2015年11月29日日曜日

礼拝メッセージ  2015年 11月 29
説教題  「主の最善を信じる信仰告白」
聖  書  詩篇 第103篇 2ー5節
(序論) 人生には、自然界と同じように「晴れの日」「雨の日」「嵐の夜」があります。自然界には、雨の日は必要不可欠ですが、人生の日々には、できれば雨の日、嵐の夜は避けたい気持ちを誰もが持っています。今日の御言葉は、主は、あなたの一生を良いもので満たされる」(5節)といいます。この聖書の御言葉が、私の人生に実現されるのでしょうか。
(本論) 2節に「わがたましいよ、主をほめよ。すべての恵みを心にとめよ」とあります。「主が下さったすべての恵みに心をとめる」と、私たちの心はどうなるのでしょうか。誰もが、感謝があふれてくるのではないでしょうか。感謝があふれると心が明るくなり、笑顔になります。聖書は、多くの箇所で「感謝」の必要性を強調します。(コロサイ人への手紙3:16、ピリピ人への手紙4:6,7)。「感謝します」と告白することは、、「今、私の身に起きている様々な出来事は、神様の御手からきているのです。」と認めることであり、また、「主への服従と主が最善をなされることを信じます。」という信仰告白となります。だから感謝をささげる人生を喜んでくださり、主はその人の一生を良きもので満 たしてくださるのです。
(結論) 「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって、神があなたがたに求めておられることである。」テサロニケ人への第一の手紙5章16〜18節)。感謝をささげるということは、感謝できることに感謝するだけでなく、人間的に見て感謝できないことにも感謝をささげる行為です。人生にはある時には嵐の夜がやってきます。聖書は言います、「明日のことはおもいわずらうな。明日のことは、神様が心にかけて下さるから、今日一日を力いっぱい生き抜きなさい。」(マタイによる福音書6:34)

2015年11月26日木曜日

礼拝メッセージ  2015年 11月 22
説教題  「待つ喜び」
聖  書  マタイによる福音書 第11章2ー6節
(序論) 誰しも何かを信じて前向きに生きているけれど、「本当に大丈夫なの?」との不安の思いがあります。誰に保証されている自分の人生かを問い返します。教会に集う人々は聖書を通して語りかける神に出会うことができ、礼拝の中でそのことを再確認します。
(本論) バプテスマのヨハネは、イエスこそ真のメシア(救い主)であることを指し示しました。今年もクリスマスのシーズンに入ります。一般的にプロテスタントは12月25日をクリスマスと定め、その前4週間をアドベント(降誕節)と言って、クリスマスを迎えるための準備に入ります。それが来週からです。このアドベントは、キリストの誕生という過去の歴史的事実を記念するだけでなく、未来に向かって神の国、神の支配がやがて世界にもたらされるという希望があることを語り継いできました。
(結論) いかなる時代にも神がこの世を愛して支えてくださることを信じられる者は、新鮮な日々を過ごすことができます。イエス様は、私につまずかない者は幸いだと言われました。私たちはヨハネのごとく主を待ちましょう。そして、聖書がこの方を指し示しているとの信仰を持って、自分らしく生きることができる者にされたことを感謝しましょう。「イエスは主なり」と信じる時、誰かと幸せが共有できます。

2015年11月15日日曜日

礼拝メッセージ  2015年 11月 15
説教題  「実り豊かであるために」
聖  書  ヨハネによる福音書 第15章1ー10節
(序論) ただ一度限りの地上での人生で、誰もが実り豊かな人生をと願うのは当然のことです。今日の箇所からは、イエス様ご自身が並々ならない思いをもって、キリスト者の人生が実り多いものであってほしいと願われていることがわかります。ただ、同じ「実り」でも、一般の方の意味する「実り」とキリスト者の「実り」は同じなのか、違うのか?違うとすれば、どう違うのかという点も見逃せない事柄です。
(本論) 3つの角度から、実りの秘訣を学びましょう。第一は、「神様の刈り込みを受け入れる」ということです。人生の大小の試練は、キリスト者にとって、願ってもない神体験の学び舎です。第二は「主イエスと正しくつながる」ことです。キリスト者には、律法主義に傾くという落とし穴があります。福音の言葉だけが私たちを生かします。第三は、「本物の実りを求める」ということです。この世の成功主義思想は容易にクリスチャン生活をも脅かします。しかし、生まれながら持っている上昇志向からの解放の中にこそ、クリスチャン独自の栄えある実りが隠されています。
(結論) 私たちは、この世的な成功から自由にされています。ごく平凡な日々の暮らしの中で、静かに微笑んで福音に憩い、福音に息、他者に仕える。こうして神様は、すべての主の民に「その実が残る生き方」を惜しみなく備えて下さっているのです。

