2021年1月31日日曜日

礼拝、信徒による奨励メッセージ 2021131
説教題 「あなたは神の最高傑作」
  書  エペソ人への手紙2章10節
(序論)信仰は本来、楽観的ですべてのことに肯定的。
 聖書には、「いつも喜んでいなさい。」「すべての事について感謝しなさい。」(テサロニケ人への第一の手紙516-18)とあります。神様は、恵みに満たされている時、祝福されている時、喜びなさいと言っておられるのではなく、いつも、喜びなさいと言っておられます。苦難の中にいる時も、人に裏切られている時も、どんな時も喜びなさいと。果たして、人間はどんな時でも、苦境の中でも、喜ぶことができるのでしょうか?
(本論)何故、創造主である神様は、人間にわざわざ苦難を与えられるのか?
フローレンス・ナイチンゲールは、彼女の名著「看護覚え書」で、「すべての病気は、その経過のどの時期をとっても、程度の差こそあれ、その性質は回復過程である」と記しています。彼女は、つらい病気も、回復過程であると言うのです。
私たちキリスト者にとって、苦難は神からの祝福の過程なのです。だから、いかなる苦しみをも喜んで受け入れることができ、感謝なのです。
「神を愛する人たち、すなわち、神のご計画にしたがって召された人たちのためには、すべてのことがともに働いて益となることを、私たちは知っています。」(ローマ人への手紙8:28
「すべてのこと」、良いことだけではなく、苦しいこと、悲しいことも、あらゆることを通して、私たちの「益」としてくださるのです。苦難は神様の私たちへの「祝福の過程」なのです。
②わたしたちは、神様の作品、神様が造ってくださった傑作。
わたしたちは、神の作品であって、良い行いをするように、キリスト・イエスにあって造られたのである。神は、わたしたちが、良い行いをして日を過ごすようにと、あらかじめ備えて下さったのである。」(エペソ人への手紙2:10
 全知全能の神様が、人間をご自分に似たものとして創造されただけでなく、私たちと共にいてくださり、万事を益としてくださるのです。ですから、いつも喜ばないでおられるでしょうか、すべてのことに感謝しないでおられるでしょうか。
(結論)神の作品である私たちは、いつも喜んでいましょう。絶えず祈りましょう。すべての事について感謝しましょう。神様が万事を益となるようにして下さることを、わたしたちは知っているのですから。

2021年1月25日月曜日

礼拝メッセージ 2021年1月24日
説教題 「災いからの守り」
  書  詩篇91篇1~11節
(序論)現在、全世界は新型コロナの脅威にさらされ危機感でいっぱいです。こんな時こそ、私たちは神様に求めましょう、神様の憐み、導き、守りを。
(本論)1節に「神のもとに身を寄せて隠れ、全能の神の影に宿る人」これは信仰がある者は、こうすれば心の中に平安がありますと聖書は語ります。 6、7、10節に災難、疫病、病魔など記載されています。神様を信じている方々は、災いがあっても、その災いから抜け出ることが出来ます。
1)災いからの守り 34節)「全能者の陰」というのは、親鳥が自分の羽の下に雛鳥を守る姿を指しています。4節に「主はその羽をもって、あなたをおおわれる。あなたはその翼の下に避け所を得るであろう」と言われています。
山の麓にある農場に山火事が襲ってきました。火事がおさまってから、お百姓さんはまだ火がくすぶっている農場の火を消して歩きました。向こうに何か黒いバレーボール位の黒い塊があるのに気づきました。近寄って見ましたが、何か分からず、ポーンと足で蹴ってみました。すると、中から小さなフワフワした雛(ひよこ)たちが飛び出してきました。黒い焦げたものは、雛(ひよこ)たちを自分の羽の中に覆って隠し、身代りになって焼け死んだ勇敢な雌鶏(めんどり)の姿でした。焼け焦げた雌鶏(めんどり)の姿を見ているうちに、お百姓さんの目から熱い涙がポロポロと流れ落ちました。身代りとなって死んだ雌鶏(めんどり)を見て、イエス様の十字架を思い出したからです。
2)主を自分の住まいとする 911
「天使たちは皆、仕える霊であって、救いの相続者となる人々に奉仕するために、遣わされたのではありませんか。」(ヘブル1:14) 
病が近づかないように、神様は、守ってくださる安心感、たとえ、病にかかったとしても、その癒し、救いだしてくださる神様、たとえ、死に直面したとしても、天国という憩いの場を用意してくださる。私たちには、どんなことがあっても、たとえ、死の陰を歩んでも、災いを恐れない安心感があります。
(結論)神様の憐みによって、私たちの病が癒される。それは、同時に、キリストの贖いによって私たちの罪が赦され、永遠の命が与えられる。これ以上の喜びはありません。 コロナ感染症に対して、細心の注意を払って対策を講じることが必要です。その中で、一番忘れてはならないことは、「主が、私たちと共におられる。御翼の陰に私たちをかくまってくださる。たとえ、死の影を歩むとも災いを恐れないこと。主に感謝し、主の御心に従い、私たちのなすべきことに最善を尽くします。」それが、詩編91篇から教えられます。ハレルヤ、主よ、感謝します。

