2019年8月26日月曜日


礼拝メッセージ  2019年 8月25日

説教題 「主に申し上げよ」

  書  コリント人への第1の手紙 第10章13節

この個所は伝道者パウロが、初代教会のキリスト者を慰め励ますために書かれた手紙です。今の時代の人々も、試練のない人生などありえません。ましてや、キリスト者として神様の御心に従って生きようとすれば、するほど、そこに戦いが出て来ます。

1.試練とのがれる道 神様は、二つセットでご自分の計画を遂行されます。神様は、私たちの試練を、私たち以上に、良くご存じです。だから、必ず「逃れの道」も計画しておられると聖書は言います。ならば「逃れの道のない」試練はありえない、ということになります。愛と恩寵なる神様は、逃れの道も用意して、なおかつ、耐えられないような試練も与えられない、お方です。しかし、私たちを訓練するために、逃れの道が、どこにあるかを、お示しにならないことがあります。私たちが、無策の策で、すべてを主に委ねることを求められることがあります。どんなに大揺れの試練の日にも、主のみつばさの陰に宿る時は、平安が与えられます。

2.主に申し上げる 主にある皆さん、一人胸を痛めず、主にあなたの心の重荷を、ためらわないでおろしてください。そして、こころゆくばかり、あなたの願いを、愛なる主に申し上げてください。私たちクリスチャンには祈るという道が開かれています。主は聴いて下さる、と約束されています。答えがすぐに来ないかも知れません。しかし、あなたの魂からもれた、ひと言、ひと言は、決して、地には落ちません。試練を信仰の目でみて行きましょう。そこには、たしかに主のみ手、お働きがあるのですから。

2019年8月19日月曜日

礼拝メッセージ  2019年 8月18日
説教題 「ひざをかがめた祈り」
  書  エペソ人への手紙 第3章14~16節
今日のエペソ人への手紙は、パウロにより獄中で書かれたものです。冷たい牢獄の石だたみに、ひざまずくパウロの心境を思う時、何か身の引き締まるものを感じます。
 膝をかがめることは、恵みであり、力であり、慰めであり、主のみ前に出ていることになります。 膝をかがめない時には、私たちの魂は、痩せ衰え、無気力となり、魂の感受性が鈍くなってしまっています。 しかし、膝をかがめると、理屈なしに天が開けます。膝をかがめると、み言葉が開けて来ます。そして、神様の働きが、あらゆる角度から示されて来ます。膝をかがめることは、迷信ごとではありません。私たちが、膝をかがめないために、どんなに主を悲しませて来たことでしょう。そればかりか、膝をかがめないために、自分のみにくさや、汚れの露出に気付かなかったことがしばしばです。でも、ひざまずく時、おのずと魂はきよめられて行きます。
 アフリカの宣教師のリビングストンは、膝をかがめた祈りの姿で、天に召された、と言われています。なんと崇高な姿でしょうか。 私たちも、忙しければ忙しいほど、機会、チャンスをとらえて主の前にひざまずきましょう。これは信仰を霊的にする秘訣です。ひざまずかない一日は、なんと無味乾燥な一日となっていることでしょう。機会を見つけ主の前にへりくだる、ひざまずく時を一日一回は、必ず持ちましょう。そうすれば、あなたの人生に感謝があふれ、心の平安を取り戻し、力に満ち溢れ、人生の荒海がおそってもそれを乗り越える勇気と希望が与えられます。

2019年8月7日水曜日

礼拝メッセージ  2019年 8月4日
説教題 「途方にくれても行き詰まらない」
  書  コリント人への第二の手紙 第4章8~10節
私たちは、人生の歩みがいつも順調に運び、幸せに満ち、 バラ色に輝くものであってほしいと願っています。 私もそうであってほしいと願っています。 ところが、たちの歩みはいつも順風満帆に運ぶ というわけにはいきません。幸運に恵まれる時があれば、 思わぬ困難や逆境に直面することもあります。山あり谷ありです。 事柄がうまく運んでいる時には、私たちは自分の力を 過信してしまい、友人の協力を必要としなくなります。 それが一旦、大きな困難に直面したり、逆境に陥ったりすると、 自分の力のなさをいやというほど味わされます。 世の中には自分ひとりの力ではどうしても解決しない 問題があることに気付かされます。
 今日の聖書の箇所は、人生の一番困難、試練に直面した人が何を頼りにし、どこに根拠を置いて失望と立ち向かう力を得たかを示したものです。聖書は、パウロが、弟子や使徒たちが、福音を伝え、初代教会を造っていく有様が書かれています。パウロはその中心的な人物で、彼によって多くの教会が生まれました。 パウロは『ローマ信徒への手紙』や『コリント信徒への手紙』など、新約聖書13書簡を書いています。初代キリスト教会の布教に。大変よい働きをした人です。
ところが、別の面から見て彼ほど困難に直面した人はいませんでした。 キリスト教の布教は順風満帆の道筋を歩むことができず、伝道者はいたるところで迫害を受け、困難に直面しました。パウロはその最たる人であったといえます。迫害どころか、海難事故に遭遇したり、牢獄に放り込まれたりしました。 しかし、決して挫けませんでした。倒れても立ち上がり、人々に福音を伝えました。外から見れば絶望的な状況にあっても、ギブアップしませんでした。その力はどこから 来たのでしょうか。絶望的な状況の只中にあってもパウロは 行き詰らず、窮しなかったのは、神様を信頼していたからです。 いかなる時にも神様が共にいて下さり、支え、力を与え、希望を 与えて下さることを信じていたからです。「わたしたちは、 四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても 失望せず・・・」。神を信じるパウロはあらゆる困難に耐え、克服できる底力を与えられたのです。絶対者への信頼が、この底力をもたらせたのです。
桜美林大学の創立者・清水安三先生の愛誦聖句も、これでした。「せん方つくれども希望を失はず」。この聖句に 幾度も鼓舞されて草創期の学園の経営に尽力されたと聞いています。 清水先生は、パウロの苦難を思いつつ、しかも、彼の信仰に 倣っていかなる時にも神様を信頼し、不思議な力を与えられて 歩んだのです。 人生が順調に運んでいる時、ともするとわたしたちは 神様のことを忘れてしまいます。かえって苦難にある時に、神様の力添えと救いを信じることができるとしたら、苦難や 試練には大きな意味があるのかもしれません。
皆さんの人生が順調に運ぶことを願いつつ、しかし、苦難に ある時こそ神様一番身近にいて、本当の希望を与えて 下さることを心にとめたいものです。