2017年12月17日日曜日

礼拝メッセージ  2017年 12月 17日 
説教題  「なぜ、マリヤは選ばれたのか」
聖  書  ルカによる福音書 1章26〜30、37,38節
(序論)神様は「恵まれた女よ、おめでとう、主があなたと共におられます」(28節)、と言ってマリヤを祝福されましたが、実際は救い主の母になることで多くの苦痛を引き受けなければなりませんでした。
(本論)マリヤは自分に襲いかかって来る、あらゆる困難を覚悟しました。もしヨセフがマリヤとの結婚を拒否したり、自分が家から追放されたりすれば、彼女の人生は破滅をたどったでしょう。
1.マリヤの従順  しかし、マリヤは目の前に迫る大きな危機にもかかわらず「お言葉どおりこの身に成りますように」と言いました。マリヤは神様が自分にどのような祝福を与えようとされるかを、皆目わかりませんでした。でもマリヤは、神様がご自分に仕えるように求めておられることが分かり、「わたしは主のはしためです」という告白を持って主に全く従いました。主の主権を認め、自己主張をしませんでした。みことばに信頼し、自分の人生を全面的にゆだねたのです。自分がだれであり、神様がどのようなお方であるかを知っています。今、与えられる祝福の意味が理解できなくて、不幸をもたらすように思えてもマリヤは神様に従いました。
2.低き者に心をとめられた神  
 イエス様の誕生を予告した御使いは、ナザレと呼ばれる小さな町に遣わされました。これは、人類の救い主が卑しくお生まれになったことを意味します。マリヤは名家の出身ではありませんでした。妊娠と出生の時から、イエス様は低い卑しい環境に置かれました。神のみ子が貧しい姿でこの地に来られ、侮りと苦しみをお受けになったように、聖徒は高い偉い者以上に、身分の低い者にも心を留めることこそが主の御心です。
(結論)主の御心を純粋に受け入れ、屈辱や苦難も喜んで受け入れるマリヤの信仰に見習いたいと思います。神様の恵みを従順の器に入れるとき、特別な大きな祝福になります。「私の思いどおり」でなく「みことばどおりに」なることを日々求めるしもべとしてください。


2017年12月10日日曜日

礼拝メッセージ  2017年 12月 10日 
説教題  「ヨセフの従順」
聖  書  マタイによる福音書 1章18〜25節
(序論)マリヤがヨセフとまだ一緒にならないうちに身重になると、ヨセフは内密にマリヤを去らせようと決めます。主の使いが夢の中で、マリヤは聖霊によって身ごもったので、彼女を迎え、生まれた子の名をイエスとつけるようにと言います。ヨセフは命じられた通りにしました。
本論)婚約したマリヤが、自分と暮らし始める前に身ごもった、という事実を知ったとき、ヨセフは裏切られたと感じたでしょう。またことばにできない怒りもあったでしょう。しかし、彼はマリヤに怒りを表さず、黙って関係を断とうとします。最大限に相手のことを思ってのことです。
 主のみ使いが、マリヤが身ごもったのは聖霊によるものだということを知らせ、彼女と別れないように勧めます。ヨセフが、どんなに人間的に正しく誠実であっても、神様の御心を成し遂げることは出来ません。聖霊の導きが必要です。もしあなたがヨセフだったら、マリヤにどのように接したでしょうか。自分の正しさを主張して、神様の御心を無視したことはありませんか。
 次に、神様のみわざは、従順の人を通して成し遂げられます。
ヨセフは人間的な思いを捨て、マリヤが身ごもったのは、預言者を通して神が語られた、み言葉の成就であることを悟りました。ヨセフは命じられた通りにマリヤを妻とし、子どもの名を「イエス」と名づけました。
従順を通してキリストの肉の父となる栄光に預かったのでした。
 ヨセフは主の御使いを通してどんなことを悟り、どんな決断をしましたでしょうか。神様が「命じられた通りに」あなたが行うべきことはありませんか。
結論道徳的に正しいことを行うことで、満足していないでしょうか。それでは不十分なことがヨセフのことで分かります。ヨセフのように信仰によって従うことが出来ますように。時に理解出来ず、痛みが伴ったとしても、主に信頼してみ言葉に従い、救いのみわざを成し遂げる器として用いられましょう。

