2017年7月30日日曜日

礼拝メッセージ  2017年 7月 30日 
説教題  「神の御手の体験
聖  書  列王記 上 17章9〜16
(序論)最も悪しき王アハブの時代に、旧約の代表的な預言者であるエリヤが立てられたことは意味深いことです。エリヤはアハブ王に「数年間は雨も露も降らないであろう」と神様の言葉を宣言します。ケリテ川でカラスが運んで来たパンと肉を食べ、川が枯れると、シドンで一人のやもめに会い、最後の粉、一握りの粉と油でパン菓子を作ってもらうと、やもめの家の粉と油は尽きることがありません。
(本論)1.エリヤ ききんの宣言
 農作物の豊作は、農業神バアルにかかっていると王をはじめ民に信じられていた当時に、エリヤはアハブ王に「真の神は、イスラエルがききんに見舞われると言われる」と宣言しました。
 これは、バアルの神は偽りの神であると暴くことなので、非常に危険なことでした。エリヤはアハブ王の迫害を避け、神様が語られたヨルダンの東にあるケリテ川のほとりで、カラスが運んで来てくれる食べ物を食べて、過ごしていました。ききんが続き川の水が枯れてしまいます。エリヤの預言が成就したのです。神のみ言葉に従っていれば、常に安定と安心が伴うだろうと期待しますが、信仰の道には、試練と苦痛もあるものです。
 2.やもめに起こった奇跡 
 み言葉に従った時、また神様のみわざも伴います。川が枯れると神は、シドンのツァレファテに身を隠すようエリヤに指示されます。そこで、あるやもめに会い、最後に残った一握りの粉と油で自分に食べさせるようにと、無理な要求をします。これは、やもめが、神の言葉を信じて従えば、共に生き延びることが出来ると分かっていたからです。女が従うと、エリヤの言葉通り粉と油は尽きませんでした。
(結論)神様のみ言葉に従うことが、容易でないような状況でも、信じて従うとき、驚くべき方法で助けてくださる神の御手を体験します。

2017年7月23日日曜日

拝メッセージ  2017年 7月 23日 
説教題  「明日を見る目
聖  書  列王記 下 6章24節〜7章2
(序論)スリヤの王が、サマリヤを包囲すると、ききんにより町では、子どもを食べるという事態になります。王は、それをエリシャのせいにして彼を殺そうとします。エリシャは、自分を殺しに来た王の使者に、明日の今ごろ、ききんは解消されると言いますが、王の侍従はそれを信じません。
(本論)エリシャが、神の救いを宣言しますが、あざ笑った王の侍従は「たとい神様が天に窓をお作りになっても、そんなことは起こらない」と言い張りました。エリシャは言います、「あなたは、自分の目でその有様を見る。だが、あなたはそれを食べることがない。」(71-2
 1.理解出来ない困難の中でも、神様は私達に対する計画を持っておられます。時に、神様が私達を見捨てられたように感じることがあります。
ヨラム王は「これ以上、何を主に期待しなければならないのか」(33節)、無視される神様への恨み言を言います。しかし、時は満ち神様の備えは満ち溢れる食料でした。主への期待を捨ててはいけません。不信仰のゆえに王の侍従は、見ることは出来ても、自らは食べることなく息を引き取ります。
 2.真の指導者は、民の苦しみに同情するだけでなく、神様が与えて下さった民へのビジョンを示す人です。ヨラム王は、民の苦しみには心を痛めますが、神様が備えてくださる「明日を見る目」がありませんでした。
(結論)信じる者に求められるのは、困難な状況にとらわれず、ただ神様を信じ続ける信仰です。神様はどんな絶望的な状況もいっぺんに変えることの出来る全能なるお方です。
「苦しみと悲しみのなかでもビジョンを失わない勇気を与えてください。すべての道が閉ざされ、絶望的な状況でも回復と勝利の主を見上げさせてください。」

2017年7月17日月曜日

拝メッセージ  2017年 7月 16日 
説教題  「見えない世界の現実
聖  書  列王記 下 6章15〜19
(序論)エリシャは、スリヤの軍隊を恐れる召使の霊の目を開いて、天の軍隊を見せます。そして、エリシャが祈るとスリヤ軍の目がくらまされサマリヤに迷い込み、殺す代わりに飲み食いさせた後、彼らを帰します。
それからは二度とスリヤの略奪隊は、イスラエルの地に侵入しません。
(本論)エリシャは、スリヤ王の作戦をすべてイスラエルの王に通報しています。主に示されたに違いありません。
 1.私達のすべて、全知の出来事のすべてを主はご覧になり必要なことを示して下さる神様です。主に聞き主に従う幸いを確信し感謝しましょう。
 スリヤ軍を見て驚かなかったエリシャは、主の軍勢が彼を取り巻いて、山に満ちているのを見ていました。動揺する召使の霊の目を開いてやり、スリヤの戦車よりも多くの火の馬と戦車がエリシャを護衛している様子が見えるようになります。見えない世界を知った召使は、もうスリヤ軍を恐れません。
 2.目の前の問題だけに心がしばられると、恐れがおそいます。しかし、私達が神様に目を向け主の現実を見るとき、勇気と平安が臨みます。私達のためにも、主は天使を送って私達を守ってくださいます。恐れと敵対心は、主の現実が見えていないことを召使とスリヤの王は示しています。
 それから、エリシャは、力をもって力に対抗するのでなく、愛をもって力を包み込み、平和をもたらす道を指し示しました。これが主の道です。
(結論)この世は、見える世界が全てでなく、もう一つの現実、見えない神様の統治される世界が共存するものです。聖徒が仰ぎ見るべきものは、万物よりも偉大なもう一つの現実、神様の世界の現実です。

