2014年3月30日日曜日

礼拝メッセージ2014年3月30日

説教題   「尽きざる神の慈しみ」

聖 書   ホセア書 第13章4〜8節

(序論)聖書の伝道の書7章14節に、「順境の日には楽しめ。逆境の日には考えよ」とあります。調子よく行く時も、いかない時も、いかなる時も神はその中を通らせつつ、人について、神について、考えさせるのです。

(本論) 神様は私たちに言われます、「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい」(テサロニケ人への第一の手紙5章16〜18節)これが神様が私たちに求めている幸いな状態だと言われます。
 イエス様に「愚かな者よ」と言われた金持ちがいました(ルカによる福音書12章13〜21節)。彼は豊かであったけれど他人と共に生きていることを喜べませんでした。謙遜であることができませんでした。いつ死ぬかも知れぬはかなさ を考えませんでした。主は人はみな寄り添うて生きる、弱いけれど神様によって生かされている、このことを知れ、と教えられます。人はみな共同体の中で肢体の関係で生かされているのです。
 「わたしはエジプトの国を出てからこのかた、あなたの神、主である。あなたはわたしのほかに神を知らない。わたしのほかに救う者はない」(ホセア書13章4節)この原点は神様に愛されている信仰者の心すべきことです。


(結論) 神の慈しみは絶えることがない。このことを知る時、心から喜びがわいてまいります。教会の中に新しい風が起こることを信じて共に集いましょう。内なるものを強くされて新しい年度の出発に希望をもって踏み出してまいりましょう。恵みの手ほどの雲が見えております。今日 まで支え給うた神が、私たちを祝福して御名をほめたたえさせて下さいます。神の恵みは日常の出来事を通して分からせて頂けます。

2014年3月16日日曜日

礼拝メッセージ2014年 3月16日

説教題   「献げる祝福」

聖 書   ローマ人への手紙 第12章1~5節

 教会では各種の集まりがありますが、中でも礼拝はクリスチャン生活の生命線です。日曜日を特別な日として聖別し、教会に集まり礼拝をささげます。この日は「週の初めの日」としてキリストの十字架と復活を記念して共に集まります。私たちは「教会に帰り」、天地の創造者なる神を賛美し、祈り、聖書から語られる説教を聴いて、自分を回復して再び充分の置かれた所に派遣されて行くのです。
 礼拝の形式、流れは各教会によって異なりますが、一般的には次のような内容で構成されています。
・賛美ー神をほめたたえ感謝をささげます。どんな一週間であっても神は私たちをオーバーホールして良き結果に導くお方であることを信じ神を賛美します。
・祈りー神を求め、神を信じて立ち上がれる自分を発見します。
・主の祈りー主が教えてくださった主の祈りを唱和し、神の前に共同体の意識を高揚させられ、赦しの中の平安を確信します。
・聖書朗読ー神様が私たち一人ひとりに語りかけてくださいます。
・説教ー自分の足りないことと神の贈り物に目覚めていない点を発見させられます。もっと何か出来る自分と向き合わされます。メッセージを通して、聖霊の助けにより、自分の生活に御言葉を適用することによって、主の御旨にそうために自分が変えられ、主と共に働けるというキリスト者の喜びをもたせていただきます。

・献金ーこれは会費やおさい銭ではありません。地上の生を与えてくださる神様への感謝として献げるものです。聖書はその献げ物の基準を、受けた恵みの十分の一と示しています。(マラキ書310節)神様の働きの前進のために、また他者への良き奉仕のために用いられるものです。

2014年3月9日日曜日

礼拝メッセージ2014年3月9日

説教題   「落胆しない」

聖 書   コリント人への第二の手紙 第4章16~18節

(序論)人は時々自分の不幸を嘆きます。「私はこんな星のもとに生まれたのだからあきらめよう」と言って、自分の殻の中に閉じこもって暗い一生を送る人もおりましょう。しかし、人が自分に負わされた十字架をになって行く時、その経過がどんなに悲しくとも、神様は、その終わりにその人らしい花を咲かせ実をつけてくださるでしょう。私たちに苦労の報いを見せて下さいます。

(本論) どんな時も神様は試練を通してでも信仰に磨きをかけ、希望を与えてくださいます。ペテロは自分の経験から、「今しばらくの間は、様々な試練で悩まねばならないかも知れないが」(ペテロⅡ,16)、パウロは「このしばらくの軽い艱難は働いて、永遠の重い栄光を、あふれるばかりにわたしたちに得させるからである」(コリントⅡ,417)と言いました。試練には終わりがあるという約束です。キリストに従うことに迷いと不信を感じたら、この道を従いぬいた人々の輝いた人生を見て元気と気力を与えられたいものです。

 
(結論) 今月のクリスチャン新聞の福音版に、レーナ・マリアさんの証が載っています。1968年スウェーデン生まれで、出生の時から両腕がなく、左脚は右脚の半分しかありませんでした。3歳で水泳を始め、5歳で浮くようになり、6歳では背泳ができるようになったそうです。1988年ソウルでのパラリンピックに出場した頑張り屋さんです。このハンディを負いながら明るく積極的に生きています。昨年9月、福島県郡山市のコンサートでこう語っています:

「一人ひとりの価値というものは、神様が作って下さったもの、私の使命は一人ひとりがどんなに大切な存在であるかを伝えることです」

2014年3月2日日曜日

礼拝メッセージ2014年3月2日

説教題   「イエス様に似ていく」

聖 書   ヨハネ第一の手紙 第2章28~3章3節

(序論) 野心家の青年と老人が語り合っています。
 青年:勉強して世の中を要領よく渡り合って金持ちになります。
 老人:それで?
 青年:家庭を作って幸せに生きます。
 老人:それから?
 青年:それから僕も老人となり引退し、でも人の世話にならないよ。
 老人:それから?
 青年:それから僕も死ぬだろう。
 老人:それで?
 青年は窮しました。しかし、この窮した様は私たちも同じです。そして、この沈黙から、「本当に生きるとは何か?」との問いへの答えを出さねばならないのでしょう。

(本論) イエス様は私たちに、私の足跡を探しながら従いなさい、そうすれば生きる意味を見つけ出すことができる、と言われます。私に似るものでありなさいと。
 「マラナ・タ(われらの主よ、きたりませ)」(コリント人への第一の手紙1622)聖書の再臨の信仰、イエス様と再びお会いする準備のために地上での生活がある、これによって色々な出来事を通過しながら、人の信仰がさえていくのです。キリストに会う、というこの望みにより、私たちは試練を乗り越え誘惑に勝利していきます。神様は人生の目標を示してくださいます。誰かのために生きる幸せです。神様は互いに支え合う肢体として、良き共同体となるために隣人に誠実に向き合うようにと導かれます。神様は人に、「私は孤独ではない。愛されている」ということを自覚させ、良き隣人との間に信頼を生み育てさせてくださいます。 


(結論) 主に似るものなるために、互いに響き合うために、聖書に親しみ、神を知り自分を知るために、祈りを通して神様の声を聞き、それに従う時、自分を変えるために大胆に行動することができます。イエス様に似る姿に変えられる時、望みの実現が見えてきます。