2015年12月27日日曜日

礼拝メッセージ  2015年 12月 27
説教題  「祝福が涙のあとに届く
聖  書  詩篇 第142篇
説  教    「見よ、新しいことをわたしは行う。今や、それは芽生えている。」(イザヤ書43:19) この一年、私たちはこの御言葉 
 を信じ導かれてきました。
 一人ひとりの生活の中に神の暖かい愛の導きと守りがあったことを数えて感謝しましょう。時に涙を流すこともありました。思いわずらいで暗さの中に座っている自分を意識することもありました。そんな時、預言者の言葉に私たちは慰められました。「あなたは泣く声をとどめ、目から涙を流すことをやめよ。あなたのわざに報いがある。彼らは敵の地から帰ってくると主は言われる。あなたの将来には希望があり、あなたの子ども達は自分の国に帰って来る」(エレミヤ書31:16、17)。神の御旨のみが成就することは、私たちの望みの信仰です。
 この一年に感謝し、静まりの時を持たせていだだき、神の祝福が涙のあとに届けられることを信じます。今、私たちは自分の人生の途中にあるのです。 

2015年12月20日日曜日

礼拝メッセージ  2015年 12月 20
説教題  飼い葉桶の中のメシア
聖  書  ルカによる福音書 第2章8ー14節
(序論) 「今日ダビデの町に、あなた方のために救い主がお生まれになった。この方こそ主なるキリストである」ルカ2:11)。クリスマスの祝福は、このことばを素直に受け入れて、生きる力を持つ者とされていることを感謝できることです。
(本論) ルカは、イエス様の誕生を最初に告げられたのは、野宿しながら羊の群れの番をしていた羊飼いだ、と書き記しています。当時、羊飼いは軽蔑されていた人々です。しかも「夜」が象徴する暗さの中で、神様は彼らを覚えておられたのです。幼な子は「布にくるまって飼い葉桶の中に寝かされている」、それが「しるし」でした。この幼な子は、「暗黒と死の陰とに住む者を照らし、わたしたちの足を平和の道へと導く」ルカ1:79)お方です。詩篇23篇のダビデの歌そのものです。羊と羊飼いの関係は、私たちと神様の関係を示しています。あの夜、客間にはこの聖家族をお泊めする余地がなかったのです。しかし、彼は与えられた家畜小屋を神様のご支配のぬくもりの場に変えました。
(結論) 主イエスは貧しくなられて飼い葉桶に寝かされているのです。私たちのそばにおいでくださるインマヌエル(神われらと共にいます)の証しがここにあります。それ故、クリスマスは神を賛美する歓喜の時です。新しく生きる勇気と自信を私たちに与えてくださった神に感謝する時です。飼い葉桶のメシアにお会いするクリスマスにいたしましょう。

2015年12月14日月曜日

礼拝メッセージ  2015年 12月 6
説教題  「破れを繕う者」
聖  書  
イザヤ書 第58章10ー12節
(序論) 世界がどんなに暗く、希望が見えなくとも、私がどんなにいたらなくとも、キリスト者には望みが残されていることを覚えておきましょう。イエス・キリストは、大祭司として私たちの弱さを思いやることのできるお方です。私たちは、どんなに破れの多い者でも、その「破れ」を体験されたお方が破れを繕って、祝福の子としてあたたかい御手の中に私たちを受け止めてくださるのです。
(本論) クリスマスは神様の一方的な愛をイエス・キリストを通して見せてくださいます。どんな時も望みをもって祈り、神の導きを待つ、それが信じる者の行動です。、インマヌエル(神われらと共にいます)の主は「罪は犯されなかったが、すべてのことについて、私たちと同じように試練に会われたのである」(ヘブル人への手紙4章15節)。ここにご自分を啓示される神様の臨在を体験します。神が私たちと共にいる、これがキリスト教の教えです。
(結論) 神は忍耐強く、私たち一人ひとりを持ち運んでくださる、この約束を信じるが故に、私たちは神をほめたたえ、暗い世にあって輝いて生きることができる、とみ言葉は約束しています。人は、破れを繕われながら、神の栄光を表す者に育てられます。パウロは、「いのちの言葉を堅く持って、彼らの間で星のようにこの世に輝いている」(ピリピ人への手紙4章15節)。このように生きることを保障してくださいます。

2015年12月13日日曜日

礼拝メッセージ  2015年 12月 13
説教題  「暗きに座す救い主」
聖  書  ヨハネによる福音書 第1章10ー13節
説  教  大原美術館の一番の所蔵の絵は、エル・グレコの「受胎告知」でしょう。少し華やいだ背景の中で、マリヤに天使は語り 
 ます、「恵まれた女よ、おめでとう。あなたは身ごもって男の子を産むであろう」。突然の語りかけにマリヤは動揺します。御使い  
 は恐れを取り除きます、「恐るなマリヤよ」。マリヤは答えます、「わたしは主のはしためです。お言葉どおりこの身に成りますよう
 に」。これはマリヤの信仰告白でした。神様は暗さの中にいる者に声をかけて元気を与え、神様の働きに加わる行動を起こさ
 せます。
  聖書は今も昔も、それぞれが生きている場所が、"インマヌエル"(神われらと共にいます)であると言っています。世界がどん 
 なに暗くても、神はわれらに先立ってその暗さの渦中に座してくださいます。だから私たちは望みをもって輝いて生きられるので
 す。
  クリスマスは、真の光がすでに届いていることを表す神の御業の具現です。神はこの世を愛して、御子を世に遣わされたので 
 す。この事実を信仰をもって受け入れましょう。アドベントの第3週目です。主を歓迎する備えはできていますか。主を入れまつる
 場所は用意されていますか。それぞれのもてなしの気持ちを精一杯表して、今年のクリスマスの行事の一つひとつにおいて、感
 謝と喜びをもって主をほめたたえる歌を歌いましょう。