2017年7月10日月曜日

拝メッセージ  2017年 7月 9日 
説教題  「み言葉・謙遜・従順
聖  書  列王紀下 5章8〜14
(序論)スリアの将軍ナアマンは、イスラエルの女奴隷からサマリアにいる預言者が、重い皮膚病を治してくれると聞き、エリシャに会いに行きます。ヨルダン川へ行って七たび身を洗うように言われ、ナアマンは怒って帰ろうとしますが、しもべたちに勧められて従うと、からだは清くなります。
(本論)1節には、主がナアマンに勝利と重い皮膚病を与えれたことが記されています。一寸見ると栄光と屈辱のように見えますが、この章は重い皮膚病が彼に本当の神様を知らせる恵みの始まりであったことを告げています。
1)ナアマン将軍の苦しみ 神なしに生きている人々は、不足がないように思えても弱い存在に過ぎません。「主がかつて彼によってアラムに勝利を得させられたからである」という描写から、彼は国に大きな功績を立てた人物のようですが、いくら偉大で尊い人でも不治の病いと思われていた重い皮膚病の前では、当時は絶望するしかありませんでした。
 しかし、イスラエルの一人の若い娘がナアマンに告げた一言は、一筋の光となりました。 
2)従順を通してのいやし み言葉に謙遜に従うとき、恵みを受けます。
エリシャの家に着いたナアマン将軍は、自分を迎えるどころか会いもせず、使いを通してヨルダン川で七たび身を洗うようにと指示するエリシャの態度にひどく怒ります。特別ないやしの儀式を期待していた彼は、エリシャが自分を侮辱したと判断し帰ろうとしますが、家臣の忠告を聞いて、エリシャの言った通りにすると、きれいに癒されました。
(結論)人生の行き詰まりで、理解できない出来事に従うように言われるとき、神様の愛を信頼して自分を委ねてください。不運、実は恵みの始まりでもあります。神様の従順のテストをクリアいたしましょう。

2017年7月4日火曜日

拝メッセージ  2017年 7月 2日 
説教題  「笑い・悲しみ・有益
聖  書  ヘブル人への手紙 4章14〜16
(序論)使徒パウロは私達に「いつも喜んでいなさい」と勧めています。
「いつも」ということは「たとえ困難の中にあっても喜ぶ」という意味です。しかし、困難な状況の中で喜ぶことなど、出来るのでしょうか。苦しみが良いものになりうるのでしょうか。人間的な視点だけでは、なかなか納得出来ませんが、聖書のみ言葉によって、苦しみの中であっても喜ぶ方法を見つけることが出来ます。
(本論)パウロは重大な発見をしました。それは「苦しみにさえ、神様は目的を持っておられる」ということが分かったのです。コリント第二の手紙で、激しい痛みを伴うような状況も「喜び」になりえる理由を記しています。
 第一に、苦しみがもたらす最大の祝福は「もはや自分自身を頼まず、死者をよみがえらせてくださる神様により頼む者」(第二コリント1:8−10節)とされることです。苦しみによって追い詰められることで、傲慢で自分勝手な「自我」が砕かれ「信仰」によって歩むことを体験させていただけるのです。一番大切だと思っていた地上の物事よりも「永遠に輝く神の栄光」の方に価値があるという真理に目が開かれます。
 第二に、主によって強められる経験をとおして、苦しんでいる人に寄り添い、慰めを与えることが出来るようになります。(第二コリント1:3−4節)これは苦しみの只中にいる人に言うことは、ふさわしい言葉ではないかもしれません。
 しかし、主にある平安と信仰は、寄り添っているだけで相手に伝わるものです。イエス様は大祭司ですが、私達の痛みと弱さを理解してくださる方でもあります。
(結論)ヘブル4:14〜16節、なぜなら、イエス様は人間の全ての苦しみを経験されたからです。「私達の病を負い、痛みを担った」とイザヤ書にあります。
 植物は日が照っている昼間よりも、夜のうちに成長するそうです。同じように、私達も「魂の暗い夜」を経験する中で成長し、他人の痛みが分かる人になれるのかもしれません。主の助けを受け入れるなら、苦難にさえ意味を見出すことが出来ます。霊的に成長し、そのことによって神の栄光を現すことができるようになります。