2021年2月28日日曜日

礼拝メッセージ 2021年2月28日
説教題 「恐るな!元気を出せ!「安心せよ!」
  書  ヨハネによる福音書16章28~33節
(序論)今日の箇所は、イエス様が弟子たちに「今、語っている事柄は、弟子たちがつまずくことのないためであり、後に思い出すためだ。」と語られ、「しばらくすると、私を見なくなる」と言われ、いぶかる弟子たちに20節「よくよくあなたがたに言っておく。あなたがたは泣き悲しむが、この世は喜ぶであろう。あなたがたは憂えているが、その憂いは喜びに変わる」と語り、ご自分の死と復活を予告されました。
(本論)弟子たちは、主を信じると告白したのに、主は、彼らがご自分を見捨てて逃げ去ることを示し、しかし、「私が世に勝ったのだから勇敢であれ」と彼らを励まされました。力強い、慰めに満ちた言葉です。
1)平安を得るために  第一に、イエス様がこれらのことを語られたのは何のためかということです。それは、彼らがキリストにあって平安を得るためです。33節「これらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがわたしにあって平安を得るためです。」「これらのこと」とはどんなことでしょうか。それは、イエス様が、弟子たちに語られた全てのことです。これらのことを弟子たちに話されたのは、彼らが主にあって平安を持つためでした。そして、ご自分が十字架で死なれることと三日目によみがえられること、そして、聖霊として来られることの悲しみと喜びを、女性の出産のたとえで語られました。女性は、子を産むとき苦しみますが、子を生んでしまうと、一人の人が、世に生まれた喜びのために、その激しい痛みを、もう覚えていません。そのように、悲しみは喜びに変わります。人なるイエス様は、いつも弟子と一緒にいることが出来ませんが、天に昇られ聖霊が注がれると時間と空間の制約を超えて、いつでも、どこでも、全てのクリスチャンと一緒にいることが出来ます。私達は、今この恵みに与かり聖霊なる神さまと一緒に歩むことが出来るのです。ハレルヤ!
2)しかし、勇気を出しなさい  イエス様は、ご自分を裏切る弟子たちを受け入れ、彼らが戻って来ることが出来るように道を備えてくださったばかりでなく、彼らに勝利の力も与えてくださいました。ここには、「世にあっては苦難があります。しかし、勇気を出しなさい。」とあります。この言葉は、この世を生きるすべての人が聞かなければならないメッセージです。なぜなら、私たちは世にあっては苦難があるからです。「しかし」です。ここには、「しかし、勇気を出しなさい。」とあります。 この「しかし」という言葉はとても小さな言葉ですが、この言葉の中には、神の大いなる決意が込められています。イエス様は、私たちが「しかし」と言わなければならない現実があることをよく知っておられた上で、勇気を出しなさいと言われたのです。
(結論)イエス様は、私達の弱さをご存じの上で、私達が苦難に遭う時、「共にいるから、代わって戦うから」「勇気を出しなさい」と言われます。

2021年2月21日日曜日

礼拝メッセージ 2021年2月21日
説教題 「重荷・降ろそう・贈り物」
  書  マタイによる福音書112830
(序論)「休むことが出来ない」これは、現代の私たちにとって、最も切実な問題の一つです。以前から今でも「過労死」ということが重大な問題として取り上げられています。「休むことが出来ない」という問題は、時に私たちの命にも関わるものともなります。外国語にはもともと「過労死」に相当する言葉がなかったので、海外では日本語表記で「KAROSHI」という言葉が使われるようになりました。
(本論)《疲れた者》の「疲れる」という語は、もともとギリシャ語では、「苦労して働いた結果として疲れる」という意味をもっているようです。それぞれが、職場で、家庭で、さまざまな場で、懸命に働いてその結果として疲れている。そしてその心と体の疲れを、なかなかとることが出来ないでいる、という現状があります。
1)重 荷  「休むことができない」ということを、別の言葉で表現すると、「重荷を負っている」となります。今日の言葉でも、《重荷を負う者》という言葉がありました。私たちは日々の生活の中でさまざまな重荷を負っているゆえ、「休むことができない」。 「重荷を負う」ということで言いますと、私たちは外から「重荷を負わせられている」部分と、自分で自分に「重荷を負わせている」部分の両面があります。やらねばならない仕事を幾つも課されているとしたら、それは外から「重荷を負わせられている」ということになります。同時に、そのやらねばならない仕事のことを思って、心をどんどんと重くしているとしたら、自分で自分に「重荷を負わせてしまっている」ということになります。
 私達には、罪、恐れ、心労、悔恨、死の恐れ、という重荷があります。イエス様は「重荷を負うて苦労している者、来なさい。休ませてあげよう」と約束しておられます。贈り物は、ただで頂くものです。主が喜んで与えてくださるものを、喜んで受けましょう。借りたり、買い取ったりするのでなく、もったいない贈り物として感していただけばよいのです。
 
2)安 息  第一コリント1013節《あなたがたを襲った試練で、世の常でないものはない。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます》。
ここでは、神さまが私たちに《逃れる道》をも備えていてくださっていることが語られています。言い方を換えれば、「逃げ道」です。立ち向かう、のではなく、逃げる道を神様は、私たちに備えていてくださっている、と語られています。
(結論)イエス様は、「私のところに来なさい。休ませてあげよう。」イエス様は安息をお与えになります。試してみましょう。イエス様以外の希望はみな捨てて神様の言葉を信じ信頼し、御許に行きましょう。安息があなたのものになります。