2015年11月29日日曜日

礼拝メッセージ  2015年 11月 29
説教題  「主の最善を信じる信仰告白」
聖  書  詩篇 第103篇 2ー5節
(序論) 人生には、自然界と同じように「晴れの日」「雨の日」「嵐の夜」があります。自然界には、雨の日は必要不可欠ですが、人生の日々には、できれば雨の日、嵐の夜は避けたい気持ちを誰もが持っています。今日の御言葉は、主は、あなたの一生を良いもので満たされる」(5節)といいます。この聖書の御言葉が、私の人生に実現されるのでしょうか。
(本論) 2節に「わがたましいよ、主をほめよ。すべての恵みを心にとめよ」とあります。「主が下さったすべての恵みに心をとめる」と、私たちの心はどうなるのでしょうか。誰もが、感謝があふれてくるのではないでしょうか。感謝があふれると心が明るくなり、笑顔になります。聖書は、多くの箇所で「感謝」の必要性を強調します。(コロサイ人への手紙3:16、ピリピ人への手紙4:6,7)。「感謝します」と告白することは、、「今、私の身に起きている様々な出来事は、神様の御手からきているのです。」と認めることであり、また、「主への服従と主が最善をなされることを信じます。」という信仰告白となります。だから感謝をささげる人生を喜んでくださり、主はその人の一生を良きもので満 たしてくださるのです。
(結論) 「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって、神があなたがたに求めておられることである。」テサロニケ人への第一の手紙5章16〜18節)。感謝をささげるということは、感謝できることに感謝するだけでなく、人間的に見て感謝できないことにも感謝をささげる行為です。人生にはある時には嵐の夜がやってきます。聖書は言います、「明日のことはおもいわずらうな。明日のことは、神様が心にかけて下さるから、今日一日を力いっぱい生き抜きなさい。」(マタイによる福音書6:34)

2015年11月26日木曜日

礼拝メッセージ  2015年 11月 22
説教題  「待つ喜び」
聖  書  マタイによる福音書 第11章2ー6節
(序論) 誰しも何かを信じて前向きに生きているけれど、「本当に大丈夫なの?」との不安の思いがあります。誰に保証されている自分の人生かを問い返します。教会に集う人々は聖書を通して語りかける神に出会うことができ、礼拝の中でそのことを再確認します。
(本論) バプテスマのヨハネは、イエスこそ真のメシア(救い主)であることを指し示しました。今年もクリスマスのシーズンに入ります。一般的にプロテスタントは12月25日をクリスマスと定め、その前4週間をアドベント(降誕節)と言って、クリスマスを迎えるための準備に入ります。それが来週からです。このアドベントは、キリストの誕生という過去の歴史的事実を記念するだけでなく、未来に向かって神の国、神の支配がやがて世界にもたらされるという希望があることを語り継いできました。
(結論) いかなる時代にも神がこの世を愛して支えてくださることを信じられる者は、新鮮な日々を過ごすことができます。イエス様は、私につまずかない者は幸いだと言われました。私たちはヨハネのごとく主を待ちましょう。そして、聖書がこの方を指し示しているとの信仰を持って、自分らしく生きることができる者にされたことを感謝しましょう。「イエスは主なり」と信じる時、誰かと幸せが共有できます。

2015年11月15日日曜日

礼拝メッセージ  2015年 11月 15
説教題  「実り豊かであるために」
聖  書  ヨハネによる福音書 第15章1ー10節
(序論) ただ一度限りの地上での人生で、誰もが実り豊かな人生をと願うのは当然のことです。今日の箇所からは、イエス様ご自身が並々ならない思いをもって、キリスト者の人生が実り多いものであってほしいと願われていることがわかります。ただ、同じ「実り」でも、一般の方の意味する「実り」とキリスト者の「実り」は同じなのか、違うのか?違うとすれば、どう違うのかという点も見逃せない事柄です。
(本論) 3つの角度から、実りの秘訣を学びましょう。第一は、「神様の刈り込みを受け入れる」ということです。人生の大小の試練は、キリスト者にとって、願ってもない神体験の学び舎です。第二は「主イエスと正しくつながる」ことです。キリスト者には、律法主義に傾くという落とし穴があります。福音の言葉だけが私たちを生かします。第三は、「本物の実りを求める」ということです。この世の成功主義思想は容易にクリスチャン生活をも脅かします。しかし、生まれながら持っている上昇志向からの解放の中にこそ、クリスチャン独自の栄えある実りが隠されています。
(結論) 私たちは、この世的な成功から自由にされています。ごく平凡な日々の暮らしの中で、静かに微笑んで福音に憩い、福音に息、他者に仕える。こうして神様は、すべての主の民に「その実が残る生き方」を惜しみなく備えて下さっているのです。

2015年11月8日日曜日

礼拝メッセージ  2015年 11月 8
説教題  「『道標』ー道しるべー
聖  書  ペテロの第一の手紙 第2章11,12節
(序論) 人の一生は重き荷を負うて遠き道を行くようなものと言われます。聖書もまた、イスラエルの民の歩みのすべての中に神の導きがあり、その旅の目的は「主があなたを良い地に導き入れられる」(申命記8章)ことの証しだと言っています。この導く生ける神を忘れることのないように慎んで生きなさいと戒めました。新約聖書の民も、このことを受けて「地上では旅人であり、寄留者である」ことを自覚させられます。私たちは人生の旅人ですが、「放浪」の旅人ではありません。
(本論) キリスト者は、出エジプトの中で神に支えられ導かれた40年の荒野の旅を経験した先人たちに見習い、身に起きるすべてを愛の訓練と神の偉大さを学ぶチャンスと受けとめます。歴史の中で教え導く神を通して本当の強き者にならせていただきます。神に愛されている自分を確信できます。人は、迷い気力を失う者です。その時、神の言葉が暗い心を照らしてくださいます。。自分の弱さを神の前にさらけ出す時、御言葉の輝きが灯台の光のように行くべき道を示して下さいます。望みが与えられて港に帰れます。
(結論) 私の聖書の中に一枚の新聞の切り抜きが貼ってあります。荒涼とした地に建った教会です。教会の前に静かにたたずむ人影。作者は、この絵に「道標」という題をつけています。困難の時、前に進むことのできない不安の中で、この夫人は人生の道しるべを黙して祈り求めています。そして、私たちは出会いの中で交わることのできた人々から一言の真実な言葉を聞いて、互いに生かされていることを感謝するのです。

2015年11月1日日曜日

礼拝メッセージ  2015年 11月 1
説教題  「静寂の持つ力
聖  書  ヘブル人への手紙 第12章1〜3節
(序論) 私たちが生きていることへの安定感は、神様が私たちに語られた言葉を確信することからきます。イザヤ書46章4節には「わたしはあなたがたの年老いるまで変わらず、白髪となるまで、あなたがたを持ち運ぶ。私は造ったゆえ、必ず負い、持ち運び、かつ救う」と約束されています。生ける神と真に向き合い、静寂の中で聴いた言葉を確信しましょう。
(本論) イエス様も静かな自分の時を大切にされました「朝早く、夜の明けるよほど前に、イエスは起きて寂しいところへ出て行き、そこで祈っておられた」マルコによる福音書1章35節)とあります。
 十字架にかけられる直前の極限的状況の中でも、イエス様は「いつものようにオリブ山に行かれ」祈られた(ルカによる福音書22章39~43節)。そして、行動されます、「立てさあ行こう、見よ私を裏切る者が近づいてくる」(マタイによる福音書26章46節)。主の十字架は、敗北ではなく全能の神にすべてを委ねた勝利者の行為でした。キリスト者の生活の土台を見出します。ひとり静まり、各自が負わされた十字架を負い、神様の栄光を表し、主をほめたたえて人生を終わりたいものです。あわただしい日常生活の中で、ひとりの時間を持つことの大切さや、静寂がもたらす力を体験させていただきましょう。
(結論) 私たちには務めが与えられています。どんな状況の中でも神の子どもとして、晴れ晴れと生きている姿を人々に主の証し人として見せることです。信仰の成熟のため今朝の御言葉を心にとめてください。「信仰の導き手であり、またその完成者であるイエスを仰ぎ見つつ、走ろうではないか」(ヘブル人への手紙12:2)と励まし奨める聖書の言葉をしっかりと胸に刻み、静まりの時が神様からの贈り物として、大切な時間となりますように祈りましょう。

