2018年11月25日日曜日

礼拝メッセージ  2018年 11月 25日 
説教題  「偶然と神の必然」 
聖  書  歴代誌下 第18章28〜34節
(序論) この箇所には、南ユダのヨシャパテ王が、北イスラエルのアハブ王と縁を結んだ結果、したくもない戦いラモテ・ギレアデ奪回作戦に加わることになったこと、400人のアハブ王の預言者たちが勝利の預言をしたが、真の預言者ミカヤは、アハブ王の死を預言したこと、戦いで南ユダのヨシャパテ王は窮地に陥った時、主の助けを求めると、主が助け救い出してくださり、北イスラエルのアハブ王は、流れ矢に当たって死んだことが記されています。
 
(本論) 1. 叫び求めたヨシャパテ王  アハブ王は、ヨシャパテ王に王服を着せ、自分は変装して戦場に出ました。 これはミカヤの預言に警戒心をもったアハブ王が一兵卒の姿となり、ヨシャパテ王に王服を着せて戦いにのぞみます。ヨシャパテ王はこの計画にも逆らえないあわれな姿をみます。案の定、敵の攻撃の的になり、アラムの戦車隊長は、ヨシャパテ王をイスラエルのアハブ王と思って総攻撃を仕掛けます。 この時、死の脅威を受けたヨシャパテ王は、乱戦のさ中でも、アハブ王の醜い策略のもとでも、主はヨシャパテ王が助けを求めると、救い出してくださいました。「救いを求めた」に該当するヘブル語は、「救いを求める切なる叫び」を意味します。神様はその状況に介入され、敵軍の指揮官が彼から離れるようにされヨシャパテ王は、死の淵から辛うじて救われました。 私たちも、自分の誤った選択のため、とんでもない状況に陥っても失望してはならないことを教えられます。 その状況で、主の言葉を求め、主の助けを叫び求める者に、主は答えてくださることを、聖書は教えます。
 2. 偶然の中に込められた神様の必然  人間の浅はかな考えで神様の御心を妨げることは出来ません。一兵卒の姿のアハブ王なのに、一人の兵士が「何げなく」放った矢がアハブ王の胸当ての継ぎ目に正確に刺さったのでした。 矢を射た兵士やアハブ王の立場からすれば、偶然のように思えますが、神様から見れば必然です。負傷したアハブ王は、敵陣から抜け出すことが出来ず、日没の頃になって神の人ミカヤの預言どおり死にました。アハブの死は、妻イゼベルにそそのかされて行った偶像礼拝と悪に染まった罪に対する神様の裁きでした。(列上2125)。 神様には偶然はなく、完全な主権と知恵をもって万物を治めておられます。私たちは、偶然の中に込められた神様の必然を見る目をもって、神様を畏れ敬いたいものです。
 
(結論) アハブ王は、策略を立て身分を隠し変装したにもかかわらず、アラムの兵士が「何げなく」放った弓がアハブに命中して戦死しました。偶然のように見えることも、すべて神様の御心の中にあります。神様の摂理は、人間の薄っぺらい策略によって損なわれることはありません。

2018年11月19日月曜日

礼拝メッセージ  2018年 11月 18日 
説教題  「遠大なスケールの神」 
聖  書  創世記 第21章1〜7節
(序論) 主がアブラハムに「あなたを大いなる国民とする」「あなたの子孫に、この地を与える」と言われたのは、75歳の時でした。(創世12章) 主のお約束は25年後に成就し始めたのです。そのお約束の一応の実現は、この章から400年後のイスラエルのカナン入国の時であり、その完全な実現は、主キリストの再臨の時です。これが主のお約束というものです。

(本論) 1. 主は真実なお方 約束を成就されるお方  主はサラから生まれ出る子によってアブラハムを祝福する、と約束されていました。その約束どおり、アブラハムとサラにイサクを与えられました。アブラハム100歳、サラ90歳の時でした。人間の常識には不可能と思われても、主は真実なお方です。必ずそのお約束を成就してくださいます。神様の約束は、私たちの状況に基づいて語られるものではありません。神様の全能に基づいて語られるものです。その神様を信じ、その神様の約束をただひたすらに待ち望んで、み言葉に生きるところに、私たちの信仰生活があります。
「主にとって不可能なことがありましょうか」(創18:14)
 2. 主は悩み苦しむ声を聞いてくださるお方  9節~18節で、アブラハムとエジプトの女奴隷との子イシマエルの叫びを聞かれたことを見ます。 イシマエルは、イサクより自分が年上だし、同じアブラハムの子だというので、なれなれしさがあったのでしょう。それには女主人サラを見下げていた女奴隷であった母ハガルの姿勢が影響していたのでしょう。(創16:4) 人間的な馴れ合いから、神様の秩序を軽んじやすい性質は私たちにもあります。それゆえに、跡取りのイサクの尊厳を守るために、ハガルとイシマエルは追われ、荒野でさまよい水が尽き、野たれ死にしそうになりました。その時主は、ハガルとイシマエルが泣いている声を聞いて、井戸を与え「わたしは、あの子を大いなる国民とする」と約束してくださいました。 主は悩み苦しむ声を聞いてくださるお方です。女主人サラと跡取りイサクを見下げ嘲り笑っていたハガルとイシマエルに対してさえも。
 
