2020年10月25日日曜日

礼拝メッセージ 2020年10月25日
説教題 「行け、あなたのその力で」
  書  士師記 6章 1114
(序論)イスラエルが、偶像を拝んで、主の目の前に悪を行った時、主はイスラエルをミデアン人の手に渡されました。しかし、その苦しみの中で、イスラエルが主に叫び求めると、主は一人の預言者を遣わして、イスラエルの罪を責め、ギデオンを召して「あなたのその力によってイスラエルを救いなさい」と命じられました。
(本論)「ギデオンは、ミデアン人に奪われるのを免れるため、酒ぶねの中で小麦を打っていた」(11節) ギデオンは、主から「大勇士よ」と呼ばれますが、自身はミデアン人の目をさけて、酒ぶねの中でこっそり麦の穂を打っているような「弱虫」でした。この弱虫を、主は「大勇士」と呼びかけられます。
1)主の教育方法
主の教育の仕方は、これぞと目をかけた者に、声をかけ、君は大きな器になると言われます。さらに、その人を一歩、一歩、高めて行かれるのです。まず勇気を与え、次に自信を持たせ、しかし、言われた本人は、弱虫で、後ずさりします。この後ずさりする者を、主が押し出されるとき、その人はまことの「主の器」として用いられます。「勇者よ、主はあなたと共におられます」(12節)
「わたしが、あなたを遣わす」(14節)「わたしが、あなたと共にいる」(16節)
この「共にいる」とは、主が生きて働かれるということです。この生ける主を信じるのがまことの信仰です。
2)行け、あなたのその力で
 14節「行け、あなたのその力で。あなたはイスラエルをミデアン人の手から救うのだ。わたしがあなたを遣わすのではないか。」と、主は言われました。どういうことでしょうか。それは、彼の力が強かろうが弱かろうが、そんなことは全く関係ないのであって、彼に求められていたことは、主の命令に従って出て行くということでした。なぜなら、主が彼を遣わされるからです。
モーセも同じでした。「ああ、わが主よ。私はことばの人ではありません。以前からそうでしたし、あなたがしもべに語られてからもそうです。私は口が重く、舌が重いのです。」(出エジプト記4:10) と言いました。言い訳です。最初からそんなに流暢に語れる人なんていません。主が遣わされるのであれば、主が最後まで責任を取ってくださいます。
(結論)私たちもギデオンのように臆病で、弱い者かもしれませんが、主が私たちをそれぞれの人生の中に、遣わしておられるのです。あなたのその力でいいのです。「私が、あなたと共にいる」と、語ってくださっています。恐れるな。強く雄々しくあれ。

2020年10月18日日曜日

礼拝メッセージ 2020年10月18日
説教題 「『主よ』と神に祈る」
  書  詩篇 23篇 1~3節
(序論)今日の23篇は、「詩篇の中の真珠」とも言われる、神様への信頼を歌った美しい詩で、昔から多くの信仰者に慰めと励ましを与え続けている詩です。
主】とは、原語では「ヤハウェ」で、旧約聖書で啓示された神の御名です。
1)主が共にいてくださる  ユダヤの野山は、決して日本で見るような緑あふれる野山ではありません。それとは正反対の、荒涼たるユダの荒野です。人生とは、荒涼たる荒野を歩くような側面があります。その荒野の中で、【主】は、緑の牧場、いこいの水のほとりに、信じ従う者を導かれます。 羊は流れている水を飲むことができませんので、静かな水辺に導かれる必要があります。苦難の中に【主】の守りがあります。3節「主は、私のたましいを生き返らせ、私を正しい道に導かれる」とあります。ですから、死の陰の谷、災いをも恐れることなく歩むことが出来ます。主が共にいてくださることを知っているからです。
2)「主よ」と神に祈る   苦難の時、私たちは、羊飼いである【主】に近づきます。【主】という呼びかけが、「あなた」という呼びかけに、変化するのが注目ポイントです!「死の陰の谷」という言葉が出た直後、ダビデは、「あなたが私とともにおられますから」(4節前半)と歌っています。人生で最悪の状況が訪れた時、【主】は神として、私たちのそばを歩いてくださるのです。
 人生の荒野にひとりぼっち、先の人生が見えない不安、そんな気持ちがする時、「私の造り主、私の全てを知って愛したもう主、私の慰め主、私の導き手、歴史の支配者なる主」の御顔を仰ぎ、心砕け、へりくだり、そっと「主よ」と神に近づき祈ってみましょう。
(結論)ダビデは、死を思って初めて、主だ、と知ったのです。才能も、体力も、技術も、経験も、知識も、財産も、名声も、地位も、人間が死までのものです。それなのに、何と長い間、そのようなものに振り動かされて来たことか。主の羊であることこそ究極的な恵みだと悟ったのです。これは心砕かれた人の歌です。

