの霊に取りつかれた女奴隷とのかかわりの結果、囚人として収監されます。この牢獄の中で、神は不思議などんでん返しを見せてくださいました。真夜中ごろ、彼らが祈り賛美しているのを他の囚人たちも聞いていました。突然、大地震が起こり、戸がすべて開いたので、獄吏は囚人たちが逃げ出したと思い、自殺しようとします。パウロは大声をあげ、「自害してはいけない。われわれは皆ひとり残らずここにいる」と。
(結論) 今もなお、神の言葉が私たちをとらえる時、新しいことが始まると約束されます。神がこの世界を治めてくださることを信じています。主の仲間と共に世の人々を巻き込んで、御旨が成就すると信じ祈りましょう。パウロの宣教のエネルギーは、聖霊なる神に押し出されたものです。御言葉を具体的に生活する生き方にこだわりましょう。

2015年7月10日金曜日

礼拝メッセージ  2015年 7月 5日
説教者  日本ナザレン教団広島教会牧師 三浦功師
説教題  「祝福の祈り
聖  書  エペソ人への手紙 第3章14〜21節
説  教   祈りとは、心に思う人の幸いを願って神さまに捧げられるものです。決して不幸を願うものではありません。祈りは他者への祝福(ペレ)を祈り求めつつ、自らもその祝福の中に生きるよう心が整えられていく、神さまの御業です。ですから、私たちは私たちの心にお住まいくださる聖霊なる神さまのお導きの中で、祈ることを教えられ、祈ることによって信仰が深められ、あらゆる誘惑に勝利し、御旨を求めていく者とされていくのです。
 ここでパウロは、エペソで出会った信仰の友に向かって、祝福の祈りを捧げようとします。彼は至高の祝福を主キリストさまを中心に言い表します。人の幸いはイエス・キリストさまにあるとの彼の根源的な確信に基づいて、三位一体の神により内なる人を強めてくださり、主キリストさまの愛をよく理解し、それを基として生活することによって、すべて神さまに満たされるようにと祈るのです。
 私たちは、祈りによって私たちの小さな手では届かず、私たちの小さな力では支えることのできない状態にあるにもかかわらず、キリストの愛は、はるかに広く、はるかに高く、はるかに深く、誰の心にもあまねく届けられ、救いへと導かれていくことを信じるのです。信じて主なる神さまの祝福がありますようにと祈るのです。
 さあ、私たちも私たちの大切な人のためにその祝福を祈り、その方の救いを心から願っておられる主なる神さまの御手にお委ねしようではありませんか。主なる神さまは、私たちが求め、思うところの一切をはるかに超えてかなえてくださることができるお方です。

2015年7月1日水曜日

礼拝メッセージ  2015年 6月28日
説教題  「福音の配達人ー宣教への参加ー
聖  書  ヨハネによる福音書 第20章19〜23節
(序論) 「置かれた場所で咲きなさい」これはノートルダム清心学園の理事長渡辺和子先生の本の題名です。少しも力まず折々の先生の信仰からくる静かな人生を見つめなおすエッセイです。神様は時々私たちを迷わせ、自分で考える時を用意されます。そして、あるがままの自分を受け入れ、その中で私たちはなお、神と人に愛されていることを教えられるのです。
(本論) 視点を変える勇気は、イエス・キリストが用意されたそれぞれの人生をお互いに受け入れる時に与えられます。福音を聴き、イエス・キリストに出会ったという経験をさせられます。教会は昔も今も「イエス様にお会いしてみませんか」というメッセージを語り続けてきました。それは、神様を信じて生かされている自分が、幸せの御手の中に握りしめられている感謝と溢れ出る喜びを持たされているからです。この世に対する務めが与えられて自分を見つけ出します。共に生きることの大切さを気づかされます。誰かのために感謝を持って働ける動機づけを聖書の神は与えてくださいます。それ故、今置かれた場所でイエス様の証し人にならせていただくのです 。
(結論) 私たちのまわりの人々にイエス様を紹介するという神様の働きに参加できることを喜び、「イエス様にお会いしてみませんか」と語り続けましょう。「新しい希望に満ちた人生を共に生きましょう」と、イエス様の招きの言葉を郵便配達人のように勇気を出して福音を届けましょう。これが伝道であり、宣教への参加となります。恐れるな。語り続けよ、黙っているな。あなたがたには、わたしがついている。この町にはわたしの民が大ぜいいる。」使徒行伝18章9,10節)神様は、この約束の成就を体験しなさいと私たちを引き出されます。