2017年12月3日日曜日

礼拝メッセージ  2017年 12月 3日 
説教題  「日々、私と共にいます主」
聖  書  イザヤ書 7章13〜14節
序論)本日は、アドベント第一聖日です。預言者イザヤは、救い主誕生の700年も前に、今日の聖書箇所を預言しました。マタイ1章23節でも「乙女がみごもって男の子を産む。その名は、インマヌエルと呼ばれる。これは、神われらと共にいます。」という意味である。とイザヤ書から引用されています。
本論)ギリシャ語で「イエス」とは「主は救い」を示す名であり、「キリスト」とは「油注がれた者」の意味です。ユダヤでは昔、王や祭司や預言者は、油注がれてその職に任ぜられました。主キリストは、人の心を治めるであり、人のためにとりなしの祈りをする祭司であり、また、神様の御心を教える預言者です。この名は、これらの三つの職分を持つ救い主であることを示します。
 歴代誌下2017節にも「主はあなた方と共におられる。共におられる主の勝利を見なさい」とあります。大軍を向こうにまわしたヨシャパテ王にとって、このお言葉は大きな励ましとなりました。これはまた私にとっても大きな励ましとなります。大きな困難に囲まれることが人生には多々あります。私には、力もないし、知恵もありません。主が私と共におられるなら私が誰におきざりにされようとも問題ではない。私は人生の戦いで勝利を勝ち取ります。では、主が私と共におられるということを、どのように確かめることができますか。私が主と共にいるなら、まちがいなく主は私と共におられます。もし私がサタンの側についているなら、神は私に敵対されます。しかし、私が神様をあがめるなら御父 は私を守るためにあらゆる力を現わされます。イエス・キリストを崇める者が敗れるなら、御子の栄誉に傷がつくからです。
結論復活ののち弟子たちに言われました「見よ、わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいるのである」(マタイによる福音書2820節)と。今は聖霊なる神様が共にいて下さり、助け主、守り、導き手となってくださいます。この主を見上げていくとき平安と勝利にあずかれるのです。

2017年11月26日日曜日

2017年 11月 26日

夜の祈り

愛の神さま、主は生ける神の御子キリスト様です。
道、真理、いのち なるイエス様を、私の救い主と信じます。
 
今日一日も主が、ともにいてくださって、
神様の恵みの中で、生活できたことを感謝いたします。
御言葉を忘れて、自分中心に生きたことをお許しください。
 
今夜、祈りを回復し、御言葉を通して、主の御声を聞くことが出来ますように。
私に霊的な力、知恵の力、体力、経済力を与えてください。
 
私が持っている肉体の病、心の病、霊的な病を主が癒してください。
弱さの前で私を強め、癒してくださる神様の力を信じます。い
イエス・キリストが、すべての問題の解決者であることを信じ、
神様が共におられることを味わえますように。
 
神様がくださる霊的な力によって、家庭と親戚、近所、職場の人を生かす
証人としてください。
 
今晩も聖霊様の満たしを味わう、平安な夜となりますように。
 
今も生きて、共におられる主イエス・キリストの御名によってお祈りします。

2017年11月20日月曜日

2017年 11月 19日 

朝の祈り
    
父なる神様、今日一日を与えてくださったことを感謝いたします。
今日一日も、主だけが栄光を受けてください。
 
私の家庭と職場と行く先々で福音を邪魔し、主の子どもに苦しみを与える
サタンの働きから、私達をイエス・キリストの御名で守ってください。
 
私の魂が幸いを得、すべての点でも幸いを得るように、霊的にも、肉体的
にも健康を与えてください。
 
すべての問題の解決者イエス・キリストに、私の生活をゆだねる一日と
なりますように。
今、私の中心にキリストの聖霊が来られ、キリストの恵みに留まる一日
となりますように。
 
王として、すべての闇の力を砕き、神の国を立てる者としてください。
祭司としてすべての人を赦し、祈る者としてください。
預言者として、私を通して、良い知らせである福音が宣べ伝わる祝福を
体験させてください。
主イエス・キリストの証人として用いて下さい。
 
