2016年7月31日日曜日

礼拝メッセージ  2016年 7月 31
説教題  「神の栄光を入れる器」
聖  書  イザヤ書64章8節
(序論) 神様は陶器師であり、私たちは主の手にある粘土です。私たちは、みずから決断する何の権利もなく、ただ神が導かれるままについて行き、従順するように造られた人間なのです。
(本論) 私たちが救われたのも、私たちの行いや願いのゆえではありません。神がひとり子キリストの血で代価を支払って下さったその恵みで救われたのです。
 しかし、救われたばかりの私たちには、まるで陶器師が野原から運んできた土塊のようにいろいろな不純物があります。でも、聖霊が私たちを感化、感動させて、みことばと祈りで不純物をみな洗い出します。陶器師は、さらに金槌や俸で砕きます。
 これは神が私たちの悪い品性すなわち、強情、怒り、どん欲、ねたみ、妥協などを砕くことです。そして、「天の父よ。どうしようもありません。降参します。」と言いつつ主の前に出てくるようにされるのです。
 次に陶器師は、砕かれて柔らかくなった粘土を、ろくろの上に載せてぐるぐる回しながら器を造ります。神様は、私たちを砕いた後、絶対にそのままにされません。必ず、神の願われる器を造ります。そして、器に造られた聖徒たちの中に、天国のすべての宝や、魂の幸い、健やか、それを豊かに得る祝福を入れて置かれます。
 ですから、神様の祝福を受けたいなら、神の前に来てまず砕かれなければならないのです。
(結論)神様は今日も、私たちを器に造られる陶器師です。見る影もない土塊のようの私たちを選んで神様の栄光を入れる器に造ってくださいます。ある人は、砕かれる途中であり、ある人は火で焼かれる過程にあります。どの過程でも、器のすることは、陶器師に従順であることだけです。
 

2016年7月24日日曜日

礼拝メッセージ  2016年 7月 24
説教題  「絶望は神の機会」
聖  書  出エジプト記1413、14
(序論) 人生には、数多くの障害物が出てきます。430年間もエジプトで奴隷生活をしていたイスラエルの民は、神様の助けにより解放され、モーセを先頭に約束の地カナンに向かいました。エジプトを出て間もなく、彼らは紅海という障害物にぶつかりました。
(本論) その時、エジプト軍がもう一度奴隷にしようと追いかけて来ました。民は、紅海を前に逃れるすべのない障害物に、進退きわまってしまい気が動転して、目の前の障害物を越えられないとあきらめ、指導者モーセを恨みました。
 しかし、同じ環境にあったモーセの態度は、イスラエルの民とは違っていました。モーセは民に叫びました。「主があなたがたのために戦われる。あなたがたは黙っていなければならない。」何がこのような違いを生み出したのでしょうか。人は誰でも、生きて行く時に拠り頼む資源があります。イスラエルの民は、人間とその能力を人生の資源にしました。その資源が無くなった時には、絶望しか残りません。
 しかし、モーセは天地を造られ人間の生死禍福を支配され、無いものを有るものとされる神を資源にしました。神を資源とする彼には恐れるものがありません。
(結論) 人間の絶望は神様の機会であり、人間の不可能は神の可能です。ですからイスラエルの民が絶望する時も、モーセは絶望しませんでした。
障害物にぶつかった時、人間的なものを資源にするか、神を資源にするかによって運命が変わるのです。あなたは、人生の資源をどこにおいていますか。





2016年7月18日月曜日

礼拝メッセージ  2016年 7月 17
説教題  「神の国の法則」
聖  書  創世記1314、15
(序論)人間は二種類の目、すなわち、肉の目と霊の目を持っています。私たちはこの二つの目を持って、見える世界と見えない世界を仰ぎ見ながら生きています。そして、見ることによって、私たちが考える以上の不思議な能力が現れるのです。
(本論)ロトと別れた後、一人でカナンの地に残っていたアブラハムに、神は「さあ、目を上げて、あなたがいる所から北と南、東と西を見渡しなさい。…この土地を縦横に歩き回りなさい。見えてる限りの土地をすべて、わたしは永久にあなたとあなたの子孫に与える。」(創世記13章1417節と言われました。
 神様はアブラハムに、「あなたが見る土地を、あなたとあなたの子孫に与える」と約束されましたが、見えない土地をも、くださるとは約束されませんでした。万一、仰ぎ見る法則に何の効果もないなら、このようには言われなかったでしょう。同じように、創世記30章3739節に、ヤコブは工夫して、この神の国の法則を使い、ぶちやまだらの羊を生ませ自分の家畜を増やした記事があります。
 また、与えよ。そうすれば与えられる」ルカによる福音書6章38節)。「求めよ、探せ、門をたたけ。そうすれば開かれる」マタイによる福音書7章712節)。これも神の国の法則です。神の国の法則とまた自然界の法則があります。どちらも無視すると、祝福を受けることは出来ません。
 アブラハムは、肉の目で東西南北を鮮明に仰ぎ見、「浜辺の砂。空の星」を示され霊の目で連想して自分の子孫が増え広がり、その地で生きる姿を描いて、それが成就することを信じました。その結果、彼が仰ぎ見たとおりになったのでした。
(結論)今日、あなたは何を仰ぎ見ますか。聖書の言葉を通して夢と幻を持ち明日を仰ぎ見ましょう。そうすればあなたは、明日それを所有するようになります。目を上げて見、信仰で仰ぎ見るなら、それによって、あなたの未来が決定されるのです。
 

