2015年4月26日日曜日

礼拝メッセージ  2015年 4月 26日
説教題   「祝福の共有
聖 書  ローマ人への手紙 第12章3〜16節
(序論) 人は自分の本当の姿を見せられて愕然とするか、その反対に怒りが自分を虜にするかのどちらかです。他人との交わりの中で一番の失敗は、自分の正しさを主張するあまり、相手を無視してしまうことです。イエス様は自分を義人と思っているパリサイ人を罪人と言いました。イエス様は人間の奥に潜む神への反抗に切り込んできます。


(本論) 「信仰者も信仰ゆえに、思い上がることなく慎み深く生きよ」と聖書は警告します。私たちは神の愛と隣人の許しによって生かされているのです。神は謙遜を求めています。キリストの体を形成する肢体である私たちが何かできるとすれば、それは神様からの賜物です。それゆえ、自分のためだけに生きるのではなく、神様と神様の導きの中で結ばれた全体のために生きることが求められています。ここに新しい使命を見つけ出せるのです。人に仕えるとは、きばって生きるのではなく、ごくありふれた隣人の求めに自分がキリスト者として行動を起こすことです。パウロの自然体の奉仕者の模範がここにあります。ローマ人への手紙12章6~8節を一読ください。

(結論) 奉仕者の最も大事な動機付けは、イエス様の愛に励ませれて行動することです。信仰からくる勝利の祝福を分かち合うことで、誰かを勇気づけ上を見上げる信仰の勝利を共有できます。そして、忘れてはいけないことは、「試練の中で苦悩している自分も分かち合え」と聖書は奨めます。苦労を分かち合える友との交わりの充実が、人とのつながりの幸せを味あわせてくれます。だからこう言います「喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣きなさい」ローマ人への手紙12章15節)。高ぶった思いからではなく慎み深い気持ちから、他者と関わりたいという思いが、愛の内に生まれてくることがキリスト者の特権です。本当の信仰は自分を隣人に開放します。

2015年4月19日日曜日

礼拝メッセージ  2015年 4月 19日
説教題   「良きおとずれを告げる者の足音
聖 書  ローマ人への手紙 第10章14〜17節
(序論) 「だれでも新しく生まれなければ、神の国を見ることはできない」ヨハネによる福音書3章3節)。新しく生まれる、それはキリストとの出会いによって始まる新しい生き方・価値を持つことです。「まず神の国と神の義を求めなさい。そうすればこれらのものはすべて与えられるであろう」(マタイによる福音書6章33節)。自分の人生を任せられる生ける神を信じた時、自分の生き方が神様の愛の御手の中に握り締められていることを見出すのです。

(本論) イエス様との出会いを勧めて下さったクリスチャンにお世話になりながら、今日まで生かされてきたことを心から感謝しましょう。そんなクリスチャンが近くにいてくれたことを神の摂理と感謝しましょう。おそるおそる最初に教会を訪ねた時、自分の知っている人が案内してくれ、少し安心し、にこやかに迎えてくれたことで、未知の世界に接近できたことを思い出してみましょう。誰かが自分に近づいてくれることが恐れとして感じられたのに、善意をもって福音の運び手となって下さる人々の温かい足音を、本当は待っていたのではないでしょうか。おせっかいでなく本当の愛の奉仕のために何かができる者に成長させられたいものです。

(結論) イエス様との出会いによって起こる変化:
・人を見る目が変えられます。物事をゆがみなく見る素直さです。
・価値観が変わります。
・どんな時も人の欠けを補ってあげたいというキリストの愛に根ざした生き方に変えられます。
・共に生きるために自分にできることを探し出そうとする思いが与えられます。
神様は、私たちを良きおとずれを伝える者として用いてくださいます。

2015年4月12日日曜日

礼拝メッセージ  2015年 4月 12日
説教題   「再び立ち上がる勇気
聖 書  ヨハネによる福音書 第21章1〜11節
(序論) 人が失意の中に置かれた時、そこから脱するためには「これはどこから始まったのか」を静かに黙想してみることです。ゴルゴダの丘の十字架は、主を信じて従った人々に失望と落胆を与えたことでしょう。しかし、「主はよみがえってガリラヤであなたがたを待っておられる」との福音を失望の中で聞いたのです。彼らは、再び立ち上がって主にお会いするためにガリラヤに行きました。

(本論) ガリラヤは弟子の何人かが召された場所です。そこは、漁師である彼らが、夜の漁が徒労に終わった翌朝、網を洗っていた時、「もう一度舟をこぎ出して網をおろしてみなさい」というイエス様の声を聞いたあの奇跡の大漁を思い出させる場所でした。
 彼らが「漁にに行く」古い自分たちに帰ろうと行動を起こした時、イエス様は自分と一緒に歩いてきた人生を彼らに思い出させ、「わたしと共に行こう」と再度彼らを導きます。人は迷ってしまった道から勇気をもって再出発させていただける祝福が残されていることを知っておきましょう。ペテロもトマスもそしてエマオへの道を歩いていた弟子たちも、許しを持って待っていてくださる主に自分を委ねました。ここに救いがあります。

(結論) 今も神様は私たちを試練の中を通して強いキリスト者にならせて下さいます。「艱難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生み出し、希望は決して失望に終わることはない」と神様は約束して下さっています。イエス様はペテロに自分の務めを示されます。「わたしの羊を飼いなさい」という務めです。私たちにも、どんな中に置かれても再び立ち上がる勇気が備えられています。御言葉を聴きながら将来を信じて主と共に信仰の道を完走しましょう。

2015年4月5日日曜日

礼拝メッセージ  2015年 4月 5日
説教題   「復活の主に出会う
聖 書  マルコによる福音書 第16章9〜13節
説 教  今朝はイースター礼拝です。教会にとって大切な聖日です。十字架にかけられたイエス様が三日目に復活された、そのことを信じて教会は2千年の間、世に向かって伝道してきたのです。
 先週は受難週でした。日曜日エルサレム入城、月曜日宮きよめ、火曜日教えと論争、水曜日ベタニアでの休息、木曜日最後の晩餐、金曜日十字架、土曜日墓に眠る、日曜日復活。
 この朝マグダラのマリア、小ヤコブの母マリアししてサロメ達が墓を訪ねた時、墓は空でした。その時、天使が語ります:「なぜ生きた方を死人の中に訪ねているのか。そのかたは、ここにはおられない。よみがえられたのだ。まだガリラヤにおられた時、あなたがたにお話しになったことを思い出しなさい」ルカによる福音書24章5、6節)。「主の言葉を思い出しなさい」。礼拝は主の言葉を思い出して御子の真実に帰って自分を整える時です。その朝、墓を訪ねた女たちは罪深い過去を背負った人々です。しかし、神はこの者たちに復活のメッセージを伝えます。どんな者にも神の愛の御手は伸ばされているのです。私たちにも届いているとの望みの証しがあります。神様の愛によって生かされていることが信じられます。
 私たちの賛美歌257番を自分の信仰告白としましょう。折り返しはこうです:「キリストは生きておられる、わがうちにおられる、すべては御手のうちにあり、今日も励もう主に守られて」。神は御子を通して今も生きておられ、私たちの人生のハンドルをお任せすれば、悔いなく生きる人生を実現させて下さるのです。復活されたお方は、「今も生き給う」。そのことを信じます。