2018年3月26日月曜日

礼拝メッセージ  2018年 3月 25日 
説教題  「十字架から天の国へ
聖  書  ルカによる福音書 第23章39〜43節
(序論)イエス・キリストが十字架につけられた時、ゴルゴダの丘には、三本の十字架が立てられました。真ん中にはイエス様、そして他の二つには、強盗を働いた極悪人がつけられていました。強盗の二人とも、最初はイエス様をののしっていました。ところが片方の強盗は、イエス様を神の子と信じ悔い改めました。何が、彼をそこに導いたのでしょうか。
(本論)それは、裁判官ピラトの前からゴルゴダの丘まで、イエス様のそば近く共に歩き、イエス様の言動をつぶさに見聞きして、その心に深い感動を覚えたからでしょう。その強盗が悔い改めた時「あなたは今日、わたしと一緒にパラダイスいるであろう」という言葉が語られました。何という祝福に満ちた約束でしょうか。
 このみ言葉の中に、永遠に変わらない三つの事実を見ます。
 第一に、どんな極悪非道の悪人でも、心から自分の罪を悔い改めてイエス様のみ名を呼ぶなら、確かに救われるという事実です。不法と失敗の人生を繰り返してきた強盗にとっては、天国の望みは毛頭もなかったでしょう。だから彼は、「国へ行きたい」と言わず、「ただ、私を思い出してください」と言っただけでした。
 第二は、信じた今、確実に天国にいるということです。彼は、再臨の時を望んで恵みを求めました。しかし、イエス様の答えは「今日」でした。天国に入れるのは遠い将来のことと考えがちですが、信じた今、です。それが私たちに与えられた約束です。
 第三に、臨終の間ぎわでも救われるという事実です。この強盗は、肉体の苦痛と迫りくる死の中で、悔い改めて救われました。この事実は、死の床にいる全ての人に希望を与えます。
(結論)「私の一生は、あまりにも汚れています。私は、年を取りすぎています」などという必要はありません。あの強盗のように、自分の罪を素直に認めて、「イエス・キリストの十字架は、私の身代わり」と信じ、謙虚に主の名を呼んでみてください。イエス様は、あなたにも今日、同じ約束のみ言葉を語ってくださいます。「あなたはきょう、わたしと一緒にパラダイスにいる」。

2018年3月18日日曜日

礼拝メッセージ  2018年 3月 18日 
説教題  「百卒長と十字架
聖  書  マタイによる福音書 第27章50〜54節
(序論)百卒長とは、ローマの軍隊の百人隊の隊長で異邦人でした。彼は、イスラエルの信仰や希望については無関心でした。しかし、キリストの処刑の責任者とされた彼は、祭司や群衆やピラトに抗議して勇敢にも「彼は正しい人で神の子であった」と告白したのでした。何が彼をこの告白に導いたのでしょうか。
(本論)それは今日のみ言葉が示している通り、彼が誰よりもキリストの十字架の側近くに立って、その一部始終を自分の目で見たからです。
 百卒長は処刑場であるカルバリの丘に着いた時、地上に置かれた荒けずりの上に仰向けに寝かせて、両手と両足を太い釘で打ち付け、そしてその十字架を起こして立たせました。三本の釘で肉体を支えねばならなかったイエス様の苦痛は、筆舌に絶するものがありました。そんな中で、イエス様が最初に発せられた言葉は「父よ、彼らをお赦しください。彼らは何をしているのかわからずにいるのです」という祈りの言葉でした。イエス様が自分を殺そうとしている者のために祈っているのを聞いた百卒長は、そこにイエス様がただの人ではない、聖なるものを感じたのでしょう。イエス様の左右には二人の強盗がつけられていました。一人は最後までののしりましたが、もう一人はイエス様の無罪を 信じ救いを求めました。主は、瀕死の臨終にあっても、救いを求める罪人の魂を救われました。
 やがて昼の12時から3時頃まで、太陽は光を失い、全地は暗くなりました。イエス様は大声で「わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですか」と叫ばれました。これは、罪のないキリストが私たちの罪のために神様との関係が断たれ、私たち罪人に代わって神様に捨てられたことを表す言葉です。続いて「私はかわく」と言われ、十字架の苦痛を極限まで甘受され「すべては終わった」と叫ばれました。これは人類救済の業が完成した宣言する言葉です。このあと大声で「父よ、わたしの霊をみ手にゆだねます」と言われ息をひきとられました。
(結論)この時、地は震え、岩は裂け、墓は開き聖徒が生き返りました。神殿の至聖所の幕が上から下まで真二つに裂けました。これらを見聞きしたとき、ローマのの軍人、百卒長も感嘆しイエス様が義人であり、神の子であると告白せずにはおれなかったのです。いつの時代でも、キリストに近づき主を仰ぐとき、同じ信仰が与えられます。

