2016年5月29日日曜日

礼拝メッセージ  2016年 5月 29
説教題  「主は洪水の上に」聖  書  詩篇 第29篇10〜11節
(序論) 自然環境で暴風雨がやって来るように、私たちも人生で暴風雨に遭うことがあります。避けられない暴風雨に対して、万一私たちが誤った姿勢を取るなら、暴風雨は私たちを粉々に引き裂いてしまうでしょう。
 しかし、この暴風雨を正しい姿勢や態度で受け入れるなら、それは幸いに変わります。
(本論) 主は、「大洪水のときに御座に着かれた。」と言われました。洪水がよく田畑や家を押し流すように、私たちを襲う生活の洪水も、すべてのものをめちゃくちゃにして悲しみや苦難や嘆きで私たちを覆いつくしてしまうように思えます。すると人々は、試練や患難だけを見つめて悲鳴を上げ押さえつけられてしまいます。
 では、洪水が襲って来たとき、それに押さえつけられて滅びるしかないのでしょうか。聖書は、神が洪水の上に座しておられると言います。この言葉は、洪水が怒涛のように押し寄せるとき、神がその上に座って、洪水と共にあなたや私の生涯の中に訪ねて来られるということです。ですから、私たちが洪水に巻き込まれるか、あるいは洪水に乗って私たちを訪ねて来られる神の御手を捕まえるか、それは私たちの信仰姿勢にかかっているのです。神様は明るい日差しが輝き、平安な時に私たちの所へ来られるのではありません。神様は人生の変革を起こし、あなたが変えられ、隣人が変えられる素晴らしい働きをされる前に、私たちの生涯の中に恐ろしい洪水を送られることがあるのです。

(結論) だからといって落胆したり望みを放棄したりするなら、洪水の中から抜け出すことは出来ません。絶望的な状況からでも神様に呼び求めれば、神は遥か空の彼方におられるのではなく、洪水に乗って来られ手の届く所におられることを体験するようになります。ですから、洪水が襲って来たなら洪水の上に着座されている神様を見上げると、必ず奇跡が起ります。

  
 
   



2016年5月26日木曜日

礼拝メッセージ  2016年 5月 22
説教題  「失望に終わらない人生」
聖  書  ローマ人への手紙 第10章11〜13節
(序論) たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私と共におられますから。」(詩篇23:4)とあります。第二次世界大戦中にユダヤ人たちは、彼らの同族の半分近い600万人をヒットラーに踏みにじられて惨殺されました。ユダヤ民族は、再起不能のように見られました。しかし、奇跡的に昔の土地を取り戻し、世界と肩を並べ 中東で大声を上げています。いったい何が民族を再起させたのでしょうか。
(本論) それは、あれほど悲惨な破綻したユダヤ民族が、神に対する望みを失わなかったからです。ユダヤ人強制収容所の壁に刻まれた詩があります。彼らは死に行く庭で、絶望的な最後の瞬間に次のような詩を詠ったのです。
  私は信じる、陽が差さなくても太陽があるという事実を。
  私は信じる、愛を感じることが出来ないときでも愛があることを。
  私は信じる、神が沈黙しておられても、変わることなく沈黙の後ろに神がおられることを。
 神に絶え間なく叫んでも答えが無く、神が沈黙を守られても、彼らを救い出してくださる神様を信じました。くじけず、屈服することのない望みを持ったからこそ、ユダヤ人はその絶望から再起して歴史の孤児になることなく、世界列強と肩を並べることが出来たのです。私達がこの世を生きていくときに、絶望を踏み越えて環境を克服して生きていく唯一の力は、私たちの前に望みがある、ということです。
(結論)神様は、私たちを杯のあふれる人生に導かれる前に、必ず死の陰の谷を歩ませられます。その時、魂を砕き、欲を殺されます。アブラハムもヤコブもヨセフもモーセも、死の陰の谷を通りました。谷を過ぎると神のまばゆい祝福が待っています。「すべて彼(イエス)を信じるものは、失望に終わることはない」との御言葉が実現します。

2016年5月15日日曜日

礼拝メッセージ  2016年 5月 15
説教題  「助け主・慰め主」
聖  書  ヨハネによる福音書 第14章26、27節
(序論) 私達が失望落胆した時、親しい友人、父母、兄弟姉妹の親切な慰めの言葉が、新しい勇気や力を与えてくれます。しかし、人間の慰めには限界があります。人間の慰めが届かない、どん底や絶望状態に陥った時神様だけが、私たちの心の中に、慰めの力をもって臨んでくださいます。
 