2021年1月16日土曜日

礼拝メッセージ 2021年1月10日
説教題 「明日のことまで思い悩むな」
  書  マタイによる福音書6章31~34節
(序論)人は、不安を抱えて生きています。不安でしょうがない時があります。
そういう時代にあって、どうすればよいのでしようか。
自分の将来の事、人間関係、家族、友人、仕事の事、様々なことで思い悩みます。コロナ禍の現代は特に、将来に対して不安が、まとわりついています。
(本論)「明日のことを思い煩ってはならない。明日のことは明日自らが思い煩う。その日の苦労は、その日だけで十分である。」(新共同訳)
1)神様が導いておられる イエス様は、明日のことを心配するのはやめなさい、と言われました。それよりも、「今日という今この時を、大切にしなさい」と、教えられました。今が大切だというのです。それは、あなたが生きている今日だからです。それくらい、神様にとっては、あなたという存在は、大切な存在なのです。
 あなたが生きている今日を、力いっぱい生きなさいと、神様はあなたが「生きる」ことを喜んでくださいます。なにも一人で頑張りなさい、ということではありません。今も「一緒にいて」くださいます。そして、すべてを「支えてくださる」お方なのですから、安心して大丈夫だよ、と言ってくださっているのです。
 『ありのままを生きる』という本に、次のように書いてあります。
それまでは「生きている」と思っていたのが、実は「生かされている」のであり、すべては、「勝ちとらなければ」から、実はすでに「与えられている」のであることが分かってきた。家族を見つめる目も変わってきた。「あーあって欲しい」「こうあって欲しい」から、「ありのままでいい」、さらには「ありのままがいい」へと。このように見てくると、私たちは偶然でもなければ、進化の結果、生まれてきたのでもない。神の愛につつまれ、選ばれ、尊ばれ、今ここにこうして生かされているのです。
2)身を擦り減らしてしまう イエスは、思い悩む弟子たち、そして私たちに、なぜ「思い悩むな」と言われるのでしょうか。 むしろ、先行きを案じていろいろと思い悩み、でき得るかぎりのことを果たしていくことは当然ではないでしょうか。そのような時に、思い悩むな、と言われれば言われるほど、私たちは素直にこの言葉を受け取ることができないでしょう。 しかし問題は、この思いが悲観的になり、心配になり、「思い悩み、思い煩い」となって、身を擦り減らすまでになって、希望や喜びが取り去られていくような状態になってしまうと、精神と肉体に害悪となることです。積み重ねられた「思い悩み、思い煩い」は、マイナスとなります。あなたの命も、体も、明日という時も、神様から与えられたものだったはずです。今日もそうです。
(結論)だから、「明日のことを思い煩ってはならない。明日のことは明日自らが思い煩う。その日の苦労は、その日だけで十分である。」(新共同訳)のです。
礼拝メッセージ 2021年1月17日
説教題 慰め励まして下さる神
  書  コリント人への第二の手紙1章3,4節
(序論)パウロの一生は、福音宣教のゆえに、波乱万丈の生涯でした。しかし、彼はその患難にあって、いつも、神様の慰めによって強く生かされ、また、主にある教会によって慰め励まされました。
(本論)「私はあなた方を大いに信頼し、大いに誇っている。また、溢れるばかり慰めを受け、あらゆる患難の中にあって喜びに満ち溢れている」(第二コリント74)とパウロは、その感激をしるしています。
1)慰めに満ちた神様  人間は、だれでも何かに、誰かに意識、無意識に「慰め、慰労、慰問、激励」を求めています。しかしキリスト者は、これらを人からだけでなく、父なる神さまから与えられることも知っている者です。
「神は、どのような苦しみのときにも、私たちを慰めてくださいます」パウロは告白します。自分自身が受けた苦しみによって、神から慰めを受けたのです。パウロは、聖書に通じ、イエス・キリストから啓示を受けて福音を知りました。        しかし、その頭だけではなく、自分の経験によっても、神がどのようなご性質を持っているのかを知ったのです。人が受ける苦しみには、大きな目的があります、それは、私たちが、神様を知るためなのです。神の慈愛の豊かさと慰めを知るためなのです。
2)慰めの連鎖  苦難の中で神様の慰めを経験したパウロは、慰めの連鎖「自分から私たちへ、私たちからあらゆる人たちへ」を次のように述べています。
【新改訳】Ⅱコリント書14節に「神は、どのような苦しみのときにも、私たちを慰めてくださいます。それで私たちも、自分たちが神から受ける慰めによって、あらゆる苦しみの中にある人たちを、慰めることができます。」
真珠は、貝の中に異物が入ることによって、できた結晶であるように、「慰め」の経験は「どのような苦しみの中にいる人をも、慰めることができる」というのは真理です。
パウロは「私は、使徒の中では最も小さい者であり、神の教会を迫害したのですから、使徒と呼ばれるに値しない者です。ところが、神の恵みによって、私は今の私になりました。そして、私に対するこの神の恵みは無駄にはならず、私は、ほかのすべての使徒たちよりも多く働きました。」と告白することが出来ました。
私たちも、自分自身が神様から受ける慰めによって、どのような苦しみの中にいる人をも慰めることができます。 私達が受ける苦しみは、神様の慰めによって、他の苦しみの中にいる人々を、慰めるためでもあります。
(結論)主は、慰めの神です。そして、この方は私たちを慰めて下さると共に、私たちを慰め手としても用いて下さるのです。主の慰めを頂きコロナ禍でも平安です。

