2016年8月28日日曜日

礼拝メッセージ  2016年 8月 28
説教題  「あなたの目標は何」
聖  書  マルコによる福音書10章46〜51節
(序論) リオのオリンピックでは、多くのメダルを日本人青年達が取り感動を受けました。若者たちは、小さい頃からオリンピックをメダルを目標にして励んできた結果の結実でした。今日の聖書箇所は、祝福された人生を生きるためには、何よりもはっきりとした目標、燃える願いを持つことの必要性を聖書は語ります。
(本論) 乞食で盲人のバルテマイの願いは、生涯に一度でも良いから、この世を目で見ることでした。たとえ今は道端で乞食をしていても、将来いつかは、両目をはっきりと開いて、道を闊歩することを夢見ていました。でもそのためには奇跡を期待しなければなりませんでした。
 そんな時、ナザレのイエスが奇跡的な業を行うという噂が聞こえて来ました。その日から乞食のバルテマイの目標は、イエス様に会って目が見えるようになることになりました。ある日、彼の側をがやがやと通り過ぎる群衆の口から「ナザレのイエス」という名が聞こえて来ました。すると、バルテマイは、虚空に向かって「ダビデの子イエス様。私をあわれんでください。」と叫び始めました。すると、主は足を止めてこう言われました。「私に何をしてほしいのか」「先生。目が見えるようになることです。」 主はバルテマイの願いは、ご存じでしたが、あえて問かけられました。「私に何をしてほしいのか」と。そして彼の信仰通りに癒されました。
(結論)  主は今日、私たちにも「私に何をしてほしいのか」と聞かれています。主は、燃えるような願い、はっきりとした具体的な目標を仰ぎ見ない人を祝福されません。心に願いと目標がある人は、どんなに難しいことがやって来ても、それを克服して進むことが出来るのです。



2016年8月21日日曜日

礼拝メッセージ  2016年 8月 21
説教題  「マイナスは主にありプラスに」
聖  書  ピリピ人への手紙 1章12節
(序論)使徒パウロは自分の「身に起こったこと」について書いています。私たちも人に会って「何が起こったのですか」と質問することがあります。パウロの「身に起こったこと」を通して、私たちの人生途上に起こることに対して、どのように対処すべきかを教えられます。
(本論)第一に、パウロのそれまでの人生の歩みが破壊されてしまったことです。パウロのそれまでの生き方に終止符が打たれました。陸に、海にと席の暖まる暇もないほど、忙しくいつも活動していましたが、投獄された今は、説教する会衆もなく、一部屋に閉じ込められる身の日々となりました。
 第二に、パウロの信仰に対して、自分の現在の生活は無益なものではないか、という誘惑があったに違いありません。それまでの生き方が、生きがいを感じるものであったので、ほかに主のお役に立つ道などありえない、と思ってしまう誘惑です。以前にも投獄されましたが、その時は祈りが答えられて、自由の身となりました。しかし、今度は勝手が違い、何も起こる気配がありませんでした。私たちの人生にもこのような揺さぶりをかけられる時が、必ずやって来ます。
 第三に、その状況を通して、新たな主の目的が導かれていることを知る必要があります。パウロは、新しい環境にあって新しい人々に福音を伝えることが出来ました。親衛隊の隊員を通して、ローマ軍の権力の真っただ中に宣教を進める道が開かれました。また、手紙を通して多くの人々に神様の真理を伝えることとなりました。口で説教したことは忘れさられてしまいます。しかし、書き残した書物は、今も語りかけています。
(結論)パウロは、投獄の経験を通して良き器とされました。最も美しい花は、悲しみの土壌の中に育っているのを、しばしば見出します。パウロの「身に起こったこと」は、彼の救い(19節)となったのでした。
マイナスは主にありプラスに変えられます。

