説教題 「神の宝の民」
聖 書 申命記 第7章6~8節
(序論)「汝自身を知れ」という言葉があります。しかし、これほど難しいことはありません。人はしばしば自分ほど不幸な者はないとつぶやきます。しかし、反対にどんな時も「微笑ーえみ」をたたえて幸せを周りに振りまいている人もいます。この差は何でしょうか、自分の知り方の差ではないでしょうか。聖書の中にも、「わが魂は平和を失い、わたしは幸福を忘れた」(哀歌3:17)という絶望の言葉を発見します。
聖 書 申命記 第7章6~8節
(序論)「汝自身を知れ」という言葉があります。しかし、これほど難しいことはありません。人はしばしば自分ほど不幸な者はないとつぶやきます。しかし、反対にどんな時も「微笑ーえみ」をたたえて幸せを周りに振りまいている人もいます。この差は何でしょうか、自分の知り方の差ではないでしょうか。聖書の中にも、「わが魂は平和を失い、わたしは幸福を忘れた」(哀歌3:17)という絶望の言葉を発見します。
(本論) しかし、神様は私たちに近づいて、私たちを必要な存在として、手を加え愛を注いで育てると約束してくださっています;「あなたの神、主は地のおもてのすべての民の内からあなたを選んで自分の宝の民とされた」(申命記7:6)今朝、倉敷の40万市民の中からたったこれだけの集いに、神の恵みによる「幸福」を共有できる者たちが存在している、この事だけでも神様の奇跡のわざと言えないでしょうか。私たちが礼拝のために集う中で、私たちを「ご自身の宝」としてくださっていることは、神の愛の壮大なドラマに組み込まれた自分を感じます。神がいつも祝福をもって信仰者に関わってくださるのです。「あなたを愛し、またあなたの先祖に誓われた誓いを守ろうとして」(申命記7:8)歴史を支配しておらえる主がその御名をかけて私たちをお守りくださるのです。
(結論) 平凡な生活の中に神の祝福を感謝できる時、幸いがそこにあります。御手の中に主のぬくもりを覚えて感動し、自らを空っぽにして神様の宝の民であることを自覚いたしましょう。神様は私たち一人ひとりに「宝の民」と言い切ってくださいます。この宝は主の御冠の飾りとして輝くのです。神様のために働けること、この働きにお互いが召されていると感謝できる時に、本当の生きがいが生まれてきます。