2015年8月30日日曜日

礼拝メッセージ  2015年 8月 30
奨励題  「キリストは生きておられる」 (岡田純爾兄による奨励)
聖  書  マルコによる福音書 第4章35〜41節
(序論) 私は、イエス・キリストを自分の救い主として信じ、従っていきたいと願いつつも、誘惑におちいったり苦難に遭遇して、自分の信仰生活に確信が持てなくなったり、他者と比較して傲慢になることも度々ある。表面的には「立派なクリスチャン」と装いながら、中身は「えせクリスチャン」の自分に愕然とする。どうすれば良いのか?
(本論) ガリラヤ湖上の弟子たちは、主が一緒にいてくださっているにもかかわらず、激しい突風により船が転覆しそうになった時、自分たちが溺れ死んでもかまわないのですか、と主に訴えた。私たちは、この世で多くの苦難や誘惑に襲われるが、聖書には、「主は愛する者を訓練し」(ヘブル人への手紙126)とある。私たちが試練に会う時、湖上の弟子たちの傍に、主が一緒にいてくださったように、今も主がそばにいて支え励ましていてくださることを忘れないでいたい。
(結論)  私たちが、地上での信仰生活をまっとうするためには、周囲の状況や人に目をやらず、主を見上げ、主が約束された御聖霊がいつも一緒にいてくださることを胸に刻み、み言葉祈りによって日々歩むしかない。「父は別に助け主を送って、いつまでもあなたがたと共におらせて下さるであろう。」(ヨハネ1416


2015年8月23日日曜日

礼拝メッセージ  2015年 8月 23日
説教題  「嵐の中をつき進む小舟
聖  書  マタイによる福音書 第8篇23〜28節
(序論) 教会堂の中に、嵐の中の風景を描いた渡辺禎雄氏の版画があります。ガリラヤ湖の突然の嵐の中で弟子たちの取り乱した表情に絶望が伝わってきます。その恐れと不安の中で、不思議にも平安が支配する一点があります。静かに眠っておられる主の姿です。この日の嵐はガリラヤ育ちのペテロでさえ異常を感じるほどでした。
(本論) 突如「突風が吹き下ろしてきて」自然の力の前に小舟は翻弄されます。しかし、イエスは眠っておられたのです。弟子たちは非難の気持ちを込めてイエスに叫びます。「先生、私たちがおぼれ死んでもおかまいにならないのですか」。主はこの非難を聞き流して、ご自分のやり方でこの事態を乗り切ります。「静まれ、黙れ」。すると風はやんでおおなぎになったのです。ピンチの中に平安です。聖書は、私たちの日常の中で、神は私たちのそばにおられて具体的に働いてくださることを意識させてくださいます。私は神に愛され、注目されている。絶望的な状況の中で、「大丈夫だ」と神の支えの御手を確信させてくださいます。
(結論) 風の中をつき進む小舟は私たちの人生です。この小舟に乗っている人々は、向こう岸へ行こうという目的と望みを共有した絆で結ばれた人々です。向こう岸へ着くのです。そう信じ合える共同体となっています。この小舟は教会と置き換えてもいいでしょう。足らざる者たちが、現実に満足せず、神様が用意されている私らしい人生を求めて、互いに励まし合って成長させていただくのです。

2015年8月16日日曜日

礼拝メッセージ  2015年 8月 16日
説教題  「先立つ神
聖  書  詩篇 第77篇 1〜5節
(序論) 真の神は語りかける神です。静かに私たちにご自身の御旨を聞かせてくださいます。迷いの中で決断させるお方です。歴史の中で生きて働かれる神です。私たちは、この神に従った人々の証しに教えられます。アブラハム、イサク、ヤコブの神は、エジプトで奴隷として生きていかなければならなかったイスラエルの人々の出エジプトを通して、試練の中に置かれようとも人間の尊厳を失うことなく生きる姿を見せてくれます。
(本論) イスラエルの人々が信じた神は、今も働いて私たちを救ってくださいます。このことをキリスト者は生きるより所としています。このお方がイスラエルの民の先頭を歩いてくださったように、人生の旅路のすべてにおいて先立つ神が臨在されることがキリスト者の望みの根源です。私たちの信じる神は、エジプトから救い出して聖別し神の民の群れを作られました。
 神は、私たちに人生の役目を与えて神様の栄光のために働くことを示されるお方です。神は信じる者の側に立って、「恐れないで行こう」と能動的な行動へと押し出してくださるお方です。イエス様も私たちに宣言してくださっています:「小さい群れよ、恐るな、あなた方の父は喜んで神の国をくださる」。
(結論) 一人ひとり自分の現実を勇気を持って、すべてを祝福として受け入れ、神と隣人から「人生のなんであるか」を学ばせていただきましょう。私たちに親しく語られる神の声を聴くために、静聴の時間を聖別し確保しましょう。絶望的な時こそ、神に向かって声をあげて慈愛の神に求めましょう。先立つ神は、立ち止まって耳を傾けてくださいます。このことを信じましょう。


