2020年8月23日日曜日

礼拝メッセージ  2020年8月23日
説教題 「あなたを見捨てない」
  書  申命記 31章 6節
(序論)今日の箇所は、モーセが120歳の高齢になり、約束の地カナンを望み見ながら、イスラエルの民に語った、モーセの遺言でもあります。モーセは、自分はヨルダンを渡り、約束の地カナンに入ることは出来ないが、主ご自身が先立たれるから「強く雄々しくあれ」と励まし、ヨシュアが民を導くと、主が告げられたことを民に語りました。
(本論)モーセは、自分が老齢に達し、しかも主から、あなたはカナンの地には入れないと、言われたことを覚えていました。残念だったでしょうが、しかし、モーセは自分のことよりも、イスラエルの民のことに、心を配りました。そしてイスラエルに、主ご自身が、彼らに先立ってヨルダンを渡り、彼らに約束の地を与えられるから、強く雄々しくあれ、と励ましました。実際に彼らを導く指導者として、ヨシュアが立てられることを伝えました。
しかし、本当に彼らを導かれるのは、主ご自身であることを、繰り返し強調しました。 6節に、「あなた方は強く、かつ勇ましくしなければならない。彼らを恐れ、おののいてはならない。あなたの神、主があなたと共に行かれるからである。」と激励しました。カナンの地は、決して手をこまねいてイスラエルを待っている所ではなく、カナンの地は、戦い取るべき地です。しかし、たとえそこに、どのような強敵がいようとも、あるいは、いかなる困難が待ち受けていようとも、イスラエルは、それらを恐れてはならない。なぜなら、彼らが恐れるということは、神様が彼らと共におられることを、否定することであるからです。
(結論今日のみ言葉は、天国を目指して、この地上の生涯を生きる私たちへの、励ましであり、約束であり、命令でもあります。み言葉を心に、しっかりと刻み付けることによってこそ、主なる神様が、共にいて下さる恵みが分かり、それによって強く雄々しく生きることが出来ます。「強く、また雄々しく」あることは、自分の力で、頑張って生きることではなく、主なる神様の、み言葉を聞き続けることによって、神様から、力づけと励ましと導きを、常に新たに与えられながら、歩むことによって、可能となります。ハレルヤ!

2020年8月16日日曜日

礼拝メッセージ  2020年8月16日
説教題 「勝ち得て余りあり」
  書  ローマ人への手紙 第8章 31~39節
(序論)パウロは、今日の箇所で、「父なる神は、ご自分の御子さえも、惜しむことなく、死に渡された方は、御子と共に全てのものを、私たちに恵んで下さる。神様に選ばれ、義と認められた者たちを、罪あるとする者はおらず、イエス様が父なる神の右の座で、私たちのとりなしを、して下さるので、私たちをキリストの愛から引き離すものはない」と語ります。
(本論)1)神様が私たちの味方  「神はわたしたちの味方である」そうパウロは、声高く宣言をしています。「もし神が、わたしたちの味方であるならば、だれがわたしたちに敵対できますか」<もし>と、「もし」と仮定したような言葉になっていますが、パウロがここで言っているのは、「神はわたしたちの味方であるのだから、だれも私たちに敵対できない」ということです。
神は、アダムとエバ以来、神に逆らい、罪を繰り返して来ていた人間の味方になられました。もともとは、神の敵であった、といえる人間を、今や、守り、支えてくださるのです。
 
2)勝ち得て余りあり   苦難に打ち勝つことは、やさしいことではありません。
パウロは、イエス・キリストを宣べ伝える中で、「苦難、苦悩、迫害、飢え、裸、危険、剣」など、多くの苦しみを経験しました。パウロは、ほかの手紙の中で、その経験を「牢に入れられ」「むち打たれ」「死に直面し」「飢え渇き」と伝えています。  
 そんなパウロが、「勝ち得て余りがある」、「圧倒的な勝利者」(新改訳)だと言っています。この言葉のギリシャ語は「ヒュペルニコーメン」で、「最も栄光に満ちて勝つ」という意味が含まれています。パウロがそのように確信できたのは、「主キリスト・イエスにある神さまの愛」(39節)を深く知っていたからです。私たちも、この神さまの愛を知るとき、どんな状況でも圧倒的な勝利者となるのです。
(結論御子イエス様を、惜しまずに与えて下さった父なる神さまが、私を愛して下さるため、誰も、どんな人でも、どんな状況でも恐れません。目の前の現実に、希望が見えなくても、決して引き離すことの出来ない、神様の真実な愛を、いつも経験しながら、大胆に勝利できますように祈ります。

