2018年9月25日火曜日

礼拝メッセージ  2018年 9月 23日 
説教題  「ゆだねられた所有物」 
聖  書  歴代志上 第29章10〜14節
(序論) ダビデは、全集団の目の前で、全てのもののかしらである主をほめたたえます。そして、民が神殿建築のために捧げた全てのものは神様のものであると告白し、みずから進んで捧げる力を与えて下さった神様に感謝します。
 
(本論) すべてが神様のものであることを悟った人は、感謝と賛美を捧げずにはいられません。ダビデは、神殿建築のためにみずから進んで捧げる心が与えられた事に感謝し賛美しています。
 ダビデは、一国の最高統治者ですが、力と尊厳、天と地にあるもの、そして王国も、すべては神様のものであることを告白しています。 これは、神様の前で自分は取るに足らない存在で、神様の「しもべ」にすぎないということを知っている者の告白です。 自分と民が神殿建築のために捧げたものも、本来は神様のものなので、主人である神様にお返ししたにすぎない、というダビデの告白には、管理人としての心構えが表れています。
 クリスチャンは、天の故郷を仰ぎ見て生きる旅人です。 一時的にとどまっているに過ぎないこの世に望みを置かず、また、神様からゆだねられた所有物を永遠のものと考えず、主の働きにふさわしく用いなければなりません。
 
 
(結論) 私たちは主に、精一杯の奉仕し、捧げものをしていると自負しているとしても、実は主からいただいたものを、お返ししたにすぎないことが分かります。主から受け取ったもの、健康、家族、賜物、信仰、物品、その他、これらはすべては恵みであり、また主の栄光のためにお返しできることも、恵みであることを覚えて礼拝ごとに主に感謝し、主に喜ばれることが出来るように祈ります。

2018年9月17日月曜日

礼拝メッセージ  2018年 9月 16日 
説教題  「信仰に生かされた者」 
聖  書  サムエル記下 第16章9〜12節
(序論) ダビデ王が、息子アブサロムに追われ都落ちしていく途中に、サウル家の一族の一人シメイが出て来て、ダビデとその家来の一行に石を投げ、盛んに呪いの言葉を語りました。 「出ていけ、血まみれの男、よこしまな者、主がサウルの家の全ての血をお前に報われたのだ。主がお前の息子の手に王位を渡された。お前は、血まみれの男だから災いに会うのだ」とののしりました。
 
(本論) わが子の手をのがれ、泣きながら逃げ延びているダビデにとって、このシメイの非情なののしりは、腹わたをえぐられる思いであったことでしょう。
家来のアビシャイは、このシメイの王に対する罵倒の言葉を聞き「この死に犬めが、わが王を呪ってもよいものか。私に、あの者の首をはねさせてください。」と憤りました。 主君に対する屈辱の言葉に耐えられなかったのです。
 
神への信頼、神による勝利  しかし、ダビデは家来をたしなめて言います。「これは私への言葉だ。主が彼に『ダビデを呪え』と言われたのであるならば、だれが彼に『お前は、どうしてこういうことをするのだ』と言えようか。 彼に呪わせておけ、主が彼に命じられたのだから。 たぶん、主は私の心をご覧になり、主は、きょうの彼の呪いに代えて、私に善を報いてくださるかも知れない」
 人生には、誤解や中傷がよくあります。 その時私たちは、なんとか早く解消しようと焦ったり、怒りちらしたり、相手に危害を加えたりしやすいものです。
 哀歌3章3032節に「自分を打つ者に頬を与え、十分そしりを受けよ。主は、いつまでも見放してはおられない。たとい悩みを受けても、主は、その豊かな恵みによって、あわれんで下さる」と、涙の預言者エレミヤがうたっています。
神様を信頼する者、神様による勝利を願う者だけが、耐えることが出来ます。
 そして、そのような者を神様は、哀れんでくださいます。
 
 
(結論) マーティン・ルーサー・キングの言葉に、「我々を打って半殺しにするがいい、それでも我々はあなたがたを愛するだろう。 しかし、我々は耐え忍ぶ能力によって、あなたがたを摩滅させることを、はっきり覚えておくがいい」 「私には夢がある。…奴隷の子と奴隷所有者の子孫が、同じテーブルにつくという夢が」。
キング牧師の言葉は、信仰に生かされた者の、我々への力強い証言です。

2018年9月9日日曜日

礼拝メッセージ  2018年 9月 9日 
説教題  「神の言葉を聞き」 
聖  書  歴代志上 第22章11〜13節
(序論) 主はダビデに、主の宮を建てるのはダビデでなく、その子ソロモンであると告げられました。ダビデは自ら主の宮を建てることは断念しましたが、主の宮を建てたいとの願いは切実で、ダビデは可能な限りの準備をしました。
 