2015年10月25日日曜日

礼拝メッセージ  2015年 10月 25
説教題  「神の御心の中に生きる
聖  書  使徒行伝 第16章6〜10節
(序論) 神の確かな導きによって、私たちは生かされています。出エジプトの出来事は、神はその終わりを恵みによって、締めくくることの確かさを確信させて下さいます。得がたい信仰のレッスンを素直な聴従によって学ばせていただきます。この学びは、試練を通して、またかなえられない教材を通して与えられます。
(本論) この学びは、初代教会の人々も危機の中で訓練されました。「こうして、諸教会はその信仰を強められ、日ごとに数をましていった」(使徒行伝16:5)。パウロの宣教活動は、破竹の勢いで前進します。しかし、神の招きの目的である異邦人伝道に着手させるため、聖霊はストップをかけます。マケドニアの叫びを彼に聞かせ、ヨーロッパ伝道の開拓を示唆します。「神が私たちをお招きになったのだと確信して」(使徒行伝16:10)、直ちに行動します。「確信して」、この言葉は、「思いを定めて」、「推し量って」と他の聖書では訳されています。神様は運命として私たちを導くのではなく、御言葉を通して愛の神への応答として、私たちを祝福へと導きます 。パウロは「直ちにマケドニアに渡って行った」。この行動は、彼の常に整えられた姿勢を示しています。
(結論) 彼がいかに従順に御旨を行うことを待ち構えていたかが伝わってきます。ヨーロッパへの宣教の扉は開かれます。ピリピ教会の誕生がそのあかしです。神は備えておられました。テアテラの女商人ルデアが主にとらえられて、パウロの働きの物心両面の援助者となりました。しかし、すべてが順調であったわけではありません。迫害が彼らを待ち構えていました。;パウロたちは強いキリスト者として、整えられ、育てられます。私たちも、この朝、素直に御心の中に生きる者として、信仰をもって聖別された自分を御前に捧げましょう。

2015年10月18日日曜日

礼拝メッセージ  2015年 10月 18日
説教題  「望みがある
聖  書  ヨハネによる福音書 第11章17〜26節
(序論) どんなに社会が変わろうと、自分を失わないで自分らしく生きたいものです。私を支えてくださる神様の御手を確かめましょう。確かに、現実はなまやさしいものではあいません。誰しも絶望の淵をさ迷い、苦悶する時があります。そのような時、ラザロの死を通してイエス・キリストのなされた御業を思い出すことで、信仰による望みの回復ができることを経験するでしょう。
(本論) 主の愛されたラザロが死んで4日もたっていたのです。誰もが「もう終わりです」と結論した時、イエスの愛の行為が実行されます。道が途絶え誰の助けも期待できない時こそ、イエス様の愛の力が発揮されます。このお方を信じて一生を委ねて生きているのが私たちです。神様はいつも具体的な生活の中で、望みなき時にも望みをもって立ち上がりなさい、と声をかけてくださいます。新聖歌257番「キリストは生きておられる」を歌い続けましょう。
(結論) パウロは、自分の苦悶の事実をコリント人への第二の手紙12章で語ります。外からくる迫害の数々、加えて日々迫ってくる諸教会の心配事、望みを失ってしまいそうな中で・・・「死人をよみがえらせて下さる神を頼みとするに至った」コリント人への第二の手紙1章9節)と赤裸々に語ります。死んで生きる。この逆説的な真理を、聖霊は私たちに理解させます。この不思議な知恵に感動して聴き入る時、キリスト者の望みある人生を確信させられます。

2015年10月15日木曜日

礼拝メッセージ  2015年 10月 11日
説教題  「赦しと和解
聖  書  ヤコブの手紙 第3章13〜18節
(序論) 心穏やかさを失う時、自分の心が誰かへの嫉妬であったり、敗北であったりします。私は今、神様の慈愛の中に生かされているのだ、と強く信じましょう「私は道であり、真理であり、命である」と言われるイエス様に従って、自信を持って生きましょう。神様は、私のすべてをご存知で、私を受け入れ、しっかり生きなさいと励まし続けられます。そこに赦しの愛があります。
(本論) 苦々しいねたみや党派心、たかぶりをを持つよりも、柔和な心で隣人を祝福しなさい、これがキリスト者の生活の基本です。神様はどんな人にも、愛される良き美点を与えて下さっています。教会の庭に植えられた金木犀が香っています。この花は小さく見栄えがしません。しかし、香ることで最大限の自己主張をしています。秋を感じさせる香りです。星野富弘さんの詩にこんな言葉があります。どくだみとの会話です。「お前を大切に摘んでゆく人がいた 臭いと言われ きらわれ者のおまえだけれど 道の隅で歩く人の足許を見上げ ひっそり生きていた いつかおまえを必要とする人が現れるのを待っているかのように おまえの花 白い十字架に似ていた 」(富弘)
(結論) 私たちには、一人ひとりに良き賜物が与えられています。その自分の良さに気づくと、それを用いて神様を喜ばせる行動を起こしたくなります。イエス様が十字架にかかって死なれたのは、私を神の子どもとして取り扱ってくださるためです。神様は、私たちが良い人になったら救うとは言われません。イエス様を信じて新しい道を歩き始めましょう。清く平和で寛容で温かみのある人柄を身につけさせてくださいます。神の一方的な和解の行為が私たちの内なるものを強くして、務めある人生を歩ませて下さいます。このことを信じましょう。

