2018年4月22日日曜日

礼拝メッセージ  2018年 4月 22日 
説教題  「信仰と希望
聖  書  マタイによる福音書 第17章1〜5節
(序論)イエス様が三人の弟子を連れて高い山に登り、山上で姿変わりされた栄光のお姿を弟子に示された変貌山での出来事が記されています。雲の中から「これはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である。これに聞け。」という声が聞こえて来ました。
(本論)この出来事の中にキリストの福音の偉大な真理が、少なくとも三つ啓示されています。
 1天からの声によって、イエス様の神性、つまりイエス様が神であり救い主であるという事が、はっきりと公に宣言されています。特に「これに聞け」という命令は、イエス様が律法を代表するモーセにも、また預言者を代表するエリヤにもまさる存在であるという事を証明しています。
 2イエス様がモーセとエリヤに語られた話題の中心が、十字架の死であったということです。これは天国において、キリストの十字架がどれほど尊重されているかを表しています。天国を一目でも覗いてみると、その話題の中心、賛美の中心は、ほふられた小羊つまりイエス様であるという事実が分かります。
 3イエス様の変貌が主の再臨の完全な予表であるということです。
モーセは死人の甦りの予表であり、エリヤは再臨の時まで地上で生き残った聖徒の予表です。また、先に召された愛する人が栄光と祝福の中に生きている事実を示し、やがて私たちも再会出来る希望を示しています。
(結論)この変貌の山で、神様が救い主の栄光と、祝福された天国の姿を弟子たちにお見せになったのは、弟子たちが信仰と希望を持って主に従う者になるよう励ますための出来事でした。ですから、いつまでもこの恵まれた山にいたいと望んだ弟子たちは、山を下りなければなりませんでした。
 信仰は、山の中で瞑想三昧にふけったり、精神的な陶酔にひたっているべきものでないことを示しています。現実の社会には、罪に悩み、途方に暮れた魂があなたが福音を伝えてくれるのを待っています

2018年4月15日日曜日

礼拝メッセージ  2018年 4月 15日 
説教題  「幸いな家庭
聖  書  マタイによる福音書 第7章1~5節
(序論)人は高い標準を示されると、これを自分に当てはめて、へりくだり反省するよりも、これをもって人を律し、人を裁きたがるもので、これは罪人の一つの特徴です。そこで主は、天国の義について教えられました。「人をさばく」とは、愛のない精神を持って、他人の人格や行為を批判して罪ありと定めることを言います。それで主は、キリストの弟子たる者は人を裁いてはならない。裁くことの出来るお方は、罪のない神のみである事を教えられました。
 
(本論あるところに、隣り合わせの二軒の家がありました。その一軒は、子ども一人と夫婦が住んでいました。しかし、どういうわけか、その夫婦の間には、けんかの絶え間がありません。ちょっとしたことが原因で、口汚くののしり合って、不愉快な日々を過ごしていました。
 ところが、一方隣りの家は、夫婦に子ども二人、それにお姑さんまで加わった大家族ですが、不思議なことにその家からは、いまだかつて、口喧嘩らしいものが漏れるのを、聞いた人がないというのです。いつ行っても、一家こぞって幸せそうな有様は、夫婦げんかを日課のようにしていた隣りの夫婦には理解しがたい謎でした。
 そこである日、隣の家に出かけて行って「どうしてお宅のような沢山の家族が毎日、喧嘩一つしないで暮らして行けるか、その秘訣を教えて欲しい」と頼みました。隣の主人は、にこにこ笑って答えました。「ああ、そのことですか。それはなに、ちっとも不思議なことじゃないんですよ。あなたのお宅に夫婦喧嘩が絶えないのは、お二人とも善人だからではないでしょうか。私のところに喧嘩がないのは、私達みんな悪人ぞろいだからですよ。ま、かりにですね。私が座敷の真ん中に出してあった湯吞み茶わんに気づかないで、うっかり足に引っ掛けたとしましょう。私は「ああ、これは私が不注意で悪かった」と申します。すると私の家内が「いいえ、あなたが悪いんじゃありません。早く片付けなかった 私が悪いんです」と言います。すると私の母が「いやいや、年寄りの私がそばに居ながら注意してやらなかった私の過ちなんだよ」と申します。こういう風に、うちではみんなが進んで悪者になろうとするのです。喧嘩したくても、これでは出来ないじゃありませんか。
(結論)人はとかく、人の目にあるちりは梁のように大きく、よく目につくものです。しかし、み言葉の光によって心を照らして頂くと、自分の目にある梁が見えて来ます。そして、それを告白してキリストの赦しを求める時、心は神の赦しの恵みに満たされて、人の目にある、ちりなど気にかからなくなり、かえって、お互いに包み合うようになります。そうすれば、あの悪人ばかりの家庭のように、自分から進んで悪者になれ、外見も美しい、円満な家庭が築けるものではないでしょうか。