今も生きて、共におられる主イエス・キリストの御名によってお祈りします。

2017年11月6日月曜日

礼拝メッセージ  2017年 11月 5日 
説教題  「神の愛・今は恵みの時
聖  書  マタイによる福音書 24章37〜39
(序論)近年、地球温暖化による異常気象から災害が毎年のように甚大な被害をもたらしています。それだけでなく、人間の心の腐敗と不道徳、犯罪の悪化が懸念されます。その上、国際間の緊張状態は増し世界はテロ対策と戦争回避対策に頭を悩ませています。一体これからの世の中はどのようになるのでしょうか。
(本論)最初の人間アダムとエバは、神様との交わりを楽しみ平和な生活を営んでいました。しかし、神様の掟を破り神様に背を向けました。その結果、罪が時間の経過と共に人類の中に深く浸透し、世界にはいろいろな苦しみが入り、家庭、夫婦に亀裂が生じノアの時代のように不道徳と暴虐が満ちて来ました。マタイ2437-39、創世記65-12 にあるように、現代の世相もノアの時代と類似しています。
1)神様には出来ないことが一つありました。それは、神様の御前に聖よい生涯を送っていた、たった一人のノアを滅ぼすことが出来られなかったのです。(創世記69ノアの箱舟は歴史上に実際に起こった出来事であり、現代に生きる私たちに無関係なことではありません。今日も罪と不道徳が蔓延しています。
2)しかし、神様は正しい方であられると同時に、愛の御方です。2.000年前の主イエス様の十字架は、罪人の身代わりの救いの出来事です。現代にも、ノアの時代と同様「箱舟」があります。それはイエス・キリスト様です。
(結論)あの大洪水の時、箱舟の入り口の戸を閉められたのは、ノアではなく神様でした。今の恵みの時代は、いつまでも続くのではなく神様が恵みの時を終わらせられる時が必ず来ます。神様は、全ての人々が救われることを望んでおられる愛の神様です。



2017年10月22日日曜日

礼拝メッセージ  2017年 10月 22日 
説教題  「今、恵みの日に
聖  書  ヨハネに黙示録 9章1〜6
(序論)紀元1世紀後半、クリスチャンは激しい迫害を受けていました。ヨハネも地中海のパトモス島に流されました。そこで神様が、これから起こることを幻の中で教えられました。必ず報われる時が来る、新しい世界ができる、と慰めてくださったのがこの黙示録です。
 
(本論)1節「天から落ちて来る1つの星」とは、サタンを指し「底知れぬ所の穴」とは地獄のことです。その穴から立ちのぼる煙の中から出て来た「いなご」とは、いなごの形をした「災いの使者」地獄における災い使者です。彼らは「額に神の印が無い人たち」を5か月間苦しめる。「殺すことはしないで」ただ「苦しめることだけ」を許されたのです。ここで「言い渡された」とか、許された、とかいう言葉の中に、大事なことが隠されています。つまり、神様の許しなしには、悪魔も何一つ出来ないのだ、と言うことです。また、程度や期間が制限されていることは神様の恵みです。
しかし、その苦痛は激しく、人々は自殺してその苦痛を逃れたいと思うのですが「死は逃げて行く」死ぬことも出来ないのです。1819節にあるように、こうした災いや苦痛を受けても「悔い改めようともしなかった」(21節)のです。
 
(結論)恵みの時代が過ぎ去ってしまったら、もはや聖霊様の働き(助け主・慰め・導き手)はなくなり、罪の中に放任されてしまうため、悔い改めることが出来ないのです。今、恵みの時代に主を信じ従い、いつも目を覚まして主にお会いする日を待ち望み、この災いを免れることが出来るように準備していきたいと思います。「全世界に臨もうとしている試練の時に、あなたを防ぎ守ろう。」「わたしはすぐに来る。あなたの冠がだれにも奪われないように、自分の持っているものを堅く守っていなさい。」「耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい。」(3章10.11.13節)

2017年10月15日日曜日

礼拝メッセージ  2017年 10月 15日 
説教題  「信仰の薄い者でも
聖  書  マタイによる福音書 14章22〜33
(序論)今日のみ言葉の前に、5つのパンと2匹の魚の奇蹟があります。奇蹟を体験したすぐ後でも、イエス様が水の上を歩いて来られたのが信じられなかったのです。このところは、弟子たちの信仰の薄さが現されています。その薄い信仰を励ますために、この箇所があります。
(本論)このことから、信仰とは、単に奇蹟を体験したからといって生じるものではないことがわかります。ある人は「神様を見せてくれたら信じる」と言います。本当にそうでしょうか。
 イエス様はペテロの信仰の薄いのをご存知でしたが、29節、即座にペテロに「来なさい」と言われました。ペテロに機会を与え祝福してくださいました。なぜでしょうか。二つの理由があります。
1ペテロを深く愛しておられたからです。私たちの信仰が薄くても愛してくださいます。信仰より愛の方が偉大です。しかし、信仰がなくては、救いがありません。
2)このような失敗を通して、真の信仰を教えるためです。実際、ペテロはイエス様を愛していました。だからこそ、網を捨てて従ったのです。しかし、まだ成熟した信仰がなく、臆病で大言壮語しました。しかし、主は「来なさい」と言って迎えてくださる方なのです。 30節、ペテロは恐れにとらわれ水に溺れかけました。その時、大声で「主よ。助けてください」と命がけで叫びました。私たちにも、このような切実な叫びが必要です。気楽に祈っていないでしょうか。答えが来ないのは、深刻さ、真実さ、気迫さがないのではないでしょうか。
(結論)イエス様は、すぐ手を伸ばされペテロを舟に上げた後、優しく忠告されました。信仰が薄く人生の海におぼれそうになった私をも、見捨てず救い出して下さるイエス様を賛美いたしましょう。

