2019年1月27日日曜日

礼拝メッセージ  2019年 1月 27日
説教題  「祝福の法則」 
聖  書  歴代志上 17章1~5、11~15節
(序論) この章には、ダビデ王が主の宮を建てたいと願ったこと、主が主の宮建設のダビデの願いを退け、主ご自身が、ダビデのために家を建てる、と仰せられたこと、ダビデ王が、主に感謝と賛美の祈りを捧げたことが記されています。
(本論) 1.ダビデの計画  神様は、人の計画でなく、ご自身の主権に従って働かれます。 ダビデは杉材の宮殿を建てた後、神様のために宮を建てる計画について、預言者ナタンに告げました。ナタンは、ダビデ王の計画は、神様の御心に叶ったものだと思い、「心にあるところを行いなさい」と答えました。 しかし、神様はダビデの願いを退けられました。 なぜなら、ダビデは、多くの戦いで多くの血を流したので「平和」を象徴する神殿を建てるのにふさわしくなかったのでした。(228節) このように、ダビデの考えと神様の考えは異なりました。 神様の働きをする際に、主に尋ねるべき重要なことは、「自分は、この働きにふさわしい者か」「この働きは、神様の時にかなっているか」ということです。 自分の計画を手放し、まず神様の御心を尋ね求めましょう。
 
2.主のご計画と約束  私たちが捧げる愛、奉仕に、主は想像もつかないような恵みで応えてくださいます。 主はダビデにご自身の計画と約束を告げられます。 第一に、神様ご自身が、ダビデ王朝を建てられるということです。 主はダビデの名を尊いものとして、彼のために一つの王朝を建てると約束されました。 神様の家を建てようとするダビデに、かえって、神様がダビデのために家(王朝)を建てると言われたのでした。 第二に、ダビデの子孫が、神様の家を建て、その子は神の子となり、彼の王座はとこしえまで堅く立つ、ということです。 ダビデに与えられた約束は、彼の子孫として来られるイエス・キリストを通して完全に成就されました。
 私たちが神様を信じ愛するなら、小さな捧げものでも、神様は大きな恵みを注いで報いてくださることを、この聖書の箇所は、教えています。(結論) 私たちは、何かを計画し実行する前に、主の御心にかなっているかを尋ねたいと思います。 私の主に対する熱意より、私に対する主の熱意のほうが大きいことを感謝いたします。 主に従い、主の愛に応える信仰を持たせていただきましょう。

2019年1月23日水曜日

礼拝メッセージ  2019年 1月 20日
説教題  「カレブとヨシュアの信仰」 
聖  書  民数記14章4~10節
(序論) イスラエルはカナンの地に住む人々が強大だと聞くと、もうだめだ「エジプトで死んでいたらよかった。荒野で死んだ方がましだ。エジプトへ帰ろう」と言い出し、ヨシュアとカレブが、主にそむいてはならないと語ると、彼らを石打にしようとしたため、主がご自身の栄光を示されて、民の滅びとモーセの選びを告げられたいきさつです。
これは22,23節ににあるように、民が約束の地に入れなくなり、29節のように20歳以上の登録された者が、すべて荒野で死ぬことになった重大な失敗の箇所です。どうしてこんな大失敗になったのでしょうか。
(本論) 1. 泣き叫んでつぶやく民  つぶやきは、神様への不信仰の表れです。
偵察隊が伝えた悲観的な報告をそのまま信じて泣き叫び、指導者モーセとアロンにつぶやきます。 2節で民は「荒野で死んでいたらよかったのに…」と言い、その通り荒野で死ぬことになります。 彼らは、エジプトでの圧政から救ってくださり、荒野では日々火の柱と雲の柱で導き、マナとうずらを与えてくださった神様に信頼しません。むしろ、自分たちを剣で殺そうとしておられると神様につぶやきました。つぶやきはまた別のつぶやきを生み全体を死へと追いやります。 神様の御心とご性質を深く黙想する人は、不信仰の勢力に圧倒されず、神様が備えておられる道に進んで行くことが出来ます。
2. カレブとヨシュアの叫び  イスラエルの民は、神が立てられた指導者を無視し、別の指導者を立ててエジプトに帰ろうと口をそろえます。この時、ヨシュアとカレブは衣服を裂き、聖なる怒りを発します。「敵は強大だが、彼らは私たちのえじきなる。主が私たちと共におられるから」とあくまでも主に信頼すべきことを主張します。
なぜヨシュアとカレブは、「私たちのえじき」といえたのでしょうか。それは信仰のレンズを通して相手を見ていたからです。それで、危機に瀕しても大胆に信仰の言葉を発することが出来ました。
▽(結論) イスラエルは、罪の清算はしなければなりませんでした。約束の地に入るのに40年かかって罪の世代が死に絶え、若い世代が育つのを待つことになりました。それを受け入れられず山地に攻め上った者は追い散らされました。忍耐強く40年待ったカレブとヨシュアは約束の地に入りました。祝福を待ち望む信仰と忍耐を養いましょう。