(本論)イエス様が地上で生きておられる間は、弟子たちの保護者になってくださいました。そしてご自分がこの世を去られてから弟子たちが孤児のようになるのを心配されて、「私は、あなたがたを捨てて孤児にはしません。わたしは、あなたがたのところに戻ってくるのです」と約束されました。さらに「父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります」(ヨハネ14:16)と約束されました。この「助け主」は別の言葉でいえば「慰め主」と言う意味です。別の助け主なる聖霊は、弟子たちの心の中に慰めと平安と力を溢れさせました。弟子たちは人々から辱められ、むち打たれ、牢に入れられ、殺されながらも、彼らの心の中には、いささかの孤独も悲しみも絶望もありませんでした。聖霊が彼らの中におられて、無限の神の慰めで彼らを慰めてくださったからです。
 
(結苦しく、せち辛いこの世で、私達は、どんなときにも傷ついた心を抱えて主の前に出るしかありません。その時、私たちを慰めてくださり神を賛美し、さらに、隣人を慰めるように新しい力や希望や喜びをくださる方が、別の助け主、私たちの聖霊なのです。

2016年5月8日日曜日

礼拝メッセージ  2016年 5月 8
説教題  「模範を見せる」
聖  書  マタイによる福音書 第25章21節
(序論) 私たちは誰もが、神様にも人々にも愛され、尊敬されたいと願っています。では、どのような信念と生き方をしたら、これが実現されるのでしょうか。
(本論) 神様はいつでも誠実な姿勢(人)を求められます。私達は、与えられた仕事の大小によって判断しますが、神様はそうではありません。神は与えられた仕事に、どれほど忠実であるかを見られます。
 イエス様は、誠実な人に対する神の祝福を、タラントのたとえによって教えてくださいました。与えられた5タラントをさらに5タラ
ト増やした、しもべに「良くやった。良い忠実なしもべだ。あなたにたくさんの物を任せよう。」と主人(神様)は、言われました。
しかし、1タラントを受け、そのままにしておいたしもべ、への主人の評価は「なまけもの悪いしもべだ」というものでした。私達は人
を見て仕事をすることがあります。他の人が称賛する仕事は、したがりますが、難しく実績が表面に現れない仕事は、引き受けようとし
ません。これは人間を見て仕事をする姿勢です。
(結論) 誠実な生活とは、神を仰ぎ見ながら、神の中で仕事をする姿勢です。このような人は、与えられた仕事に絶対の忠誠を尽くします。
 人が見ていようがいまいが、会社にいる人はその会社のために、工場では、生産する品物のために誠実な心で働きます。私たちクリスチャンは誠実な生活姿勢をとることによって、隣にいる同僚や隣人にイエス・キリストを紹介することができるのです。そして、箴言3:3、4節の御言が実現します「いつくしみと、まこととを捨ててはならない。それをあなたの首に結び、心の碑ににしるせ。そうすれば、あなたは神と人との前に、恵みと、誉とを得る。」私達は、一日一日の生活を、誠実な姿勢で生き、模範を見せることによって、キリストを信じる人になった証拠を示しましょう。

2016年5月1日日曜日

礼拝メッセージ  2016年 5月 1
説教題  「神が万事を益に」
聖  書  ローマ人への手紙 第8章28節
(序論) 私たちクリスチャンにとっては、ローマ人への手紙8章28節のみことばは永遠の希望の言葉です。私たちの人生のすべてのことを働かせて益として下さるのですから、病気になっても事業が傾いても、心が傷ついても、それら全てのことが益になります。このような保証をいただいて生きるのですから、私たちには恐れることがありません。では、どんな人に、このような永遠の祝福がやって来るのでしょうか。
(本論) まず最初に「神を愛する人々」とあります。愛は無理に出来るものではありません。十字架を通して神が、私をこんなにも愛して、ひとり子を下さったという事実と、私が先に神を愛したのではなく、神が先に、私たちを愛されたという事実を悟る時、神に対する熱い愛が湧き上がるのです。神を愛する者は、いつでも人を愛し仕えるようになります。その愛によって福音を伝え奉仕するのです。
 第二に、「神の計画に従って召された人々」とあります。私たちが神の御心通りに生きることを決心して、天地を造られた神の前にひれ伏し、自分自身、自分の家族、自分の事業、自分の人生を、主の足元におろしてゆだねる時、主は引き受け、30倍、60倍、100倍の祝福をして下さいます。
(結論) このように、神を愛し、神の計画に従って召された人々には、すべてのことが益になります。神様が限りない力で、私たちの環境を支配される時、麗しい働きだけが起こるのです。しかし、そのように物事の結果が、すべて益に帰結するのは、私たち神を信じる人々だけが受ける特権なのです。ハレルヤ(主をほめたたえます)。