2016年7月10日日曜日

礼拝メッセージ  2016年 7月 10
説教題  後悔しない人生の生き方
聖  書  使徒行伝27章1011
(序論)  80歳以上の方を対象にしたアンケート調査で「人生で最も後悔していることは何ですか?」の問いに、70%の方が全く同じ回答をしています。それは…「チャレンジしなかったこと」です。
 また人生を終える時に後悔する20の項目の一つに、「他人がどう思うか気にしなければ良かった」とありました。この項目の解決方法は、1.私は、どうしたいのか。 2.私は、何をしたいのか。 3.私は、どんな人生を生きたいのか。 を考えて生きることが大事なことなのだ。という結論でした。
(本論)  私たちがこの世を生きていくときに、いつでも二つの声を聞いています。一つは、人間の知識や経験を通して聞こえてくる声であり、もう一つは、神のみ言葉を通して聞こえてくる声です。
 使徒パウロは、福音を宣べ伝えていて囚人として捕らえられ、ローマに連れて行かれ皇帝の裁判を受けることになりました。彼らが乗った船がクレテ島の「良い港」に停泊しているときでした。船長や船主及び多くの人々は、良い港を出発してもっと施設の良いベニクスの港で冬を過ごそうとしました。これを知ったパウロは、強く反対しました。祈りの内に神様から受けた啓示を土台に、この航海では、積荷や生命にも危害と大きな損失を受けることを主張しました。しかし、人々はパウロの言葉より航海の経験や知識を土台とした船長の言葉をもっと信じたのでした。結果、暴風に巻き込まれ、積荷、船具まで捨て、人間の手段と方法を放棄して天だけを仰ぎ見るに至ったのでした。その時になってやっと彼らは、パウロの主張を思い出しました。
(結論)  私たちは、人生を後悔しないために、日々神様の声を聞く者でなければなりません。神様の御心を知る方法は、難しいことではありません。
あなたがたの内に働きかけて、願いを起こさせ、かつ実現に至らせるのは神…」ピリピ人への手紙2:13)
�心に浮かぶ強い願いを知る。�み言葉に照らす。�平安があるか。
で見分けます。神様はあなたの心に語りかけておられます。

2016年7月3日日曜日

礼拝メッセージ  2016年 7月 3
説教題  「恵みを受けるために」
聖  書  イザヤ書 第6章2〜5
(序論) 旧約聖書では、「悔い改めること」の大切さに大きな重点が置かれています。新約聖書でもバプテスマのヨハネが「悔い改めよ、天国は近づいた」と呼びかけることから始めました時は満ちた、神の国は近づいた、悔い改めて福音を信ぜよ(マルコ115) 悔い改めることは、すべての出発点です。
(本論) イザヤも神に会い、神を仰ぎ見ると、自分が罪人であることを悟りました。イザヤが罪を悟り、神の前に痛切に嘆いて悔い改めると、神は、彼の唇に炭火を当てて、こう言われました。「見よ。これがあなたの唇に触れたので、あなたの不義は取り去られ、あなたの罪も贖われた。」(イザヤ67)

 このように、誰でも神に出会うとき、悔い改めの祈りが出てくるのは当然です。悔い改めがないい仰は、神様に会ったことのない信仰です。

ペテロは、最初にイエス様に会った時、「主よ。私のような者から離れて下さい。私は、罪深い人間ですから。」(ルカ58) と言って悔い改めの祈りをしました。その後、弟子になってからも、多くの罪を犯しました。しかし、そのたびに彼は、深く悔い改めたので、神様は赦して下さいました。この世で罪を犯さずに生きる人は、一人もいません。私たちが人間である以上、いつも悔い改める生活をしなければならないのです。

 イスカリオテのユダが、イエス様を売ろうと考えたとき、これを知ったイエス様は、彼に悔い改める機会を与えました。しかしユダは悔い改めずに銀貨30枚で売り、罪責感から首を吊り悲惨な最期を遂げました。

(結論) 悔い改めと赦しは、人格が再創造される恵みの通路です。従って、恵みを受けるためには、必ず悔い改めの働きが起きなければならないのです。聖霊運動は、悔い改め運動から始まります。