2014年8月31日日曜日

礼拝メッセージ  2014年 8月31

説教題   「福音の使者」
聖 書   使徒行伝 第18章5〜11節
(序論) 「福音」は、「ふくいん」と読みます。この言葉は教会用語とも言えます。聖書は福音書とも言います。教会での説教は福音の説きあかしです。福音とはどんな意味でしょうか。国語辞典には、「うれしい知らせ」「喜びのおとずれ」「イエス・キリストの説いた神の国と救いの教え」と書かれています。人は聖書を通して、神からの語りかけを聴くことができ、それ故聖書は、独りよがりに読むのではなく、そこに神からのメッセージがあると信じて読み聴くことが大切なのです。

(本論) 「悔い改めて福音を信ぜよ」 (マルコによる福音書1章15節)「悔い改めて」、これはこの世に合わせて生きるのではなく、「方向転換」して神様を認めて、神様からの良き知らせを信じて生きなさい、ということです。自分の立つ「場」が変わるとすべて見方、感じ方が一転します。これが一生の一大転機をもたらします。自己中心から誰かのために私に何ができるか。しかも、その出来ることを私にしなさい、と神様は迫って来られます。自分の事ばかりでなく隣人のことを視野に入れた神の子どもへと脱皮して、成熟することを喜び願い祈る者へと変えられるのです。これが神様と向き合って生きる信仰のリアリティーです。そして、神様の働きのために積極的に参加する者となりま す。

(結論) 人はどんなに小さい存在でも神様の息のぬくもりによって生きます。この幸福感は他では味わうことができないもので、私たちは悔いなき人生を歩ませていただきます。そこには神様から与えられる使命が見えてくるからです。何が起こっても失望せず、神様の御旨が成就するために、小さな共働者として生かされている自信と誇りに生きたキリスト者たちの足跡は、今も心ある人々の憧れの生きざまです。

2014年8月24日日曜日

礼拝メッセージ  2014年 8月24

説教題   「本当の強さ」
聖 書   詩篇 第31篇14〜24節
(序論) 人は誰かのために必要な者として生まれ生かされていることに気づかされるまで、自分について自信と誇りを持てないものです。置かれた場所で自分らしく生きることができる者だと思えるまで、神様は私に慈愛をもって限りない関心を示されると聖書は教えます。ですから、成功の物語より挫折と失敗の中で慰めを得た人生を歩んだ者の中に、本当の慰めと励ましを発見します。弱さの中に強さを味わう、聖書は本当の強さに生きる信仰者の強さを示しています。

(本論) 人生のどん底から人々に望みを与えた涙の預言者エレミヤはこう言います:泣きやむがよい。目から涙をぬぐいなさい。あなたの苦しみは報いられた」(エレミヤ書31章16節、新共同訳)。神は、無駄なく試練をも用いて私たちを育ててくださいます。しかも、苦労の実を持って他人を喜ばせもてなす者にしてくださいます。これこそ本当の強さを持った巨人です。人は誰しも失望という沼地に踏み込むことがあります。自分の居場所は何と暗いところかと人と比べて不幸の主役になりたいと思う時もあります。しかし、イエス様は、私の現実をどうご覧になっているかと視点を変えると、暗さの中に光が射してきます。

(結論) 「しかし、わたしは主を仰ぎ、わが救い主の神を待つ。わが神は、私の願いを聞かれる」ミカ書7章7節、新共同訳)。神と向き合うその場所に帰ることが自己理解を一転させます。「いじけず、愚痴らず、やけを起こさず、神にすべてを委ねる勇気を持って立ちて歩め」という声を聴くでしょう。神の愛は信ずるに値し、従う者を辱めない主が小さな私に与えてくださる祝福の大きさに驚く時が来ます。神に期待すること、これが自分の弱さを超えさせるバネとなります。

2014年8月17日日曜日

礼拝メッセージ  2014年 8月17

説教題   「誰かに気づかわれて」
聖 書   イザヤ書 第43章1〜7節
(序論) 幸いな者とは、「神様と出会い」、「あるがままの自分と出会い」、しかも「人の中でもまれながら人間となる」と聖書は教えます。8月15日は69回目の終戦記念日でした。戦争体験をした方々から平和のありがたさを聞かされます。最もつらい目撃者から聞かされる言葉はなんと残酷なものになれるものかという罪人としての人間の姿です。