2015年10月4日日曜日

礼拝メッセージ  2015年 10月 4 日
説教題  「祝福に至る道
聖  書  使徒行伝 第7章 9〜16節
(序論) 神様は不思議な計画をもって私たちの生涯を導いておられます。そう信じる時、一つ一つの出来事の中に神様の御業が見えてきます。自分の願いが叶えられることのみが信仰による恵みではありません。隣人と一緒に生きていることを楽しむことができることが、神様に変えられた人の人生です。私たちは小さく弱いものですが、神様が共に勝利に向かって歩いて下さいます。
(本論) 聖書の登場人物は、波乱万丈の人生を生きた人々の生きざまを見せてくれます。ヨセフもまた、神様によって使命ある人生を生き抜きました。主に用いられた人々の信仰の根源は、「神様は、私を絶対に支持してくださる。」との信仰でした。ヨセフの一生は、冷たい運命の中に投げ込まれた自分ではなく、上なるお方を見上げることによって、神様が私の人生に責任を取ってくださる、という信仰でした。創世記39章2節の言葉は、ヨセフの存在すべてでした。「主がヨセフと共におられたので、彼は幸運な者となり、その主人エジプトびとの家におった。その主人は主が彼と共におられることと、主が彼の手のすることをすべて栄えさせられるのを見た。」
(結論) 神様は、私たちを用いて生きている神様を証しさせます。そこには自分のことばかりでなく隣人のことも考えなさいというイエス様の声が重ね合わさります。私たちも今、この声を聴きましょう。「あなたの神、主があなたとあなたの家とに賜ったずべての良い物をもって、レビびと及びあなたのなかにいる寄留の他国人とともに喜び楽しまなければならない。」(申命記26章11節)これが私たちの世と関わる恵みの分かち合いです。

2015年9月27日日曜日

礼拝メッセージ  2015年 9月 27日
説教題  「弱さを誇れる強さ
聖  書  ヘブル人への手紙 第4章14〜16節
(序論) 私のような者が、神様を礼拝するためにこの場にいることを不思議に思います。神様を信じることができたことも人生における不思議な経験でした。語りかける神が、あるがままの自分を気づかせて下さった時、自分の生きる務めを見出させて下さったのです。
(本論) 誰しもこれさえなければと思う弱さと言えるものを持っています。パウロも自分の弱さをとって下さいと祈りました。しかし、神様の答えは、「わたしの恵みはあなたに対して十分である。むしろ自分の弱さと一緒に生きなさい」(コリント人への第二の手紙12章7~10節)でした。弱さを与えられている自分でも、自分らしく生きることができる、という本当の強さを神様は与えて下さいます。その確かさは、イエス様は罪をほかにして、私たちと同じ試練を味わってくださったお方ゆえに、私たちに同情して、どんな時も時機を得た助け手となって下さるのだと聖書は語っているからです。イエス様は、大祭司の務めを果たして下さるお方です。このお方の手のぬ くもりの中で、強さを与えられ、この世で生きる者とされているのが私たちです。神様による強さを教えられましょう。(ヘブル人への手紙4章14節~16節)を味わってください)
(結論) アンデルセンの「みにくいあひるの子」を思い出してください。白鳥の子は、あひるの中ではみにくいものとしてのけ者にされ、差別された存在でした。しかし、このヒナは、輝く白鳥の子だったのです。自分に与えられた本当の価値を天下に示すまで、自分の時が来ることを忍耐強く待ったのです。キリスト者とは、世間にどう評価されようと、神様は最善をもって私たちを生かし、この世における私に務めを果たさせて下さると信じている存在なのです。自分の弱さを知りつつ、しなやかな強さをもっている。これが、信仰者です。

2015年9月21日月曜日

礼拝メッセージ  2015年 9月 20日
説教題  「隣人は誰か
聖  書  ルカによる福音書 第10章25〜28節
(序論) 神様が私たちに求められる一番の戒めは心をつくし、精神をつくし、力をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ。また、自分を愛するように、あなたの隣り人を愛せよ」ルカによる福音書10章27節)です。ここに神と人間同士の良い関係づくりの基礎があります。
(本論) 今日のテキストは良きサマリヤ人と言われる有名な話です。あるユダヤ人がエルサレムからエリコに下る夜道で強盗に襲われ、半殺しの目にあったのです。祭司、レビ人が通りかかります。傷ついた者は、彼らがきっと自分を助けてくれるに違いないと思ったでしょう。しかし、彼らは見て見ぬふりをし、向こう側を通り過ぎてしまったのです。失望し落胆します。その時、もう一人の人が近づいてきます。しかし、この人はサマリヤ人でした。日頃、差別と偏見の中で関わることのない人です。ユダヤ人にとってサマリヤ人は神の呪いの中に生きている者として軽蔑していた人です。しかし、このサマリヤ人は彼に近づき、出来得る最大の愛の行動をします。気 の毒に思うその気持ちが日頃の悪い関係を越えて、彼は具体的な支えの手を差し伸べます。この苦しみの中のユダヤ人に愛の行為を示したサマリヤ人こそ、不幸な人間関係を幸せな関係に取り戻させます。
(結論) イエス様は、「あなたも行ってサマリヤ人のごとく誰かの隣人であれ」と私たちに求めておられます。自分のことばかりでなく、他人の苦しみや痛みが感じ取れる優しさによって、愛の人に変わることができます。イエス様の十字架は、神が私たちの隣人になってくださった証明でもあります。「この人を見よ」という賛美歌を歌う時、イエス様に似ていくクリスチャンに変えられたいと願う祈りに導かれます。誰かが私の隣人になってくれたからこそ、今の自分があります。誰かの隣人にお互いならせていただきましょう。

2015年9月13日日曜日

礼拝メッセージ  2015年 9月 13日
説教題  「主が備えられる
聖  書  ヨシュア記 第1章1〜9節
(序論) イエス様が「私に従う者となれ。あなたの人生で起こるすべてを祝福に変える」と言われました。この言葉はどんな時にも私たちに望みがあることの保障です。考えてみれば、この世界も、自然も、人の人生も、色々な節目を通過しながら、美しく強くならせていただいたように思います。神様はピンチの後にチャンスを用意してくださった、と思える恵みを味わった今日までのお互いの歩みでした。
(本論) 偉大なモーセが死んだ時、人々は不安を覚えました。しかし、神はヨシュアを選び召してイスラエルのリーダーとしてお用いくださいました。この大きな負わされた十字架に対してヨシュアは神に訴えます:「モーセと共におられたように私と共に行動してください。どんな時も見放さず、見捨てず、目的を果たさせて下さい」。これがヨシュアの祈りであり、「神は常に先手を打って必要を満たして備えてくださる」とのヨシュアの信仰でした。人は、たくさんの思い煩いをします。その時、神の前に静まることを取り戻して、神の支えの中に生きる私、神の僕である私となりえるのかがキリスト者の「試験石」です。神様は小さい者、無学な者を御手の中で作 り変えて用いてくださいます。神と共に歩む人生が私たちに与えられているのです。この歩みを歩み通すことが、神様の最も喜ばれることだと信仰の先輩達は証ししています。
(結論) 私たちは、福音の運び手としてこの世に派遣され、暗い時代の中でも人々の先頭に立って輝いていることを求められている群れです。この先立つ者として人々に仕えることのできる者です。神は、ヨシュアに語ります:あなたの道は栄え、あなたは勝利を得るであろう」(ヨシュア記1章8節)。このお方が私たちの信じる神様です