2019年1月14日月曜日

礼拝メッセージ  2019年 1月 13日
説教題  「目に見えない望み」 
聖  書  民数記13章25~30節
(序論) この章で主は、イスラエルの各部族の長たちをカナンの地を探るために派遣しておられます。 この時モーセは、ホセアをヨシュアと改名しています。ホセアは、「救い」という意味、ヨシュアは「主は救い」という意味で、これのギリシャ語読みがイエスです。 モーセは約束の地を見に行くのに、主の救いを見て来い、と教えたと思われます。
(本論) モーセは12名の偵察隊に、18節から20節で、大きく分けると二つの命令をしています。 カナン地の住民の生活状況の調査とその土地の良しあしを見ることです。
1節で主が言われている通り、その地は主が与えられる地です。ですから主が与えて下さる地が、どんなに良い地であるかを見て来なさい、ということです。その地の住民についてはレビ記18:24~25節で主が言われているように、その良い土地を罪で汚し、今や吐き出されようとしている人々です。その状況を見て来なさいと言う命令です。
1. 偵察隊の報告 12名の偵察隊は、その土地の素晴らしさは認めましたが、その地の住民は追い出せないと言いました。主が追い出そうとしておられる民であるとは見なかったのです。 彼らが良い地を罪で汚し、主を悲しませているとは見なかったのです。
主のみ言葉を「うわの空」で聞いていたので、こんな否定的な報告をする大間違いをしてしまったのです。主のみ言葉は必ず実現する力があり、真実な主の約束のみ言葉であることを心に深くて刻みましょう。
2. 客観的で信仰的  カナン地は主のみ言葉通り素晴らしい地であることは事実でしたが、その事実をどうとらえるかが信仰と不信仰を分けます。 カレブは、確かに敵は強大だが、世界最強のエジプト軍を紅海に沈められた主が、自分たちの主だから、直ちに攻め上りましょう。必ず出来る。と声を張り上げて主張しました。しかし、他の人々は、主を忘れ自分たちの弱さと敵の大きさのみを見て、民の気持ちをくじきました。 それが主の怒りを招き、40年の間、荒野を放浪することになったのでした。
(結論) 事実を客観的に冷静に見つめながら、それを主の目で見て判断するのが信仰です。客観的事実を正しく知り、しかも主を見上げて冷静で信仰的な判断をし、目で見える事実でなく目に見えない望みを信仰によって選択し、行動する信仰者であるように霊の目を開いていただきましょう。

2019年1月7日月曜日

礼拝メッセージ  2019年 1月 6日
説教題  創造主の権威と平安」 
聖  書  マルコによる福音書 第4章35~41節
(序論) 「向こう岸に渡ろう」イエス様は弟子たちに言われました。今まで、湖のほとりに集まって来た群衆に、舟の上から教えておられたのです。イエス様は、癒しを求めて群がって来る群衆から一時離れようとされたか、あるいは湖の向こう岸の人々にも福音を宣べ伝えようと思い立たれたのかも知れません。
(本論) けれども、渡っている途中突風が起こりました。ガリラヤ湖は地形上突風が起こることがしばしばあったようです。舟が波をかぶって水浸しになり、弟子たちは慌てふためいたのでした。マルコは湖の上で嵐に遭うという出来事を、私たちの人生にたとえて、そこから何か大切なことを伝えようとしたのです。
1.死の恐怖  私たちの人生は、舟で渡る船旅にも譬えられるものです。船旅はいつも晴れていて、順風満帆というわけではなく、思いがけない突風に出くわすことがあります。仕事上のトラブルや家族問題、人間関係の悩み、そういった逆風のために前に進めず沈みそうな経験をします。 38節「先生、私達が溺れてもかまわないのですか」と弟子たちは言っています。「溺れる」と訳される言葉は元々「滅びる」という意味があります。「滅びる」とは殺されるという死の恐怖を現す言葉です。「もとはと言えば、イエス様あなたが『向こう岸へ渡ろう』と言われたから漕ぎ出したのです。それなのに助けてくれないなんてひどいではありませんか?先生、あなたのせいですよ」という責任転嫁のニュアンスが感じ取れます。
. 静まれ。黙れ。創造主の権威  弟子たちに起こされたイエス様は「静まれ。黙れ」と言われました。すると風も嵐も従ったのです。この「叱る」という言葉は、旧約聖書に使われており、創造主なる神様が「混沌と闇の力とを退ける時に使われた言葉」だと言われます。静まったのを見て「この方は、いったいどなたなのだろう」とは、弟子たちの正直な思いでしょう。
(結論) 嵐を静められ、弟子たちに言われました。「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか」。 私たちは神様に対して、眠っておられるのですか。目覚めてください、と叫びます。しかしむしろ眠っているのは私たちの信仰の方です。危機に際して私たちが持つべきは「神様への信頼」です。