2018年3月11日日曜日

礼拝メッセージ  2018年 3月 11日 
説教題  「クレネのシモンの十字架
聖  書  マタイによる福音書 第27章27〜32節
(序論)人生は選択の連続とも言われます。学校、職場、結婚、または右か左か現状維持か、選択により人生は大きく変わります。
 神の子キリストの受難の出来事は、誤った選択の歴史と言えます。受難の歴史にまつわる全ての人々は、善より悪を選びました。しかし、その中でこの人だけは例外で、善い方を選びイエス様の十字架を負うたのが、クレネから来たシモンと言う男です。
(本論)十字架刑は、刑場まで囚人が、自ら付けられる線路の枕木のような重い十字架の横木を負うて行くものです。一晩中の不当な裁判のあと、39回のムチを受けられ一睡も出来ず疲れ切ったイエス様にとっては、耐えられない重荷でした。そこでローマ兵は、クレネのシモンに無理に負わせることにしたのでした。
 第一、人生の選択 1. ユダはキリストを選ばず、銀貨30枚を選びました。 2. 弟子たちは危険な服従の代わりに、安全な逃亡を選びました。 3. ペテロはキリストを告白する代わりに、キリストを否みました。 4. 民衆はキリストの代わりに、バラバの赦しを求めました。 5. ピラトは正義の代わりに、民衆の一時的な人気を得る不正の裁判を選びました。 クレネのシモンは、過ぎ越し祭りを祝うために1.600キロも離れたクレネからエルサレムのに行く途中でした。 その時、この出来事に遭遇し十字架を担がせられることになりました。32節にあるように、シモンの場合は、選んだというより、無理に負わされたと言えます。 
 第二、人生の十字架  私たちの人生にも、貧しい家庭に生まれるとか、肉体的ハンディーを負うて生まれるとか、あるいは、入りたい学校に入れず、結婚したい相手と結ばれず、など自分の意志とは反対の方向へ行かされることがあります。その時、クレネのシモンのことを覚えましょう。そして、シモンのように黙って負うことです。そうすれば、神様の天来の祝福を受けます。  
(結論)シモンから学ぶことは、十字架の祝福です。あの日彼は、無理に負わされた十字架によって、カルバリの丘で世の罪を取り除く神の子羊を知り、信じる道が開かれました。無理に負わされた十字架であっても、最後まで負いきりましょう。シモンのみならず彼の家族も救われ、永遠の祝福を受けました。

2018年3月5日月曜日

礼拝メッセージ  2018年 3月 4日 
説教題  「民衆を恐れたピラト
聖  書  ヨハネによる福音書 第19章12、15,16節
(序論)ポンテオ・ピラトは、ローマ皇帝からユダヤ統治のために遣わされていた総督でした。当時総督には、ローマ皇帝の領土内での審判と最終決定権が与えられていました。ユダヤの国では、死刑はピラトの許可なくしては執行出来ませんでした。
(本論)イエス様にねたみを持つ人々は、金曜日の朝、死刑にしてもらうためにイエス様をピラトのもとへ引き渡したのです。しかしピラトは何の罪もないことを見出しました。そこでピラトは何とかして主を放免しようとしましたが、出来ませんでした。
 その理由は、第一にピラトが民衆を恐れたためでした。もしイエス様を無罪放免にすれば騒動が起こります。政治家として民衆の人気を失うことは致命的です。
 次にもう一つの理由は、自分の将来を恐れたためです。民衆のことは時がたつにつれて、彼にとって何でもなくなります。まかり間違えば、第十兵団が何とでもします。ところが民衆の中で大祭司カヤパが叫びました。「もしこの人を許したら、あなたは、カイザルの味方ではありません。」この言葉によってピラトは、自分がローマに呼び戻され流刑か死刑にさせられる姿を思いました。自分の政治生命が失われることを恐れたのです。罪の無い神の人と知りつつイエス様を十字架に渡してしまいます。「臆病な者、信じない者……火と硫黄の燃えている池が彼らの浮くべき報いである」黙示218節、に言われていますがピラトはその代表的な人物です。結局、彼は自分が恐れていた通り、それから3年のちローマに召喚され、ゴール地方に流されそこで自殺してしまったのでした。
(結論)きょうも静かに、無罪でありながら十字架に進んで行かれた、主の強く聖いお姿を心に描きましょう。主が不法な裁判や偽証、嘲笑や肉体的拷問に耐え、断固として十字架を負われたのは、あなたや私の罪のためでした。