2021年1月3日日曜日

礼拝メッセージ 2021年1月3日
説教題 主を待ち望む者
   イザヤ書40章2931
(序論)長くクリスチャン生活を送っていると、頭では、神は全能・全世界の支配者・正義のお方と分かっていても、不条理がまかり通り、正しい者達が苦しい目に遭っている現実を見ると、神は生きておられるのか、私達を本当に見ておられるのか、神は裁きを行い給うのか、疑問に思ってしまうことはないでしょうか。
27節に、イスラエル人の不満について、語られています。偉大な神がおられるのに、自分達は忘れられている、神は自分たちの訴えを無視しておられる、「わが道は主に隠れている、わが訴えは、わが神に顧みられない」と。
(本論)1)神様の無限の力(2829)  イスラエルが忘れられているのではなく、彼らが忘れていることがあるのです。それは、神は世界・宇宙の創造者として君臨しておられるだけでなく、私達の人生の微細な点に至るまでの弱さ、悩み、課題の直ぐそばにおられるお方だということです。神はご自身が力強いお方であるだけではなく、その力を私達に分け与えてくださるお方です。主は、「疲れた者には力を与え、精力のない者には活気をつけ」なさいます。つまり、弱さを自覚し、告白し、主により頼む者に力が与えられるのです。
2)主を待ち望むものへの約束(3031)  ・若者さえも疲れる
「(平均的な)若者も疲れ、若い男もつまずき倒れます。」これは、人間の力の弱さ、儚さ、限界を示します。選ばれた人々でもそうならば、まして平均的な人間はもっとだめだといっているのです。若者がそうならば、まして高年齢の者達は、走るのもままならず、歩いては疲れるのが、実感ではないでしょうか。気候的に言っても、特に地球温暖化のためか、年々夏が耐え難くなっていくように思えます。
・主を待ち望むことが、主の力を頂く条件
「永遠の神、地の果てまで創造された方、疲れることなく、たゆむことなく、その英知は測り知れず、疲れた者には力を与え、精力のない者には活気をつける」主を仰いでいる私達には、自然が与える以上の活力・気力・体力が与えられます。私達がそのような新しく力を頂く唯一の条件(カギ)は、「主を待ち望む」ことです。
(結論)アンドリュー・マーレーは、「神を待ち望め」という本の中で、祈りの大切さと、祈りの中に主を待ち望むことの恵みを強調しています。「神に対する待ち望みは、主として祈りの内に行わなければなりません。もし私達の待ち望みが、自然的働きを沈静させることから始まり、神の前に静まり、やがて頭を垂れて、全ての善をなしうる唯一の神の、み業を慕い求め、更に神は私達のうちにも、み業をなそうとしておられるという確信に進む・・・まで待つことができるなら、待ち望みこそ、真に魂の力と喜びとになることでしょう。」と語っています。今週、どこかでキチンと時を取って「主を待ち望む」姿勢を表しましょう。