2020年8月9日日曜日

礼拝メッセージ  2020年8月9日
説教題 「恵みとあわれみの冠」
  書  詩篇 第103篇 2~5節
(序論)この詩篇は、昔から詩篇の中でも最も美しい詩の一つとされてきた詩で、新聖歌9番、21番、交読文32などによって、親しみのある詩です。全体が賛美で包まれた美しい詩です。詩人は、主をほめたたえよと叫び、自分の魂に向かって主はあなたに良くして下さった、咎を赦し病をいやし、良いもので満たされる、と語りかけ、人々を賛美に招きつつ、「主が良くして下さったことを何一つ忘れるな」と、自分の魂と、第三者に語っています。
 
(本論)2節「わがたましいよ。主をほめよ。そのすべての恵みを心をとめよ。」ダビデは自分のうちにある魂に向かって「主を誉めたたえよ」と言っています。そして、続けて自分のうちにあるすべてのものに向かって「聖なる御名をほめたたえよ」と呼びかけています。私達のうちにあるすべてのものとは何でしょうか。人は霊あるいは魂と精神と体によって構成されている存在だと言われています。ですからダビデは私達に霊と精神と体によって主をほめたたえるように呼びかけています。
第一に、私達のすべての咎を赦してくださいました。ダビデはほかのすべての恵みよりもまず罪の赦しの恵みを歌っています。それはどんな恵みよりも罪の赦しが一番大きな恵みだからです。ダビデは忠臣ウリヤを殺し、ウリヤの妻バテ・シェバを自分の妻とする罪を犯しました。彼はその罪を隠そうとしました。しかし、彼が罪を隠し持っていた時に、その罪は彼の内側にあって大きな苦しみとなりました。彼はその時の苦しみを次のように告白しました。「私は黙っていた時には、一日中、うめいて、私の骨々は疲れ果てました。それは、御手が昼も夜も私の上に重くのしかかり、私の骨髄は夏のひでりでかわききったからです。」(詩32:3、4)。
第二に、私達のすべての病をいやしてくださいました。人々は数え切れないほど多くの病をわずらっています。それで病院にはいつも患者で溢れています。癌、糖尿病、鼻炎、便秘、胃病、喘息、など数多くの病があります。また、精神的な病気もあります。不眠症、自閉症、対人恐怖症、鬱などの病です。これよりもさらに恐ろしい病気があります。それはたましいの病です。人生の無意味と虚無、罪意識と恐れ、孤独と絶望の病は人間の努力によって解決できるものではありません。
 
(結論)この詩人ダビデは、主の恵みを一つ一つ数え上げています。主が良くして下さるお方であることを確認し、主をほめたたえるべきなのです。詩人は、咎の赦し、病の癒し、死からの贖いという回復の恵み、恵みとあわれみのとの冠をかぶらせ(新改訳)一生良いもので満たし、鷲のように若返らせられると、祝福の恵みを挙げています。一つ一つアーメンです。11節、天が地より高いように、主を恐れる者へのいつくしみの大きさを教えます。これらの事実を、自分自身に認めさせ日ごとに、朝ごとに賛美する者でありたいものです。

2020年8月2日日曜日

礼拝メッセージ  2020年8月2日
説教題 「喜び・祈り・感謝」
  書  テサロニケ人への第一の手紙 5章16~22節
 
(序論)テサロニケの教会の人々への手紙の中でパウロはキリスト者としてどのように生きるべきであるかを説いています。
 
(本論)16節~18節、「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって、神があなたがたに求めておられることである。」
 パウロはこのように書き綴っています。私たちが人生を生きる中で、嬉しいことばかりが続くものではありません。しかしパウロは、いつも喜んでいなさいと言っています。そして絶えず祈りを欠かさず、すべてのことに感謝しなさいと教えています。
この通りに生きるというのは、本当に難しいことです。パウロ自身の人生を考えてみても、その困難と苦難の日々を考えてみると、とてもいつも喜び、すべてのことに感謝することなど、不可能と言わざるを得ません。(パウロの生涯については使徒行伝に詳しく書かれています)
それでもパウロは、いつも喜び、すべてのことに感謝しなさい、と言います。
私はこの聖句を読む時、「絶えず祈りなさい」という聖句がとても重要なのではないかと思えてなりません。いつも喜び、すべてのことに感謝するためには、祈りが欠かせないのだ、と思います。喜びはどこから来るのか。感謝は何から湧き出てくるのか。
本当の喜びと感謝は、ただ、「救われた」ことから来るのではないでしょうか。
パウロは、もともとイエス様を異端(今でいうカルト)だと考えていました。そして、イエス様の弟子たちを殺そうとまでしていました。そのパウロが、イエス様がキリストである、ということを悟りました。キリストを異端視し、その弟子たちを殺そうとした自分までも、イエス様は赦し、救ってくださった。ここにパウロの原点があるのです。
 
(結論)死ぬはず、のところから救われたなら、どんなに苦しいことがあっても、人は喜び感謝できます。パウロは、絶えず祈ることで、自分の救いを確信し、喜びと感謝に溢れていたのではないでしょうか。祈りは、私達に知恵を与え、力を与え真実を与えてくれます。