2015年9月6日日曜日

礼拝メッセージ  2015年 9月 6日
説教題  「互いの居場所
聖  書  ルカによる福音書 第10章38〜42節
説  教  日常的な出来事の中に、大事な意味ある人生の真が隠されています。イエス様とマルタ、マリアの出会いの一場面 
 が今日のテキストです。
 姉のマルタは、接待の事で忙しく心を取り乱しています。その中で妹のマリアは主の足もとに座って、御言に聞き入っていたのです。イエス様はこの二人の間に入って判定を下しますマルタよ、マルタよ、あなたは多くのことに心をくばって思いわずらっている。しかし、無くてならないものは多くない。いや、一つだけである」ルカによる福音書10章41、42節)。
 わたしが語る言葉を聞いてほしいと求められているイエス様。ここに私たちの平安があり、居場所があるのです。神様は私たちがどうすることを望まれているのかを考え、それを自分の生活の規範にする営みが信仰生活です。インマヌエルの主と呼ばれる方のそばに自分の居場所があると信じられる者は、御手の中に自分を委ねきれる者です。「御言に聞き入っていた」、この場所を確保したマリアの行為こそ大切だとイエス様は認めておられます。
 御言を心に留め、イエス様との親しい関わり持つ人が人生の勝利者となります。聖書はこう約束しています:「世に勝つ者はだれか。イエスを神の子と信じる者ではないか」ヨハネの第一の手紙5章5節)。パウロも、「神がわたしたちの味方であるなら、誰がわたしたちに敵し得ようか(ローマ人への手紙8章31節)と、人生の勝利宣言をしています。生きる気力と活力は、主イエスの言葉によって回復されます。御言に聞き入っていたマリアの場所を、私たちも自分の居場所といたしましょう。
 

2015年8月30日日曜日

礼拝メッセージ  2015年 8月 30
奨励題  「キリストは生きておられる」 (岡田純爾兄による奨励)
聖  書  マルコによる福音書 第4章35〜41節
(序論) 私は、イエス・キリストを自分の救い主として信じ、従っていきたいと願いつつも、誘惑におちいったり苦難に遭遇して、自分の信仰生活に確信が持てなくなったり、他者と比較して傲慢になることも度々ある。表面的には「立派なクリスチャン」と装いながら、中身は「えせクリスチャン」の自分に愕然とする。どうすれば良いのか?
(本論) ガリラヤ湖上の弟子たちは、主が一緒にいてくださっているにもかかわらず、激しい突風により船が転覆しそうになった時、自分たちが溺れ死んでもかまわないのですか、と主に訴えた。私たちは、この世で多くの苦難や誘惑に襲われるが、聖書には、「主は愛する者を訓練し」(ヘブル人への手紙126)とある。私たちが試練に会う時、湖上の弟子たちの傍に、主が一緒にいてくださったように、今も主がそばにいて支え励ましていてくださることを忘れないでいたい。
(結論)  私たちが、地上での信仰生活をまっとうするためには、周囲の状況や人に目をやらず、主を見上げ、主が約束された御聖霊がいつも一緒にいてくださることを胸に刻み、み言葉祈りによって日々歩むしかない。「父は別に助け主を送って、いつまでもあなたがたと共におらせて下さるであろう。」(ヨハネ1416


2015年8月23日日曜日

礼拝メッセージ  2015年 8月 23日
説教題  「嵐の中をつき進む小舟
聖  書  マタイによる福音書 第8篇23〜28節
(序論) 教会堂の中に、嵐の中の風景を描いた渡辺禎雄氏の版画があります。ガリラヤ湖の突然の嵐の中で弟子たちの取り乱した表情に絶望が伝わってきます。その恐れと不安の中で、不思議にも平安が支配する一点があります。静かに眠っておられる主の姿です。この日の嵐はガリラヤ育ちのペテロでさえ異常を感じるほどでした。
(本論) 突如「突風が吹き下ろしてきて」自然の力の前に小舟は翻弄されます。しかし、イエスは眠っておられたのです。弟子たちは非難の気持ちを込めてイエスに叫びます。「先生、私たちがおぼれ死んでもおかまいにならないのですか」。主はこの非難を聞き流して、ご自分のやり方でこの事態を乗り切ります。「静まれ、黙れ」。すると風はやんでおおなぎになったのです。ピンチの中に平安です。聖書は、私たちの日常の中で、神は私たちのそばにおられて具体的に働いてくださることを意識させてくださいます。私は神に愛され、注目されている。絶望的な状況の中で、「大丈夫だ」と神の支えの御手を確信させてくださいます。
(結論) 風の中をつき進む小舟は私たちの人生です。この小舟に乗っている人々は、向こう岸へ行こうという目的と望みを共有した絆で結ばれた人々です。向こう岸へ着くのです。そう信じ合える共同体となっています。この小舟は教会と置き換えてもいいでしょう。足らざる者たちが、現実に満足せず、神様が用意されている私らしい人生を求めて、互いに励まし合って成長させていただくのです。

2015年8月16日日曜日

礼拝メッセージ  2015年 8月 16日
説教題  「先立つ神
聖  書  詩篇 第77篇 1〜5節
(序論) 真の神は語りかける神です。静かに私たちにご自身の御旨を聞かせてくださいます。迷いの中で決断させるお方です。歴史の中で生きて働かれる神です。私たちは、この神に従った人々の証しに教えられます。アブラハム、イサク、ヤコブの神は、エジプトで奴隷として生きていかなければならなかったイスラエルの人々の出エジプトを通して、試練の中に置かれようとも人間の尊厳を失うことなく生きる姿を見せてくれます。
(本論) イスラエルの人々が信じた神は、今も働いて私たちを救ってくださいます。このことをキリスト者は生きるより所としています。このお方がイスラエルの民の先頭を歩いてくださったように、人生の旅路のすべてにおいて先立つ神が臨在されることがキリスト者の望みの根源です。私たちの信じる神は、エジプトから救い出して聖別し神の民の群れを作られました。
 神は、私たちに人生の役目を与えて神様の栄光のために働くことを示されるお方です。神は信じる者の側に立って、「恐れないで行こう」と能動的な行動へと押し出してくださるお方です。イエス様も私たちに宣言してくださっています:「小さい群れよ、恐るな、あなた方の父は喜んで神の国をくださる」。
(結論) 一人ひとり自分の現実を勇気を持って、すべてを祝福として受け入れ、神と隣人から「人生のなんであるか」を学ばせていただきましょう。私たちに親しく語られる神の声を聴くために、静聴の時間を聖別し確保しましょう。絶望的な時こそ、神に向かって声をあげて慈愛の神に求めましょう。先立つ神は、立ち止まって耳を傾けてくださいます。このことを信じましょう。