2021年2月14日日曜日

礼拝メッセージ 2021年2月14日
説教題 「災いではなく、平安・将来・希望」
  書  エレミヤ書29章11節
(序論)この章は、エレミヤが、バビロンに連れ去られた人々に手紙を書いて、彼らを励まし、教えさとしたことが記されています。
(本論)エレミヤは、捕囚の地では、家を建て、畑を作り、結婚して子を産み、そこで増えよ、減ってはならない、と勧めました。そしてこのように預言しています。
「主は言われる。70年の時が満ちると、わたしは彼らをこの所に帰らせる。それは災いではなく、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。その時、わたしに呼ばわると、わたしはあなた方の祈りを聞く。私を尋ね求めるなら、わたしが、あなた方に会う。と主は言われる。」、と。1114節)
1)主の栄光をあらわす使命  主は、捕囚の地で家庭を持ち、仕事に励みその町の繁栄を祈れと語られました。(5-8節) 捕囚の民にすれば、約束の地に帰ることを待ち望むべきなのに異邦の地に落ち着くなどとは、まして憎むべき敵のまちのために祈るなど、とても出来ることではない、と考えるのが当然です。しかし、主は70年後の帰国を予告しながらも、そこに落ち着いて生活するべきことを命じられました。それは彼らが捕囚の地で、衰えることなくかえって力をつけることが出来るため、また、異邦の人々にも祝福を分け与えるためでした。私達の国籍は天にありますが、(ピリピ123) 一時的なこの地でも、家庭を築き、仕事に励み、世の人々に主の恵みを分け与え、主の栄光をあらわす使命があたえられています。
2)主のご計画、災いではなく、希望・将来  「主は言われる、わたしがあなたがたに対していだいている計画は、わたしが知っている」と。 神様が知っていらっしゃるのであって「お前は知らない」と、言われます。 私たちには、分からないのです、明日どうなるのか。 でもその全てのこと、明日のことを知っておられる主が、おられるのです。そのご計画は「災いを与えようというのではなく、平安を与えようとするものであり、将来を与え、希望を与えようとするものである」と。決して、私たちを失望落胆させることではなくて、神様の恵みの中に、神様の御業の中に私たちを、置いてくださるという、こんな素晴らしい神様の御思いなのです。
 しかし、この世での生活には、苦しみがあります。今は苦しみと思えることも、やがてそれは主のご計画の中で生かされ、より良い大きな祝福のもととなることが約束されています。
(結論)私たちの生活の、どの事をとっても神様によらないものは、何一つありません。神様が、私たちに抱いてくださるご計画は、いま事実、着々と行われています。そのことを信じて神様の備えられた、与えてくださった今という時、与えられた健康、与えられた時間を、与えられた財を、神様のものとして喜び感謝して、それを大いに活用させていただきましょう。

2021年2月7日日曜日

礼拝メッセージ 2021年2月7日
説教題 「いたい この方は どういうお方」
  書  マタイによる福音書 第8章23~27節
(序論)今日の箇所は、イエス様と一緒に船に乗っていた弟子たちが、ガリラヤ湖で大嵐にあった時の話です。私たちも病気やいろいろな苦難、また誘惑の嵐にあって、大変な思いをすることがあります。
(本論)さてイエス様は、毎日とっても多忙な仕事をしておられました。人々の病を癒し、悲しむ者を慰め、神の国の福音を語るという日々でした。そこでわずかの船旅の間も、つい疲れが出てうたた寝が始まりました。
①イエス様が眠っておられるというつぶやき。
第一に、主が一緒に船に乗っていてくださる、ということを見失っていたことです。もちろん目では見えました。しかし目の前におられる御方が、自分たちを守って下さり、彼らを絶望の淵に陥れた嵐をも支配される、全能の神、ご自身であられるということを、忘れてしまいました。私たちは激しい危機の中で、この大切なことを忘れやすいのです。しかし私たちが一時的に忘れてしまっても、イエス様は私たちのことを忘れられたりはなさいません。かえって嵐のただ中で、私たちを守り、道を開きたもうお方です。
②第ニに問題となるのは、「主よ、助けて下さい。死にそうです」(8章25節)といったことです。もう「自分たちは神様から見捨てられた」、嵐が一身に襲いかかって来た、もう絶望だ、このように考えました。無理からぬ状況で、私たちもこのような時には、同じありさまとなることでしょう。しかしどんなときにもイエス様と共にあるなら、決して滅びることはない、絶望はないのですイエス様が「風と荒波とをおしかりになると、静まってなぎになった」のです。弟子たちは不安と絶望の中で、イエス様の全能のカと、イエス様が与えてくださる平安を目のあたりに経験しました。そして「この方は、どういう人なのだろう。風も海も従わせるとは」と、告白しました。
(結論)今日、日本は、いや世界中が、コロナウイルスという疫病により、死の不安、恐怖、それから来る経済的危機に陥っています。この中、嵐の中に漕ぎ出していかなければなりません。 このガリラヤ湖での出来事から30年ほど後に、この福音書は書かれました。当時の初代教会も、大きな嵐の中にありました。教会は、外からは迫害や誘惑、内からは間違った教えに悩まされていました。教会は内と外ともに、嵐にほんろうされていたのです。一見イエス様は眠っておられ、教会という小舟は、イエス様もろとも沈んでしまうかに思われました。しかし決してそのようなことはありませんでした。そういう中でこの記事が書かれ、そして読まれて来ました。
嵐の中にある人々に、この個所は、何世紀に渡りイエス様を、見つめさせました。そして人々に、イエス様からの勇気と希望を与え続けました。今こそこの御言葉を通して、イエス様の信仰に与かり希望を頂きましょう。