2015年11月8日日曜日

礼拝メッセージ  2015年 11月 8
説教題  「『道標』ー道しるべー
聖  書  ペテロの第一の手紙 第2章11,12節
(序論) 人の一生は重き荷を負うて遠き道を行くようなものと言われます。聖書もまた、イスラエルの民の歩みのすべての中に神の導きがあり、その旅の目的は「主があなたを良い地に導き入れられる」(申命記8章)ことの証しだと言っています。この導く生ける神を忘れることのないように慎んで生きなさいと戒めました。新約聖書の民も、このことを受けて「地上では旅人であり、寄留者である」ことを自覚させられます。私たちは人生の旅人ですが、「放浪」の旅人ではありません。
(本論) キリスト者は、出エジプトの中で神に支えられ導かれた40年の荒野の旅を経験した先人たちに見習い、身に起きるすべてを愛の訓練と神の偉大さを学ぶチャンスと受けとめます。歴史の中で教え導く神を通して本当の強き者にならせていただきます。神に愛されている自分を確信できます。人は、迷い気力を失う者です。その時、神の言葉が暗い心を照らしてくださいます。。自分の弱さを神の前にさらけ出す時、御言葉の輝きが灯台の光のように行くべき道を示して下さいます。望みが与えられて港に帰れます。
(結論) 私の聖書の中に一枚の新聞の切り抜きが貼ってあります。荒涼とした地に建った教会です。教会の前に静かにたたずむ人影。作者は、この絵に「道標」という題をつけています。困難の時、前に進むことのできない不安の中で、この夫人は人生の道しるべを黙して祈り求めています。そして、私たちは出会いの中で交わることのできた人々から一言の真実な言葉を聞いて、互いに生かされていることを感謝するのです。

2015年11月1日日曜日

礼拝メッセージ  2015年 11月 1
説教題  「静寂の持つ力
聖  書  ヘブル人への手紙 第12章1〜3節
(序論) 私たちが生きていることへの安定感は、神様が私たちに語られた言葉を確信することからきます。イザヤ書46章4節には「わたしはあなたがたの年老いるまで変わらず、白髪となるまで、あなたがたを持ち運ぶ。私は造ったゆえ、必ず負い、持ち運び、かつ救う」と約束されています。生ける神と真に向き合い、静寂の中で聴いた言葉を確信しましょう。
(本論) イエス様も静かな自分の時を大切にされました「朝早く、夜の明けるよほど前に、イエスは起きて寂しいところへ出て行き、そこで祈っておられた」マルコによる福音書1章35節)とあります。
 十字架にかけられる直前の極限的状況の中でも、イエス様は「いつものようにオリブ山に行かれ」祈られた(ルカによる福音書22章39~43節)。そして、行動されます、「立てさあ行こう、見よ私を裏切る者が近づいてくる」(マタイによる福音書26章46節)。主の十字架は、敗北ではなく全能の神にすべてを委ねた勝利者の行為でした。キリスト者の生活の土台を見出します。ひとり静まり、各自が負わされた十字架を負い、神様の栄光を表し、主をほめたたえて人生を終わりたいものです。あわただしい日常生活の中で、ひとりの時間を持つことの大切さや、静寂がもたらす力を体験させていただきましょう。
(結論) 私たちには務めが与えられています。どんな状況の中でも神の子どもとして、晴れ晴れと生きている姿を人々に主の証し人として見せることです。信仰の成熟のため今朝の御言葉を心にとめてください。「信仰の導き手であり、またその完成者であるイエスを仰ぎ見つつ、走ろうではないか」(ヘブル人への手紙12:2)と励まし奨める聖書の言葉をしっかりと胸に刻み、静まりの時が神様からの贈り物として、大切な時間となりますように祈りましょう。