2019年1月5日土曜日

礼拝メッセージ  2019年 1月 1日 元旦礼拝
説教題  神のみ言葉の生命力」 
聖  書  マルコによる福音書 第4章21~29節
(序論) どんなに闇が暗くても、光はその空間を明るく照らします。イエス様は、暗い世に光として来られ、罪に溺れた世にご自身を捧げてくださいました。クリスチャンは、どんなにつらく、人生が闇のように感じる時でも、信仰を現わします。私たちも主のように自分自身を捧げて、福音を証しし自分に与えられた場所で光を現すことは、決して無駄にはなりません。
(本論) 1. 福音の光 あなたの口を大きく開く  燭台の上のあかりのたとえは、福音の恵みを受けた者、すなわち信仰を証しするクリスチャンを示します。あかりを桝の下に隠せば消えてしまうように、福音の光は、あかりのように光り輝かなければならないものです。24節の「量る」は、ギリシャ語の意味は「容器に入れて量ってみる」です。容器の大きさによって入れることの出来る穀物の量が違って来るように、私たちがどのような心でみ言葉を聞くかによって、み言葉が入る量が違ってきます。神様は、ご自分の民に「あなたの口を大きくあけよ。わたしが、それを満たそう」(詩篇8110)と語られました。心を開き、積極的な態度でみ言葉を聞き受け入れるなら、さらに多くの奥義を悟り、豊かな恵みと祝福を味わいます。私たちは、神の国と真理を世に明るく現す光りです。
 2. 無駄にならない種まき 神の国は神御自身が  神様のみ言葉には、自ら働く力と生命力があります。神の国は神様の主権的な働きによって完成されます。イエス様は、自生力をもった種のたとえによって、この真理を説明されました。地に蒔かれた種は、成長して芽を出し、土から養分や太陽の光を浴びながら穂が伸びていき、実を結びます。人は、種がいつ、どのように育ち、実を結ぶのか知りません。イエス様が語られたこのたとえは、神の国が人間の努力や行動によってではなく、神の国は、神様ご自身が建てあげて行かれることを宣言しています。
▽結論) 見えないところで育って実を結ぶ種は、神の国の特徴を表しています。失望せず今年も福音の種を蒔き続けてまいりましょう。大きな祝福を期待して、信仰の口を大きくあけましょう。愛なる主が、あなたの必要を満たしてくださいます。
礼拝メッセージ  2018年 12月 30日 
説教題  苦難・益・賛美 
聖  書  ルカによる福音書 第2章8〜14節
(序論) エルサレムがアッスリアの王の軍に包囲された時、ユダの王ヒゼキヤは、ひたすら神様を仰ぎ、神様に寄り頼みました。 すると神様のご介入で、一夜でアッスリア軍は、その包囲を解いて帰国し、エルサレムは陥落寸前の危機から脱したのでした。 この66篇は、1 節から4節で「全地に向かって神様を賛美せよ」と呼びかけ「神様の御業とみ力と御名をほめたたえよ」と言っています。夢にも考えていなかった驚くべき神様の御業に圧倒され、叫ばずにはいられなかったのでした。
(本論) 1. 苦難と賛美  試練は私たちを幸いな人生へと導くための土壌であり、また不純物を取り除いて私たちをきよめる精錬の過程ともいえます。神様は私たちを試練の網に入れたり、人生の重荷を加えられることもあります。しかし、私たちを愛される神様は、私たちに耐えられるだけの試練を与え、つまずかないように脱出の道も備えてくださいます。(コリント第一1013) ですから聖徒が受ける苦難の果ては、災いではなく平安と祝福であり、賛美の理由となります。苦難の向こうには、前よりももっと豊かな恵みがあるので、苦難の海が深くても、望みを抱き続けることが出来ます。信仰は、苦難の中でも神様の守りと導きを見極める洞察力が与えられます。
2. 祈りを聞き入れて下さる神  苦難の中でも、くちびるに賛美が絶えないなら、その苦難はすでに益となっています。17節「声をあげて神に呼ばわり、わが舌をもって神をあがめた」と言います。苦難の中でささげる賛美といけにえを神様は喜ばれます。ささげることのできないような状況でささげる賛美は、いけにえなので、神様は、その心をご覧になりより大きな恵みを備えて下さいます。打ち砕かれた心でささげる祈りを、神様は喜んで聞き入れて下さいます。  
(結論) 苦難は益となります。私たちが出会った今年の試練も、賛美をもって主を見上げましょう。試練を通して私の中の不純物がなくなり、誠の礼拝を回復し、主が御心のうちに祈りを聞いてくださいますので、神様に感謝をささげて2018年を閉じましょう。