2015年8月9日日曜日

礼拝メッセージ  2015年 8月 9日
説教題 「神の愛の気遣い
聖  書 マタイによる福音書 第6章25〜29節
説  教 8月が来ると平和について考え祈らされます。1945年8月6日は広島に、同9日に長崎に原爆が投下され、その無残な屍の前で人は沈黙しました。
 8月15日、日本はポツダム宣言を受け入れ、日本の敗戦によって先の大戦は終わりました。聖書は、過去を覚えることで神様の導きを学ばせます。真の平和は、イエス・キリストの御業の中に示されています。私たちにキリスト者の厳しさと幸せを山上の説教は今も語っています。
 「フランシスコの平和の祈り」を覚えましょう。
 「主よ、わたしを平和の道具とさせてください。わたしにもたらさせてください。憎しみのあるところに愛を、罪あるところに赦しを、争いのあるところに一致を、誤りのあるところに真理を、疑いのあるところに信仰を、絶望のあるところに希望を、闇のあるところに光を、悲しみのあるところに喜びを。ああ、主よ、わたしに求めさせてください。慰められることより慰めることを、理解されるよりも理解することを、愛されるよりも愛することを、人は自分を捨ててこそ、それを受け、自分を忘れてこそ、自分を見出し、赦してこそ、赦され、死んでこそ、永遠の命に復活するからです。」
 教会の夾竹桃が咲き、この花を見ていると、神が命あるものに望みを与えてくださることが信じられます。平和をつくり出す者に召され遣わされているお互いに、神の御旨がなりますように祈り続けてまいりましょう。平和への祈りをもって神への賛美といたしましょう。


2015年8月2日日曜日

礼拝メッセージ  2015年 8月 2日
説教題  「失望に終わらない
聖  書  コリント人への第二の手紙 第1章2〜7節
(序論) 個々の現実の中で、神様は私たちに愛をもって関わってくださる方であることを信じます。どんな状況の中でも御旨に委ねて主に似る者に育ってまいりましょう。聖書はどんな時も心穏やかに、世の灯台として輝く役目をまっとうしなさいと言っています。
(本論) コリント教会は、現代の私たちに通じるキリスト者の戦いを教えています。ある説教者は、「あなたがたは十字架の贖いによて聖なるものとされ、この世に派遣された使者の自覚を持ちなさい」と言っています。教会が聖別された人々によって建てられ、維持されることを神様は期待されます。人は誰も生きることに苦労します。しかし、苦労を試練としてその意味をわきまえることができるのが信仰者です。私たちは、「失望に終わらない」人生の道を励まし合って共に前進できます。信仰者は勝利に向かって、また勝利しつつ、望みをもって他者に微笑みかける余裕を持ちたいものです。なぜなら、「心のうちで死を覚悟し、自分自身を頼みとしないで、死人 をよみがえらせて下さる神を頼みとするに至った」(Ⅱコリント1:9)とのパウロの勧めを素直に受け入れることができるからです。

(結論) 私たちには他者を励ます慰めの言葉があります。死を乗り越えた主が共におられる臨在の確かさです。聖霊がその確信を与えてくださいます。ヨハネによる福音書第11章のマルタとマリア、ラザロに示されたイエス様の愛の物語は、私たちの日常の中で起こる悲しみと絶望を、喜びと感謝に帰る手本として読むことができます。信仰者の生活を支える力は、「失望に終わらない」ということを、しっかりと信じることによって与えられます。