2016年8月14日日曜日

礼拝メッセージ  2016年 8月 14
説教題  「心の平和と満足」
聖  書  ヨハネによる福音書 15章9〜12節
序論) 明日15日は、終戦記念日です。平和の大切さ、必要性を確認する礼拝でありたいと願います。 私たちの教会の理念① の御言葉から国の平和と、人の心の平和について恵みをいただきます。
  私たちが人生において心の平和、満足を得るためには、人との出会いの中に、何よりも調和や一致がなくてはなりません。
(本論) 人間は、一人で生きることが出来ない社会的な動物です。それゆえ、生まれるとすぐに親に出会い、それによって人格が形成され、学校では先生を通して人格が開発され成長し、男女の出会いを通して結婚し家庭を築き、また家庭を単位として社会と出会い、社会生活を営むのです。ですから人は、好むと好まざるとにかかわらず、両親との調和、夫婦の調和、社会での人間関係の調和なくしては、真の幸福を得ることは出来ません。   
 このような調和や平和は、イエス・キリストの愛の中にのみあります。今日、私たちは、都市化、産業化した社会で暮らしています。昔の農耕時代では近所とも親密でしたが、今日の社会では人間関係は疎遠になり人情は乾ききってしまいます。その結果職場は、人間を人格としてよりも生産道具と考えがちです。このような社会を、どうしたら希望や愛に溢れるものと変えることができるのでしょうか。主は言われましたすべて、疲れた人、重荷にを負っている人は、私のところに来なさい。私が、あなたがたを休ませてあげよう。」マタイによる福音書11:28)
 神様に愛されていることを知り、私たちも神様を愛するようになるなら、その愛の中で私達の人格が変えられ、人生に価値と意味を見出し、喜びが溢れて来ます。
(結論) もう一度強くお勧めいたします。心の平和と満足を得る人生を生きることを願うなら、人と人の間の調和を取り戻す願いを持ってください。調和ある人間関係を持ちたいと願うなら、イエス・キリストの愛の中で、あなた自身が先に人格的に変えられ、その人格を持ってキリストの愛で人を愛してください。





2016年8月7日日曜日

礼拝メッセージ  2016年 8月 7
説教題  「夢は大きく 小から始める」
聖  書  ヨハネによる福音書6章5〜9節
序論)リオでオリンピックが、始まりました。多くの若者たちが、小さい頃より練習に練習を重ね、オリンピックという高い目標、夢を目指し努力に努力を重ね、そしてついにオリンピックの切符を勝ち取った人々です。
その夢は、一日一日の小さな積み重ねから出発し実ったものです。聖書も私たちに、成功への夢・思いは大きく持っても、出発は最も小さいことから始めよと言います。
(本論)ある日、イエス様はみ言葉を聞くために集まって来た人々を見て、ピリポに向かって言われました。「どこからパンを買って来て、この人々に食べさせようか。」するとピリポは素早く計算して「めいめいが少しずつ食べるにしても、200デナリのパンでも足りません。」
 ピリポは、そこにいる人々にパンを食べさせたいという思いは持っていましたが、200デナリその場で出せる人がいなくてはならないし、たとえ居たとしても、急にそれだけの多くのパンを買うところもない。だから、結果的には食べさせられないという結論でした。
 しかし、アンデレはこのように答えました。「ここに少年が大麦のパン五つと小さい魚を二匹持っています。」アンデレがこう言ったのは、イエス様の奇跡を心に信じていたからです。アンデレが思った通りイエス様は「それを持って来なさい」と言われました。
 祝福された生活をする人々の秘訣は、夢は大きく持つけれども、出発は足をしっかりと地につけて始めることにあります。すなわち、自分にあるものから始めるのです。アンデレは、200デナリから始めるのでなく、あるものを活用したのです。
(結論)私たちも、成功への夢は大きく持ちながらも、現実に基ずく小さいことから始めましょう。私たちには、健康の資源があり、人間関係の資源、才能・気質の資源もあります。ですから、夢は大きく、小さいことから始めるのです。「夢、幻がなければ、民は滅びる。」箴言29:18)