2017年10月22日日曜日

礼拝メッセージ  2017年 10月 22日 
説教題  「今、恵みの日に
聖  書  ヨハネに黙示録 9章1〜6
(序論)紀元1世紀後半、クリスチャンは激しい迫害を受けていました。ヨハネも地中海のパトモス島に流されました。そこで神様が、これから起こることを幻の中で教えられました。必ず報われる時が来る、新しい世界ができる、と慰めてくださったのがこの黙示録です。
 
(本論)1節「天から落ちて来る1つの星」とは、サタンを指し「底知れぬ所の穴」とは地獄のことです。その穴から立ちのぼる煙の中から出て来た「いなご」とは、いなごの形をした「災いの使者」地獄における災い使者です。彼らは「額に神の印が無い人たち」を5か月間苦しめる。「殺すことはしないで」ただ「苦しめることだけ」を許されたのです。ここで「言い渡された」とか、許された、とかいう言葉の中に、大事なことが隠されています。つまり、神様の許しなしには、悪魔も何一つ出来ないのだ、と言うことです。また、程度や期間が制限されていることは神様の恵みです。
しかし、その苦痛は激しく、人々は自殺してその苦痛を逃れたいと思うのですが「死は逃げて行く」死ぬことも出来ないのです。1819節にあるように、こうした災いや苦痛を受けても「悔い改めようともしなかった」(21節)のです。
 
(結論)恵みの時代が過ぎ去ってしまったら、もはや聖霊様の働き(助け主・慰め・導き手)はなくなり、罪の中に放任されてしまうため、悔い改めることが出来ないのです。今、恵みの時代に主を信じ従い、いつも目を覚まして主にお会いする日を待ち望み、この災いを免れることが出来るように準備していきたいと思います。「全世界に臨もうとしている試練の時に、あなたを防ぎ守ろう。」「わたしはすぐに来る。あなたの冠がだれにも奪われないように、自分の持っているものを堅く守っていなさい。」「耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい。」(3章10.11.13節)

2017年10月15日日曜日

礼拝メッセージ  2017年 10月 15日 
説教題  「信仰の薄い者でも
聖  書  マタイによる福音書 14章22〜33
(序論)今日のみ言葉の前に、5つのパンと2匹の魚の奇蹟があります。奇蹟を体験したすぐ後でも、イエス様が水の上を歩いて来られたのが信じられなかったのです。このところは、弟子たちの信仰の薄さが現されています。その薄い信仰を励ますために、この箇所があります。
(本論)このことから、信仰とは、単に奇蹟を体験したからといって生じるものではないことがわかります。ある人は「神様を見せてくれたら信じる」と言います。本当にそうでしょうか。
 イエス様はペテロの信仰の薄いのをご存知でしたが、29節、即座にペテロに「来なさい」と言われました。ペテロに機会を与え祝福してくださいました。なぜでしょうか。二つの理由があります。
1ペテロを深く愛しておられたからです。私たちの信仰が薄くても愛してくださいます。信仰より愛の方が偉大です。しかし、信仰がなくては、救いがありません。
2)このような失敗を通して、真の信仰を教えるためです。実際、ペテロはイエス様を愛していました。だからこそ、網を捨てて従ったのです。しかし、まだ成熟した信仰がなく、臆病で大言壮語しました。しかし、主は「来なさい」と言って迎えてくださる方なのです。 30節、ペテロは恐れにとらわれ水に溺れかけました。その時、大声で「主よ。助けてください」と命がけで叫びました。私たちにも、このような切実な叫びが必要です。気楽に祈っていないでしょうか。答えが来ないのは、深刻さ、真実さ、気迫さがないのではないでしょうか。
(結論)イエス様は、すぐ手を伸ばされペテロを舟に上げた後、優しく忠告されました。信仰が薄く人生の海におぼれそうになった私をも、見捨てず救い出して下さるイエス様を賛美いたしましょう。

2017年10月1日日曜日

礼拝メッセージ  2017年 10月 1日 
説教題  「眠れる人生
聖  書  ダニエル書 2章1
(序論)バビロンの王ネブカデネザルが夢を見、そのことで思い悩み眠ることが出来なくなり、その夢を解かせようと、博士、魔術師らを召し集めたことが記されています。王は、彼らがでたらめを言うことを警戒して、夢そのものを教えず、まず王の見た夢をあて、それからその夢の秘密を解け、と命じました。
(本論)まず「王が思い悩んで眠ることが出来なかった」と言う言葉に目をとめましょう。彼は当時の世界で最強国バビロンの王です。命を惜しまない勇士が何万何十万といたことでしょう。財宝も世界各地から集められて倉に満ちていたはずです。しかし、その彼が、一夜の夢で気も狂わんばかりに焦燥したのです。ここに人間の弱さ、そして弱い人間が真に頼るべきものが何かを思わされます。イザヤ書2816節で「…信じるものはあわてることがない」とあります。「神様を信じる者、神様が私を愛していて下さることを信じる者」その者はあわてることがない。あわてることがないとは、「この世のことに引き回されない」と言うことです。パウロの言葉で言うならば「私は、貧に処する道を知っており、富におる道も知っている」(ピリピ412「私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでの出来る」者とされているのです。内村鑑三は「貴方各自のハートを先ずイエス様におささげなさい。彼は…裏切りません。…ふみにじりません。人なる友が私をあとからあとから捨てました時にも、イエス様は忠実な友となってくださった。歳がすすむほど近くなってくださいます。私が独りで死の河を渡る時に、私の手を取ってくださる方です」と語ります。
(結論)人生で出会うべき方、友とすべき方、信じるべき方、仰ぐべき方はイエス様です。この地上も、死後の世界もこの方のご支配にあるからです。