(本論) しかし、この罪人を救うためにインマヌエルの主となってくださるという許しの福音の証しをイエス・キリストは示してくださったのです。聖書のメッセージは、私たちに神に帰ることによって始まる愛の開示です。先手を打たれる神の気づかいによって私たちは神に覚えれれていることに気づき、神への方向転換をすることで新しい恵みの世界に生かされていることを信仰をもって確信できます。神の愛の気づきと同時に私を取り巻く人々にも覚えられ支え合って生きることを学びました。

(結論) 小さな平和を共有できる喜びを感謝、その土台は主の十字架の許しを覚えること、お互いに平和をつくりだす者として生きるために信仰をもって仕え合う姿勢を大事にしたいものです。神様は私たちのこの願いを必ずかなえてくださると信じ自分らしい生き方に誇りをもつ、神さまに従い続けてまいりましょう。私たちは神様につながることで花を咲かせ実を結ぶ私の人生となるのですから積極的に生きましょう。神と人を大切にしたキリスト者になれとイエス様は励ましてくださいます。

2014年8月10日日曜日

礼拝メッセージ  2014年 8月10
説教題   「平和を祈る」
聖 書   マタイによる福音書 第5章1〜11節
(序論) 教会の夾竹桃が今年も咲きました。もう一カ月も咲いては散り、散っては次の花が開くのです。人に気づかれようと気づかれなかろうと咲くという自分の務めを果たしているかのようです。私が「夾竹桃」を意識して好きになったのは、以前広島の被爆者の手記を読んだからです。こんな内容でした。「昭和20年8月6日、ピカドンは一瞬にして広島の30数万人の人を殺し、焦土としました。草木も生きられないだろうと言われていたのに、次の夏、この木は芽を出し花を咲かせたのです。その生命力の強さに私たちは生きる希望を与えられたのです。」これを読んで以来、8月を特別に意識するようになりました。

(本論) 聖書は、人の争いの種はその心にあるといいます。「あなたがたの戦いや争いは、いったいどこから起こるのか。それはほかではない。あなたがたの肢体の中で相戦う欲情からではないか。あなたがたは、むさぼるが得られられない。そこで争い戦う。」(ヤコブの手紙第4章1,2節)それが私たちです、と誰もが本音の自分を認めるでしょう。しかし、神様はそんな私にもかかわらず、神の恵みによって「生きよ、あなたは地の塩、世の光としてこの世に存在しなさい」と言ってくださいます。この狭間で自分のために隣人のために祈ることを励む者とされます。

(結論) この神様の言葉は、自分に望みを持たせ、御旨にかなう自分であろうと固守させます。そして、出会う人と関わる主の証人の務めが果たされます。お互い自分の一番近い人々に対して平和の運び手の役割ができる時、神と共に穏やかな平和を満喫させられます。

2014年8月3日日曜日

礼拝メッセージ  2014年 8月 3日
説教題   「キリスト讃歌」
聖 書   コロサイ人への手紙 第3章12〜17節
(序論) 8月を迎えるとやはり「平和」について考えます。イエス様は私たちに、人として一番大切なことは「まず神の国と神の義を求めなさい」(マタイによる福音書6:33)、そうすれば様々な思い煩いから解放されます、そして心安らぐ平和を味わい、こころを「平安」によって治めるようにしなさいと教えています。

(本論) 「主をほめたたえよ」。何がおころうと、心配事があろうと、神様のもとに本当の私たちの故郷があるから、信じて神と共に自分を生きよ。これがキリスト教の福音です。1945年8月6日午前8時15分、人類初の新型爆弾が広島を死の地獄にしました。次いで、9日午前11時2分長崎にも。この原爆によるいたましさは今に続きます。戦争の傷跡はこの水島にもあります。亀島山の地下軍事工場の跡、水島明神町のふれあい会館の庭には当時朝鮮半島から強制的に連れて来られ、再び故郷に帰れなかった人々の記念碑があります。あのむごい時代を生きた人々の中に、その置かれた場所で神様をほめたたえることをやめなかったクリスチャンがいました。苦しみの向こう側に神の約束 の新しい天と地が用意されていることを信じて、その時を待ち望んでいた神の僕の働きが私たちの教会の出発であったことを覚えていきましょう。

(結論) イエス・キリストを救い主、人生の導き手と仰ぎ、そのお方が指示される道を疑いなく信じて歩み続けましょう。謙遜、柔和、寛容を身につけ、忍び合い、許し合って生きることを共に楽しみましょう。
 礼拝で気持ちを一つにして神様を賛美することによって、神様の臨在を感じ、キリストの愛がお互いを結び合わせていることを実感することができます。また、讃美によって沢山の勇気が与えられます。讃美のあふれる教会、讃美のあふれる家庭にしましょう。