(結論) 主がアブラハムに「あなたを大いなる国民とする」「あなたの子孫に、この地を与える」と言われて25年目にイサク誕生、400年後にカナン入国、神様は遠大なスケールを持って計画されています。見える可能性でなく、神様のみ言葉を信じ約束を霊の目で見て霊の耳を傾け、望みに生かされていきましょう。

2018年11月11日日曜日

礼拝メッセージ  2018年 11月 11日 
説教題  「絶望の中で希望」 
聖  書  創世記 第39章17〜23節
序論) ヨセフ物語は、感動的な短編小説のようです。兄たちによって売り飛ばされたヨセフは、エジプトでパロ王の侍従長に買われ彼の奴隷となりました。しかし、主が共におられ彼のすることすべて成功させられたので、主人は、彼に全財産を任せました。ところが、主人の妻が彼を誘惑しました。彼は誘惑を退けましたが、怒った妻は、逆にヨセフが自分を襲ったといい、怒った主人はヨセフを王の監獄に入れました。
 
(本論)1.助け主なる神  神様は危機の時に、最も大きな助けを与え、避け所の岩となってくださいます。 兄弟たちに憎まれ、奴隷商人に売られ、見ず知らずのエジプトに来て、やっと芽が出たと思ったとたん投獄とは、まったくヨセフは気の毒な人に思えます。しかし、この章を読んでいくと、「主がヨセフと共におられたので」という言葉がたびたび出てくるのに気づきます。この物語の筆者は、この悲劇の出来事を通してこの言葉を強調しているようです。ヨセフは、この不条理な出来事の中でも、誠実な生き方をしています。私は、このヨセフの姿が大好きです。また、ことあるごとに、生きる手本にしていこうと心がけています。「主が共におられる」ということは、ヨセフ「神様と共にいた」ということであり、「神様を畏れて生きた」ということではないでしょうか。そのような者に、神は助けを与え避け所となってくださいます。(詩篇46.1
2.苦難の目的  ヨセフは、ぬれぎぬを着せられ、牢獄の中に投げ入れられます。何度もそんなことの繰り返しで、神様はどこに行ってしまわれたのかと、腹の底に憎しみを持ってもよさそうな内容です。ヨセフはその状況の中でも、神を畏れ、誠実に歩みました。最後はどうなったでしょうか。彼はエジプトの総理大臣になりました。自分を奴隷商人に売った兄たちが頭を下げて「どうぞ、穀物や食べ物を譲ってください」とお願いしに来た時、ヨセフは感極まって泣き、「あなた達が私をエジプトに売ったのは、神様の御業なんです。家族を国民を救うために神様が派遣されたのです」と兄たちに打ち明けました。
 
(結論) クリスチャンにとって、苦難は、神様の別の形での愛の表現です。私たちが受ける苦難は、神様の愛の中で許されたものであり、その苦難は、私たちをきよめ、鍛錬し、ついには義にいたらせます。 苦難を通して「みおしえ」を教えられる者は幸いです。

2018年11月5日月曜日

礼拝メッセージ  2018年 11月 4日 
説教題  「恵み・のがれの町」 
聖  書  民数記 第35章9〜15節
(序論) のがれの町は、誤って人を殺した者が、公正な裁判を受ける時まで守られる場所です。この「のがれの町」は、各部族から出来るだけ早く行ける場所に定められました。この恩恵は、イスラエル人だけでなく、在留異国人であっても、イスラエルに住む者が誤って人を殺した場合、そこに行って保護を受けることが出来ました。
(本論) 1. いのちの尊さと人間の弱さへの神様の配慮  「目には目を、歯には歯を」という報復律は、人が誰かを傷つけた場合、その罰は同程度のもの、もしくは相当の代価を払うことで、これは過度の報復を防ぐための教えです。人を殺した者に対しては、殺された者の近親者が復讐をすることが許されていました。のがれの町に入った者は、裁判によってその殺人が故意のものでなかったことが明らかにされるなら、大祭司が生きている間、のがれの町で安全に住まうことが出来ました。しかし、自分勝手に町から出れば報復を受けました。今の大祭司はイエスキリストです。主のみ手を離れれば我々は命を失います。神様は命の尊さと、人間の不完全さ弱さのゆえにあわれみ、のがれの町を制定されました。
2.我らの避け所はキリスト  のがれの町の律法は、私たちに霊的な光を与えています。のがれの町は、罪人の避け所ですが、私たちの避け所は、キリストです。「神は我らの避け所…」(詩篇46篇1節)。 神様は罪を犯す人間を、愛とあわれみのゆえに、のがれ所としてキリストを天より下されました。罪人がキリストの中にのがれ、その翼の陰に隠れればその罪が許される道を開かれました。「キリスト・イエスにある者は、罪に定められることがない」(ローマ8章1節)。この中にいなければなりません。この中から出てはいけない、という霊的な意味をもっています。
(結論) 主は私たちに、「のがれの町へ行け、そこから出るな。」と言っておられます。今日、我々は罪の赦しを宣言される教会から離れてはいけない者と、心に深く刻み従って行きましょう。
 祈り 「わたしはぶどうの木、あなたがたは枝です。わたしにつながっていれば、実を結ぶ」とのイエス様の教えに従います。弱い私を支えあわれんでください。