2021年1月2日土曜日

元旦礼拝メッセージ 2021年1月1日
説教題 「シャローム」主の平安がありますように!
   ピリピ人への手紙4章6~7節
(序論)聖書の中で神様は、私たちに繰り返し繰り返し「大丈夫だよ」と語りかけて下さいます。これほど心強いものはありません。全知全能の神が、そう言われるのですから、これは絶対的です。それでは、なぜ私たちは、そのみ言葉に素直に従えないのでしょうか。 その一つの原因は、今日の、み言葉の冒頭に、書かれていることが原因です。つまり「思い煩い」です。人は思い煩うのが、大好きです。数秒間何も考えることがなければ、私たちの脳は、思い煩い始めてしまいます。
あなたがたのうちだれが、 心配したからといって、 自分のいのちを、少しでも延ばすことができますか。(マタイ6:27と聖書は言います。
(本論)(1)問題を神様に告白する  そういうわけだから、 何を食べるか、 何を飲むか、 何を着るか、 などと言って心配するのはやめなさい。(マタイ6:31
だから、 あすのための心配は無用です。 あすのことはあすが心配します。 労苦はその日その日に、十分あります。(マタイ6:34)あなたがたの思い煩いを、 いっさい神にゆだねなさい。 神があなたがたのことを、心配してくださるからです。(1ペテロ5:7)いくら思い煩っても、問題は解決しません。思い煩いは、私たちのものではありません。イエス様は、十字架にかかって下さった時に、私たちの罪と同時に、思い煩い一切をも、引き受けて下さいました。だから、思い煩いは私たちが持っていては、いけないものなのです。「心配事」が無くなることはありません。
「ほむべきかな。日々、私たちのために、重荷をになわれる主。私たちの救いであられる神。主は私達の荷を担って下さる。」(詩篇68:1)という御言があります。  この表現は、私達は「日々」重荷を持っている、という前提で語られています。私達が地上にいる間、心配事から逃れられる可能性はありません。この心配事が終わったと思うと、また不思議なように、違った心配事が現れるものです。今週こそは平穏無事に、過ごせるかなと思うと、また思いがけない重荷が、次々現れるものです。日常生活の細々とした心配事、健康への不安、試験のこと、就職の不安、年金の将来についての不安、世界情勢に関する不安、数えればキリがありません。
 では「無計画・無準備」で良いのか。「思い煩わない」という生き方は、脳天気に徹して、将来の計画も立てず、準備もせず、何事にもくよくよしない、と言うのとは違います。パウロは、「思い煩うな」という勧めの後「あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。」と勧めます。何という積極的な勧めでしょうか!
(結論)今日、あなたが持っている心配事は何ですか。健康のことですか。人間関係のことですか。経済のことですか。事業のことですか。魂のことですか。死の恐れですか。何であったとしても、私達のために荷を負ってくださる主に、それを口に出して祈り、委ねましょう。感謝を先取りして立ち上がりましょう。