2015年8月9日日曜日

礼拝メッセージ  2015年 8月 9日
説教題 「神の愛の気遣い
聖  書 マタイによる福音書 第6章25〜29節
説  教 8月が来ると平和について考え祈らされます。1945年8月6日は広島に、同9日に長崎に原爆が投下され、その無残な屍の前で人は沈黙しました。
 8月15日、日本はポツダム宣言を受け入れ、日本の敗戦によって先の大戦は終わりました。聖書は、過去を覚えることで神様の導きを学ばせます。真の平和は、イエス・キリストの御業の中に示されています。私たちにキリスト者の厳しさと幸せを山上の説教は今も語っています。
 「フランシスコの平和の祈り」を覚えましょう。
 「主よ、わたしを平和の道具とさせてください。わたしにもたらさせてください。憎しみのあるところに愛を、罪あるところに赦しを、争いのあるところに一致を、誤りのあるところに真理を、疑いのあるところに信仰を、絶望のあるところに希望を、闇のあるところに光を、悲しみのあるところに喜びを。ああ、主よ、わたしに求めさせてください。慰められることより慰めることを、理解されるよりも理解することを、愛されるよりも愛することを、人は自分を捨ててこそ、それを受け、自分を忘れてこそ、自分を見出し、赦してこそ、赦され、死んでこそ、永遠の命に復活するからです。」
 教会の夾竹桃が咲き、この花を見ていると、神が命あるものに望みを与えてくださることが信じられます。平和をつくり出す者に召され遣わされているお互いに、神の御旨がなりますように祈り続けてまいりましょう。平和への祈りをもって神への賛美といたしましょう。


2015年8月2日日曜日

礼拝メッセージ  2015年 8月 2日
説教題  「失望に終わらない
聖  書  コリント人への第二の手紙 第1章2〜7節
(序論) 個々の現実の中で、神様は私たちに愛をもって関わってくださる方であることを信じます。どんな状況の中でも御旨に委ねて主に似る者に育ってまいりましょう。聖書はどんな時も心穏やかに、世の灯台として輝く役目をまっとうしなさいと言っています。
(本論) コリント教会は、現代の私たちに通じるキリスト者の戦いを教えています。ある説教者は、「あなたがたは十字架の贖いによて聖なるものとされ、この世に派遣された使者の自覚を持ちなさい」と言っています。教会が聖別された人々によって建てられ、維持されることを神様は期待されます。人は誰も生きることに苦労します。しかし、苦労を試練としてその意味をわきまえることができるのが信仰者です。私たちは、「失望に終わらない」人生の道を励まし合って共に前進できます。信仰者は勝利に向かって、また勝利しつつ、望みをもって他者に微笑みかける余裕を持ちたいものです。なぜなら、「心のうちで死を覚悟し、自分自身を頼みとしないで、死人 をよみがえらせて下さる神を頼みとするに至った」(Ⅱコリント1:9)とのパウロの勧めを素直に受け入れることができるからです。

(結論) 私たちには他者を励ます慰めの言葉があります。死を乗り越えた主が共におられる臨在の確かさです。聖霊がその確信を与えてくださいます。ヨハネによる福音書第11章のマルタとマリア、ラザロに示されたイエス様の愛の物語は、私たちの日常の中で起こる悲しみと絶望を、喜びと感謝に帰る手本として読むことができます。信仰者の生活を支える力は、「失望に終わらない」ということを、しっかりと信じることによって与えられます。

2015年7月26日日曜日

礼拝メッセージ  2015年 7月26日
説教題  「小さきものに近づく勇気
聖  書  マタイによる福音書 第18章 1〜5節
(序論) 人は「誰が偉いか」を競います。主の弟子たちもそうでした。その時主は、幼な子を呼び寄せ、彼らのまん中に立たせて言われました。「よく聞きなさい。心をいれかえて幼な子のようにならなければ、天国に入ることはできないであろう。この幼な子のように自分を低くする者が、天国でいちばん偉いのである。」(マタイ18章:2-4)
(本論) 子どもとは育ちゆく途中の存在です。弱く未完の器です。誰かの助けを必要とする存在です。その中に私たちの目を開く教材が隠れています。私たちがいつか忘れている事、それは誰かに支えられながら今日ある自分とならせていただいたという謙遜な自己認識です。頼りない存在の自分が助けられ、人に仕える心を与えられている事、これを忘れるなと子どもを見て気づくのです。他者をキリストの名によって受け入れることをイエス様は大事な教訓とされています。出会いの不思議さの中で、希望と笑いのある人生を発見します。それはどんな人とも主の名によって出会わせていただいたという信仰です。どのような人との関わりであるにせよ、御名による必 然の出会いは、主と共にいつか共働者に育てられる関係かもしれませせん。
(結論) 日常生活の中で、他者に対して無関心という冷たい心の持ち主にならないように、主にあるぬくもりを持って助けを必要とする人々に近づいていきましょう。小さい者を無視しがちな自分に気づかせていただきながら、幼な子に近づくこの行為を通して、小さき者に近づく勇気を持たせていただきたいと思います。将来この教会を担ってくれる子どもたちとの出会いのために、心を合わせて主に仕えてまいりましょう。

2015年7月19日日曜日

礼拝メッセージ  2015年 7月19日
説教題  「神に用いられた人々
聖  書  詩篇   第51篇 14〜19節
(序論) 子どもが叫びます。「見て、見て、できたよ。」鉄棒の逆上がりができたのです。その子は、自分の存在を確かめているのです。自分を気遣ってくれる人と一緒に自分を確認したいのです。この姿は大人も同じです。どんな時でも神が私たちにも目をとめて、私たちの存在を認めてくださっています。人は罪人なる十分に気づき、くだかれた悔いた心を持って神を信じ受け入れる時、全き平安を与えられます。
(本論) そして、神に用いられることを願う者に変えられます。自らがキリスト者であるとの自覚が大切です。信仰の仲間と共に切磋琢磨して、自立した信仰者に育てられます。人の欠けにつまづくことなく、自分の課題を示されて、まわりをすべて教師として謙遜に聞く耳を持つことができます。自覚的な信仰を具体的な生活の場で証しすることを神は喜ばれます。その意味で、ダビデは信仰者の模範です。欠けの多い者であるにもかかわらず、神に助けてもらう以外に再起できない自分に追い詰められて、神との関係を維持します。
(結論) 彼は牧童でした。神は彼をサウロ王の次の王として召し、使命を与えます。ダビデは王としての権力を持った時、彼の弱さが拡大していきます。バデシバとの罪の結果、預言者ナタンを通して叱責されます。彼の素直さが、王座をけって神の前に平伏させます。神はこの姿を受け入れてくださいました。神は彼を用いてイスラエルを回復されました。神のなさることは不思議です。岡山の宣教も神の摂理の中で始められ、今も継続しています。山室軍平、石井十次、留岡幸助など神に用いられた人々、その他多くの人々がいます。

