2014年1月26日日曜日

礼拝メッセージ2014年1月26日

説教題   「神の宝の民」

聖 書   申命記 第7章6~8節

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序論)「汝自身を知れ」という言葉があります。しかし、これほど難しいことはありません。人はしばしば自分ほど不幸な者はないとつぶやきます。しかし、反対にどんな時も「微笑ーえみ」をたたえて幸せを周りに振りまいている人もいます。この差は何でしょうか、自分の知り方の差ではないでしょうか。聖書の中にも、「わが魂は平和を失い、わたしは幸福を忘れた」(哀歌317)という絶望の言葉を発見します。

(本論) しかし、神様は私たちに近づいて、私たちを必要な存在として、手を加え愛を注いで育てると約束してくださっています;「あなたの神、主は地のおもてのすべての民の内からあなたを選んで自分の宝の民とされた(申命記7:6)今朝、倉敷の40万市民の中からたったこれだけの集いに、神の恵みによる「幸福」を共有できる者たちが存在している、この事だけでも神様の奇跡のわざと言えないでしょうか。私たちが礼拝のために集う中で、私たちを「ご自身の宝」としてくださっていることは、神の愛の壮大なドラマに組み込まれた自分を感じます。神がいつも祝福をもって信仰者に関わってくださるのです。「あなたを愛し、またあなたの先祖に誓われた誓いを守ろうとして(申命記7:8)歴史を支配しておらえる主がその御名をかけて私たちをお守りくださるのです。


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結論) 平凡な生活の中に神の祝福を感謝できる時、幸いがそこにあります。御手の中に主のぬくもりを覚えて感動し、自らを空っぽにして神様の宝の民であることを自覚いたしましょう。神様は私たち一人ひとりに「宝の民」と言い切ってくださいます。この宝は主の御冠の飾りとして輝くのです。神様のために働けること、この働きにお互いが召されていると感謝できる時に、本当の生きがいが生まれてきます。

2014年1月19日日曜日

礼拝メッセージ2014年1月19日

説教題   「幸福な結果を生み出す」

聖 書   伝道の書 第3章111

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序論)「天が下のすべてのことには季節がある」(伝道の書3:1)神に愛される者は、「神のなされることは、みなその時にかなって美しい」と告白できます。信仰を持って生きる人は、神様を良き羊飼いと認めて生きる者です。自分を低くして子どものようになることを受け入れます。一生懸命生きる者は、イエス様の生き方にならうことから出発します。神様は一人ひとりを個性豊かに整え育ててご自身のみ旨を遂行されます。

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本論)
 私たちは神の作品です。パウロはもっと自分を知り誇りを持って神と共に働く者であれとうながします。「わたしたちは神に造られたものであり、しかも、神が前もって準備してくださった善い業のために、キリスト・イエスにおいて造られたのである」(エペソ人への手紙2:10

 日本という精神文化の中でキリスト教に入る、転換する時の戦いは、一切の人間関係のわだかまりから解放されて、自分の言葉でイエスは主なりと信仰告白する決断への道のりです。しかし、そう決断した後にはさわやかな解放感が訪れ、イエス様が共にいてくださるとの確信がやってきます。

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結論)
 神様はあなたを決して見捨てることなく、期待の眼差しで見守っていてくださいます。三浦綾子さんの「孤独の隣」という一文があります;「私は孤独の生活を何年か持った。だが幸いにもその孤独の淵から立ち上がることができた。自分が孤独だと思っていた時、神がすぐ隣においでくださったのだ。」落ち込みの隣に感謝があります。沈黙の隣にあなたに聞き手になって欲しいと思っている人がいます。祈りが出来ないほど苦闘する時、慰めと励ましをもって「私が聞いているよ」と呼びかけてくださる臨在の神がおられることに気づきましょう。

2014年1月12日日曜日

礼拝メッセージ2014年1月12日

説教題   「素直な謙遜」

聖 書   マタイによる福音書 第1815

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序論)聖書は神とはどんなお方か、人はどんな存在でどうして救われる必要があるのかを示し、神様は歴史の中で自己啓示しつつ人に関わってくださいました。ヨハネによる福音書316は聖書のエキスと言われます。「神はそのひとり子を賜ったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。」このことをクリスチャンは問いつつこだわり続けました。

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本論)
 「人間には本当に希望があるのか」を考えてみる時ではないでしょうか?聖書はイエス・キリストの中に望みがあるとあります。このことを信じましょう。人はみな神に逆らって生きてきました。しかし、人は罪人なる自分を認め、神よ罪人なる私を救い給えと言える時、イエス・キリストのあがないによって罪赦され神の恵みを受け取ることが出来ます。ただ信じてイエスにならう人生を歩みはじめる。ここに人は自分に対して、人に対して望みを持つことができる、というのがキリスト教の福音です。
 どんなことが偉いのか?イエス様の弟子たちが仲間の中で誰が一番かといきり立ってぶつかり合った時、イエス様は一人の子どもを真ん中に立たせ、「心を入れ替えて子どものようにならなければ決して天国に入ることは出来ない」と言われました。自分を低くして子どもに帰れというのがイエス様の答でした。


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結論) イエス様に向き合うことで人は自分の弱さと欠けを知り、神の慈愛によって自分らしく生きる勇気を与えられます。「無邪気な謙遜」こそ神を喜ばせる祝福された人生と言えます。神はこのような人をおこして、人々に一隅を照らす希望の光として輝く光をこの世に存続させてくださいました。

2014年1月5日日曜日

礼拝メッセージ2014年1月5日

説教題   「主が共なる旅路」

聖 書   ヨシュア記 第117

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序論)2014年の第一聖日、私たちは今も生き給う生ける神を礼拝するために集いました。ここは主の体なる教会です。疲れた者の安らぎの場所です。いこいのみぎわです。この年どんな事があろうと「死のかげの谷」を通り、「嵐の中」を通過しても主が共においでくださるとの約束がありますので、私たちは信仰を立て直すチャンスがあります。

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本論) 「恐れるな」との声をかけてくださるお方に聴き従いましょう。良き羊飼いの声を聞いて、主と共に荒野に挑戦しましょう。旅人は身軽でしっかりと目標を定め、勝利を信じ、私たちに味方してくださるお方を信じ、従うことが祝福の条件です。
☆昔ヨセフと共にあった神、摂理の内に導いてくださる神についてヨセフから学びましょう(創世記39:1-8)
☆出エジプトを完成したヨシュアに学びましょう。彼は「モーセと共にいてくださった神よ、わたしと一緒に行ってください」と祈りました。
☆ゴルゴダの十字架を見た弟子のうちエマオに向かう二人の弟子に語られた復活の主の言葉が、私たちの信仰を立ち直らせます。「語り合い論じ合っていると、イエスご自身が近づいてきて、彼らと一緒に歩いて行かれた」(ルカによる福音書24:15)


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結論) イスラエルの民は、「神はインマヌエルとして臨在くださる」という信仰の原点を思い返し、ここに帰ることによって神様に従うことの報いと感動を信仰によって味わいました。一日の終わりに主の恵みを数えあげましょう。「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について感謝しなさい(Ⅰテサロニケ5:16)この生活を維持できるよう祈りましょう。