(本論) ダビデは多くの材料を整え、その上でソロモンに向かって神意を説明し主の宮を建てるよう命じました。ダビデがソロモンに伝えたことの中で最も重要なことは、工事についての明細ではなく、主が彼と共にいて下さるからモーセの律法を忠実に守ることを勧めました。 そして、ソロモンが心を強くし、勇み、恐れず、おののかないで、主のみ前に忠実に生きることを希望しました。(13
                       
1) 信仰の困難さ ダビデは当時の世界を制覇し、その名を天下にとどろかせた彼のような人が、わが子に「心を強くし、勇め。恐れてはならない、おののいてはならない」と注意を与えたことは、信仰の戦いが、いかに厳しいものであるかを示しています。私たちは信仰を軽く考えやすいものです。信仰生活とは神様を信じて生きていくことだけではありません。神様の言葉に従って生きていくことです。ここに信仰生活の戦い厳しさがあります。
 
2) 信仰生活とは 旧約のノアは、洪水による滅亡から救われた人です。しかし、神様はその救いのために、箱舟を造ることを命じられました。長さ150メートル、幅25メートル、高さ15メートル、これだけの大きな舟を建造することは、当時個人で造ることは容易ではなかったはずです。自分の全財産を投入し、全能力を傾注しなけりばならず、片手間に出来ることではありませんでした。世の人々が、飲み食い、めとり、とつぎといった歓楽に酔いしれている中で、この神様の言葉を聞き、そしてそれに従って舟の建造に、日々明け暮れたのです。これが信仰ではなく、信仰生活と言うことです。 
 
 
(結論) ここに心を強くし、勇み、恐れず、おののかない精神が必要となります。 
民主主義がもたらす最大の災いは、民主主義です。民主主義は、独裁には勝りますが、絶対的なものではありません。私たちは、知らず知らずのうちに「大衆へのへつらい」に陥ってしまう。民意は、必ずしも神意、真理を表すものではありません。

2018年9月3日月曜日

礼拝メッセージ  2018年 9月 2日 
説教題  「現実と神の約束」 
聖  書  エズラ記 第1章1〜4節
(序論) ユダヤの民族は、バビロンのネブカデネザル王に滅ぼされ、バビロンに捕らえ移されてより70年後の、BC536年ペルシャの王クロスがバビロンを滅ぼし、ユダヤの人々は、故国に帰り神殿を再建することが出来ました。
(本論) かつてエレミヤは、エレミヤ書2910節で「主はこう言われる。バビロンで70年が満ちるならば、私は、あなた方を顧み、私の約束を果たし、あなた方をこの所に導き帰る」と預言しました。バビロンに捕らえられたユダヤの人々にとって、この預言は、あまりにも現実には遠いものと感じられたことでしょう。
1)神の約束と成就 神様は真実です。神様が約束されたことは、必ず成就します。
 70年前、誰がこの約束を予測し得たでしょうか。しかし、神様はご自身の力を持って、ご自身の約束を成就されます。たとえ人間には至難の事柄のように思えても、神様は全能者です。それゆえに必ずその約束を成就されるのです。信仰とは、それを信じて生きることです。
2)神の栄光を拝する 会堂司ヤイロは、娘の危篤の状態の中で救いを主に求めました。イエス様は彼の懇願を受け入れて彼の家に向かわれました。ところが、その途中で家から使いが来て「お嬢さんは、亡くなられました。この上、先生を煩わすには及びません」と知らせました。(ルカ849) その時主は、ヤイロに向かって「恐れることはない。ただ信じなさい」と言われました。 私達は、現実と神様の約束、一体どちらを重く見るでしょうか。娘が死んだ、と言う現実と、治してあげようと、言われた主イエス様の約束の言葉。「恐れることはない。ただ信じなさい」とは、現実よりも神様の約束の言葉に立て、と言うことです。それは、決してやさしいことではありません。 しかし、そのように生きることがイエス様を主と告白することです。ヤイロはかろうじて使者のすすめに反して、イエス様を伴って家に帰りました。そして、彼は娘を生き返らせていただき、神様の栄光を拝することが出来ました。 
(結論) 現代私たちは、神様の栄光を見ることが少ないと考えます。 神を信じていないクロスさえ「感動させて」ご自身の御心を成就され方です。 あなたの今日がどんなであろうとも、神様はすべてを用いて今日もご自身のみ旨を成し遂げられます。あなたが仰ぎ見る時、あなたの人生も神の栄光に預かります。