2015年7月12日日曜日

礼拝メッセージ  2015年 7月12日
説教題  「真夜中の賛美
聖  書  使徒行伝 第16章25〜34節
(序論) 使徒行伝はキリスト教がいかに世界に向かって伝えられていったかの記録です。この16章は、パウロの第二回伝道旅行によりピリピ教会が始まった時の記録です。青く輝くエーゲ海にうつる街並みでの宣教は、順風満帆の伝道ではありませんでした。しかし、神は地の果てまで伝える福音の種まきをキリスト者に実行させました。外には戦い、内には恐れがあったのです。それにもかかわらず神の御業は前進しました。
(本論) 神と出会い、人と出会い、それらをすべて用いて福音は伝えられていきました。パウロとシラスはルデヤと出会い、占いの霊に取りつかれた女奴隷とのかかわりの結果、囚人として収監されます。この牢獄の中で、神は不思議などんでん返しを見せてくださいました。真夜中ごろ、彼らが祈り賛美しているのを他の囚人たちも聞いていました。突然、大地震が起こり、戸がすべて開いたので、獄吏は囚人たちが逃げ出したと思い、自殺しようとします。パウロは大声をあげ、「自害してはいけない。われわれは皆ひとり残らずここにいる」と。
(結論) 今もなお、神の言葉が私たちをとらえる時、新しいことが始まると約束されます。神がこの世界を治めてくださることを信じています。主の仲間と共に世の人々を巻き込んで、御旨が成就すると信じ祈りましょう。パウロの宣教のエネルギーは、聖霊なる神に押し出されたものです。御言葉を具体的に生活する生き方にこだわりましょう。

2015年7月10日金曜日

礼拝メッセージ  2015年 7月 5日
説教者  日本ナザレン教団広島教会牧師 三浦功師
説教題  「祝福の祈り
聖  書  エペソ人への手紙 第3章14〜21節
説  教   祈りとは、心に思う人の幸いを願って神さまに捧げられるものです。決して不幸を願うものではありません。祈りは他者への祝福(ペレ)を祈り求めつつ、自らもその祝福の中に生きるよう心が整えられていく、神さまの御業です。ですから、私たちは私たちの心にお住まいくださる聖霊なる神さまのお導きの中で、祈ることを教えられ、祈ることによって信仰が深められ、あらゆる誘惑に勝利し、御旨を求めていく者とされていくのです。
 ここでパウロは、エペソで出会った信仰の友に向かって、祝福の祈りを捧げようとします。彼は至高の祝福を主キリストさまを中心に言い表します。人の幸いはイエス・キリストさまにあるとの彼の根源的な確信に基づいて、三位一体の神により内なる人を強めてくださり、主キリストさまの愛をよく理解し、それを基として生活することによって、すべて神さまに満たされるようにと祈るのです。
 私たちは、祈りによって私たちの小さな手では届かず、私たちの小さな力では支えることのできない状態にあるにもかかわらず、キリストの愛は、はるかに広く、はるかに高く、はるかに深く、誰の心にもあまねく届けられ、救いへと導かれていくことを信じるのです。信じて主なる神さまの祝福がありますようにと祈るのです。
 さあ、私たちも私たちの大切な人のためにその祝福を祈り、その方の救いを心から願っておられる主なる神さまの御手にお委ねしようではありませんか。主なる神さまは、私たちが求め、思うところの一切をはるかに超えてかなえてくださることができるお方です。

2015年7月1日水曜日

礼拝メッセージ  2015年 6月28日
説教題  「福音の配達人ー宣教への参加ー
聖  書  ヨハネによる福音書 第20章19〜23節
(序論) 「置かれた場所で咲きなさい」これはノートルダム清心学園の理事長渡辺和子先生の本の題名です。少しも力まず折々の先生の信仰からくる静かな人生を見つめなおすエッセイです。神様は時々私たちを迷わせ、自分で考える時を用意されます。そして、あるがままの自分を受け入れ、その中で私たちはなお、神と人に愛されていることを教えられるのです。
(本論) 視点を変える勇気は、イエス・キリストが用意されたそれぞれの人生をお互いに受け入れる時に与えられます。福音を聴き、イエス・キリストに出会ったという経験をさせられます。教会は昔も今も「イエス様にお会いしてみませんか」というメッセージを語り続けてきました。それは、神様を信じて生かされている自分が、幸せの御手の中に握りしめられている感謝と溢れ出る喜びを持たされているからです。この世に対する務めが与えられて自分を見つけ出します。共に生きることの大切さを気づかされます。誰かのために感謝を持って働ける動機づけを聖書の神は与えてくださいます。それ故、今置かれた場所でイエス様の証し人にならせていただくのです 。
(結論) 私たちのまわりの人々にイエス様を紹介するという神様の働きに参加できることを喜び、「イエス様にお会いしてみませんか」と語り続けましょう。「新しい希望に満ちた人生を共に生きましょう」と、イエス様の招きの言葉を郵便配達人のように勇気を出して福音を届けましょう。これが伝道であり、宣教への参加となります。恐れるな。語り続けよ、黙っているな。あなたがたには、わたしがついている。この町にはわたしの民が大ぜいいる。」使徒行伝18章9,10節)神様は、この約束の成就を体験しなさいと私たちを引き出されます。