2017年10月1日日曜日

礼拝メッセージ  2017年 10月 1日 
説教題  「眠れる人生
聖  書  ダニエル書 2章1
(序論)バビロンの王ネブカデネザルが夢を見、そのことで思い悩み眠ることが出来なくなり、その夢を解かせようと、博士、魔術師らを召し集めたことが記されています。王は、彼らがでたらめを言うことを警戒して、夢そのものを教えず、まず王の見た夢をあて、それからその夢の秘密を解け、と命じました。
(本論)まず「王が思い悩んで眠ることが出来なかった」と言う言葉に目をとめましょう。彼は当時の世界で最強国バビロンの王です。命を惜しまない勇士が何万何十万といたことでしょう。財宝も世界各地から集められて倉に満ちていたはずです。しかし、その彼が、一夜の夢で気も狂わんばかりに焦燥したのです。ここに人間の弱さ、そして弱い人間が真に頼るべきものが何かを思わされます。イザヤ書2816節で「…信じるものはあわてることがない」とあります。「神様を信じる者、神様が私を愛していて下さることを信じる者」その者はあわてることがない。あわてることがないとは、「この世のことに引き回されない」と言うことです。パウロの言葉で言うならば「私は、貧に処する道を知っており、富におる道も知っている」(ピリピ412「私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでの出来る」者とされているのです。内村鑑三は「貴方各自のハートを先ずイエス様におささげなさい。彼は…裏切りません。…ふみにじりません。人なる友が私をあとからあとから捨てました時にも、イエス様は忠実な友となってくださった。歳がすすむほど近くなってくださいます。私が独りで死の河を渡る時に、私の手を取ってくださる方です」と語ります。
(結論)人生で出会うべき方、友とすべき方、信じるべき方、仰ぐべき方はイエス様です。この地上も、死後の世界もこの方のご支配にあるからです。

2017年9月24日日曜日

礼拝メッセージ  2017年 9月 24日 
説教題  「多くの証人
聖  書  ヘブル 12章1〜3
(序論)へブル人への手紙は、ユダヤ人の中のクリスチャン宛に記された手紙で、パウロが書いたとも、パウロの影響を受けた弟子の一人が書いたとも言われていますが、はっきりしたことはわかりません。1節で、多くの証人が見守っているのだから、いっさいの重荷と、まとわりつく罪を捨てて、忍耐をもって走り続けよう、と呼びかけています。その競争を走りぬくために「信仰の創始者であるイエス・キリストに目を注げ」と勧めています。
(本論)私たちが信仰の馳せ場を走り抜くために必要なことが二つあります。 
1)消極的には、「いっさいの重荷と、まとわりつく罪とを捨てる」ことです。罪は気づいた時にすぐ告白して主の血潮により洗い流していただきましょう。
2)積極的には、「信仰の創始者であり、完成者であるイエスを見つめる」ことです。私たちの信仰生活は、聖書の御言葉、イエス様のことを聞いた時から始まりました。そしてイエス様に合わせられて一体とされたときに完成されるのです。このイエス様をしっかり見つめること、イエス様と全く一つにされることを求めましょう。
 イエス様を見つめて走ることは、素晴らしい祝福ですが、それは安らかで楽しいばかりの歩みではありません。時には、きびしく懲らしめられることがあります。しかしそれは、主が私たちに対して怒りや憎しみを持たれるからではありません。神様は私たちを、子として扱ってくださるからこそ懲らしめられるのです。
(結論)あなたの目は、何に注がれていますか。あなたの耳は何に向けられていますか。あなたの手足は何に向けられていますか。イエス様にのみ目を注ぎ、神様の栄光を考える聖い歩みをいたしましょう。