2018年4月8日日曜日

礼拝メッセージ  2018年 4月 8日 
説教題  「ストレスの解消法
聖  書  マルコによる福音書 第6章31節
(序論)イエス・キリストは、弟子たちに言われました。「さあ、あなた方も、人を避けて寂しい所へ行って、しばらく休むがよい。」 このみ言葉は、あなたにも言われています。
「そんな暇はない…。私は、それほど忙しくない…」と、言われますか?
(本論)ある実業家が、書類を毎晩持って帰り、毎晩遅くまで仕事をしていました。「どうしてそんな事をするのですか」と尋ねると「私以外にその仕事の出来る人はいません。出来るのは私だけです。迅速に処理出来るのは私だけです。全てが私にかかっているのです」と答えが返って来ました。
 それを聞いた医者は、彼に処方箋を書きました。「毎日二時間さいて、長い散歩をしてください。また一週間に半日をさいて、その半日を墓地で過ごすように。」「そのわけは……」と医者答えました。「私はあなたに、墓地を歩き回って、そこに永眠している人々の墓石を眺めてもらいたいのです。そして、彼らの多くは、あなたと同じように全世界が自分の両肩にかかっていると、考えた人かも知れませんが、今はそこに眠っているという事実を、よく考えてもらいたいのです。あなたが今永遠に眠ったとしても、世界は今と同じように動くし、他の人々でも、あなたがおやりになっているような仕事を、することが出来るものである、という厳粛な事実を、よく考えてもらいたいのです。」
 私は、あなたが墓石の前にたたずんで「あなたの目の前には千年も、過ぎ去れば昨日のごとく、夜の間ひと時のようです」(詩篇9040)、「空の鳥を見よ、刈ることも倉に取り入れることもしない、しかし、天の父は彼らを養ってくださる」(マタイ626-34)、「事の帰する所は、すべて言われた。すなわち、神を恐れ、その命令を守れ、これは全ての人の本分である」(伝道書1213)、これらの聖書の言葉を、心に思いめぐらすことをお勧めします。
(結論)彼は、この言葉を聞いてから、自分の歩調を遅くするようになりました。また権限を人に委ねることを学びました。その時から彼はもう、やっきになったり、気をもんだりすることをやめ平和になりました。そして現在では、以前よりも一層よく仕事が出来るようになり、事業も、もっとよい状態にあることを認めています。 またある人は、「暇がある」と思いつつも、神様との交わり(祈り)を、み心を聞く時を、おろそかにしている人がいませんか。
 自分の考えた道だけを歩いていませんか。御前に静まりの時を持ちましょう。

2018年4月1日日曜日

礼拝メッセージ  2018年 4月 1日 イースター礼拝 
説教題  「死の勝利と希望
聖  書  ヨハネによる福音書 第20章24〜29節
(序論)弟子のトマスは言いました。「私は、その手に釘あとを見、私の指をその釘あとに、指を指し込んでみなければ決して信じない」。トマスは、他の弟子たちが、復活のキリストにお目にかかったとき、一人だけそこに居なかったので無理もありません。この可哀想なトマスを主は特に心にかけておられました。 八日目に、再び弟子たちの所にお出でになった時、誰よりもまずトマスの所に行き、そして、優しく仰せになりました。「信じない者にならないで、信じる者になりなさい」と。
(本論)キリストの復活については、それは弟子たちの幻想だとか錯覚だとか、あるいは欺瞞だとかねつ造だとか、いろいろ言う人もいるようです。でも、こういう事実をどう思われるでしょうか。
 ローマ郊外のアッピア街道にカタコンベがあります。「カタコンベ」と言えば地下の墓場です。ローマ帝国時代、キリスト信者達は、このカタコンベに、幅1メートル、高さ3メートル位の地下道を3層、5層と堀りめぐらした迷路を造り、そこに礼拝所や隠れ場所を設けました。現在、イタリアに散在するカタコンベを合わせると、その全長は実に880キロ、壁には約700万人のキリスト信者の遺体が葬られていると言われています。
 初代のキリスト信者達が、このような地下の墓場で250年間もの長い間、迫害と殉教を恐れず、世代から世代へと信仰を守り抜き、最後には、キリスト教をローマ帝国の国教にさせてしまったのですから驚くべきことです。その驚くべき力はどこから来たのでしょうか。単なる空想や錯覚、自分でねつ造した欺瞞的な物語のために命をかけるような、めでたい人がいるでしょうか。それは動かす事の出来ない復活の事実と、それに対する信仰から来たのです。
結論トマスは、信じられないで苦しんでいました。疑いがありました。しかし、信徒の交わりから離れませんでした。だからこそトマスは、復活のキリストにお目にかかり「わが主よ、わが神よ」と礼拝する者に変えられたのでした。信じることが出来ないで苦しんでいる方、良心を偽らず、信徒の交わりから離れないでみ言葉を聞いてください。キリストの十字架の言葉、そして復活は、私達に死に対する勝利と希望を与えてくださいました。あなたも復活のキリストにお目にかかり、どんな試練や迫害にも倒されない信仰の人に変えられます。