2015年6月14日日曜日

礼拝メッセージ  2015年 6月14日
説教題   「御国をめざす旅人
聖 書  ヘブル人への手紙 第11章13〜16節
(序論) 毎年教会では、この時期召天者記念礼拝を守ってきました。先に御国に凱旋された兄弟姉妹のことを覚えて偲ぶ時です。これらの方々の懐かしい思い出がよみがえってきます。異なった人生を歩みつつ、不思議な神様の導きによって出会い、神の栄光のために共に労することができたことは本当に幸いでした。神様の前に覚え合うことが召天者記念の意義です。
(本論) 聖書が示す御国への道を旅人として、信仰をもって歩み続ける私たちです。多くの困難を通り抜けるために、兄弟姉妹の愛の関わりによって今日があるのです。信仰の友が成熟した信仰者になりたいという望みを持たせて下さいました。どんな時でも神様が私たちと共に居られます。平凡な生活の中で、困難の真中で、詩篇90篇を朗読して信仰告白ができます。「われらのよわいは70年にすぎません。あるいは健やかであっても80年でしょう。しかし、その一生はただ、ほねおりと悩みであって、その過ぎゆくことは速く、われらは飛び去るのです」(10節)。「われらにおのが日を数えることを教えて、知恵の心を得させてください」(12節)。
(本論) キリスト者は真に死と向き合いながら、「しっかり生きなさい」との神様の声を聴かされます。死がすべての終わりではなく、イエス様の十字架によって与えられた新しい命に生きる日々を、自分の人生とさせていただきましょう。人の幸せのために生き抜かれた信仰の先輩に感謝しましょう。あの時、あの方の一言によって自分の曲がり角を間違いなく決めさせてもらった、そんな言葉を思い出しませんか?やがて私たちにも終わりがあります。御国への道を共に励まし合って完走させていただきましょう。

2015年6月12日金曜日

拝メッセージ  2015年 6月 7日
説教題   「豊かに用いられるたまもの
聖 書  伝道の書 第3章10〜15節
(序論) 神様は私たちに、「生きることを楽しみなさい」と言っておられます。生きることは苦労の多いしんどいことでもあります。しかし、神様は苦労と思える中を通り抜けると、もう一つの現実が用意されていると言われます。それは、生きることの喜びと幸せを味わえるものです。聖書には「神のなさることは皆その時にかなって美しい」(伝道の書3:11)と書かれています。
(本論) ですから、「そのすべての労苦によって楽しみを得ることは神の賜物である」(伝道の書3:13)。ここに生かされている自分であることの理由があります。人を祝福し、自分を励まし、神を賛美しながら愉快に生きる人間の姿が、私たちの幸いの姿です。自分の良さを互いのために役立てて、イエス・キリストによって神が崇められるように祈り願う者とされる時、私たちは新しい光の中を歩みだすのです。神様を中心に人々と出会う時、愛をもって一生懸命に互いに生きることを学ばせられます。すべてのことに感謝のできる者にならせていただくのです。神様はいつも良き結果に向かって導いてくださると信じることが、クリスチャンの人生です。「人は皆互いに支え 合う者」と、聖書はこのことを、私たちは肢体として結び合わされている、と表現しています。神様は私を必要として信仰の世界に導いてくださり、豊かに用いて神の栄光を表わす者に育ててくださると信じましょう。
(本論) こう信じる時、どんな時も厳しい現実の中で神様により頼む信仰の勇者になれます。神様はどんな境遇の中でも、私たちと共にいてくださいます。今は恵みの時です。神様はどんな中に置かれている時も、私に一番良いことをしてくださるのです。だから立ち上がって自分を献げ、御手に委ねて、豊かに用いてくださる神を信じていきましょう。



 
(結論) 

2015年5月24日日曜日

礼拝メッセージ  2015年 5月 24日
説教題   「彼らは座っていた。そして立ち上がった
聖 書  使徒行伝 第1章6〜11節
(序論) 今朝はペンテコステ礼拝です。キリストの教会が生まれた日です。教会はこの日を大切な記念の日としています。イエス・キリストの働きは十字架で終わったのではありません。復活された主は約束を残しています:「ただ聖霊があなたがたにくだる時、あなたがたは力を受けて・・・地のはてまでわたしの証人となるであろう」使徒行伝1:8)。この約束が成就されました。キリスト者が新しい使命に向かって立ち上がったのです。
(本論) イエスの十字架は終わりでなく新しい行動の出発でした。彼らは一致しました。「イエスの兄弟たちと共に心を合わせてひたすら祈りをして」上からの力を待ち望みました。彼らは集まって祈りを共にして、神の指示を座して待ったのです。祈りによって私たちは神のなさることを待つことができます。キリスト者は常に二つの戦いを味わっています。自分と戦うことと、世という場で自分を見失わない戦いです。しかし、私たちは祈り、御言葉をもって立ち上がる時、主の証人の務めが果たせるのです。望みを失った時、自分を必要としている人に自分を献げる時、神様の助けによって、新しい生きがいを見つけるでしょう。 
(結論) 信仰を持つということは、広い世界に向かって羽ばたいていくことです。いつも恵の神に見守られて、教会という祈りのある人間関係の中で生かされていることで、感謝できる者に変えられていきましょう。神は人の弱さを超えて、神の恵みで生かしてくださいます。「御霊もまた同じように弱い私たちを助けてくださる」(ローマ人への手紙8章26節)。この確かさを信じて一隅を照らすキリスト者を、神は求めておられます。

2015年5月17日日曜日

礼拝メッセージ  2015年 5月 17日
説教題   「出会いの不思議
聖 書  ヨハネによる福音書 第1章43〜48節
(序論) 小さな偶然に思える出会いが、自分の生き方を決定づけることがあります。私たちもかつて何か確かなものを求め出した時、キリストに会うための備えが自分の中に、そして周りでも用意されていたように思えることがあったのではないでしょうか。聖書は、小さな出会いを通して自分が変えられて、幸せをつかんだ人間模様に彩られています。
(本論) 「人生の海の嵐に、もまれ来しこの身も、不思議なる神の手により、命拾いしぬ」新聖歌248番は、クリスチャンの感慨深い自分の姿です。良き出会いとは、「神様がこの人と出会わせて下さった。だからこの人と出会った関係を大切にしていこう」と心に決める一瞬から始まるものです。それは運命的ですし、むしろ聖書は摂理の中で生かされているのが人間だと言っています。
 ギデオンの働きの出発は、次のようなエピソードであったと聞いています。1898年の秋、ジョン・H・ニコルソンという青年がアメリカを旅行中、ホテルが満室で偶然サムエル・E・ヒルと同室せざるを得なかったことが、ギデオンの働きの不思議なきっかけでした。聖書の頒布活動が始まった後で、ウイリアム・J・ナイツが加わり、世界的な広がりとなり今日に至っています。
(結論) キリスト教会もいつも初めは小さい者が選ばれてイエス様の働きに加わりました。「出会った」のです。新しい変化が自分の心の中で起こったのです。それは単なる知り合いではなく、神様を中心として主の言葉に応答しなければ気持ちがおさまらない不思議な自己決定へと導かれて始まる、人と神様との関係の新しい認識です。そして、信頼し合う関係は、このご縁を大事にしようという気持ちへと、祈りの中で育てられていくのです。