2020年10月12日月曜日

礼拝メッセージ 2020年10月11日
説教題 「喜べ・祈れ・感謝せよ」
  書  テサロニケ人への第一の手紙 51618
(序論)テサロニケ人への手紙はその名の通り、使徒パウロからテサロニケという都市の教会の人々に宛てた手紙・書簡です。私の好きな聖句の一つが、今日の516節~18節です。
(本論)1)神様が望んでおられる  私たちが人生を生きる中で、嬉しいことばかりが続くものではありません。しかしパウロは、いつも喜んでいなさいと言っています。そして絶えず祈りを欠かさず、すべてのことに感謝しなさい、と教えています。この通りに生きるというのは、本当に難しいことです。パウロ自身の人生を考えてみても、その困難と苦難の日々を考えると、とてもいつも喜び、すべてのことに感謝することなど、不可能と言わざるを得ません。しかし、それでもパウロはいつも喜び、すべてのことに感謝しなさいと言います「いつも喜んでいなさい」の「いつも」は、強烈です。喜べるときに喜びなさい、楽しいことがあったら喜びなさい、ではありません。「いつも」です。心配事を抱えても、悲しみの中におかれていても、仮に、死と向き合うなかに閉ざされても、「いつも喜びなさい」です。ある意味で、この御言葉は、過酷な要求を突き付けています。 しかし、ここには、神様の大きな約束があります。「が、どんなにあっても喜ばせてあげるから、いつも喜びなさい」という神様からの申し出です。ですから、この御言葉に依り頼む人は、「神様、あなたは『いつも喜んでいなさい』と命じられました。どうか、ご命令の通り、いつも喜ばせてください」と祈り求めることになります。
2)苦難を乗り越える秘訣  三浦綾子さんの、60代後半に日記から抜粋して出された本があります。このような内容です。
 「○月○日、今日は涙が出るほど嬉しかった。50年前、近所に住んでいた久枝ちゃんが、お兄さんの渡辺さん夫妻と一緒に訪ねて来てくれた。小学校以来、私は一度も久枝ちゃんに会ってはいなかった。しかし優しい笑顔で、優しい声で遊んでくれた人、久枝ちゃんは68になっていた。しかし…同じく優しい顔だった。こんなにも懐かしい人を、神は既に50年前に私に与えて下さっていたのだ。そして50年間、恋しい思いで幾度となく思い出していた。不思議な時間、尊い時の流れ、全ては神の御業、神の恵み。」     
 ここには、嬉しいことを単に「嬉しい」で終らせず、改めて「神の恵み」と捕え、喜び、感謝することが習慣となっておられた彼女の一面が伺えます。こういうあり方が、彼女を一層神様の近くにおらせ、多くの試練の中でも彼女を守り、ますます神様と人を愛し、喜んで人に仕える者に、神様はして下さったのでしょう。
(結論) パウロはもともとイエス様を異端(今でいうカルト)だと考えていました。キリストを異端視し、その弟子たちを殺そうとした自分までもイエス様は赦し、救ってくださったここにパウロの原点があります。私たちの喜びと感謝の原点も、ここにありそうです。

2020年10月5日月曜日

礼拝メッセージ 2020年10月4日
説教題 「隠れた徳を身につける」
  書  ヤコブの手紙 468
(序論)今日のヤコブの手紙は、「実行する福音」と言われるほど、キリスト者の生活に触れて書かれています。それはなぜでしょうか。 私たちが救われたのは、「行い」によって救われたのではなく、ただ「信仰」信じることによって救われました。では、行いは、どうでもいいのでしょうか? 決してそうではありません。
(本論)1)キリスト者の実践  パウロもまた、「キリスト者の実践」「行い」について、しばしば述べています。第一コリント6章9~10、12~1320節に「あなたがたは、代価を払って買い取られたのだ。それだから、自分のからだをもって、神の栄光をあらわしなさい」と言います。なぜなら私たちは、神様から遣わされた「キリストの使者」なのです。
2)「へりくだる」という「徳」 ヤコブとパウロの言わんとすることは、私たちは、神様と人の前に「へりくだる」という「隠れた徳」を身につけることです。
牛は、頭を下げれば下げるほど、力が出ると言われます。また、「実るほど垂れる稲穂かな」と、ことわざにある通りです。そのように、私たちも、神様のみ前に謙虚に、へりくだれば、へりくだるほど、神様は、私たちを、霊的に高く、引き上げてくださいます。  
これは「神の国の法則」です。傲慢(ごうまん)のために、尊い座から引き下ろされた類例は、政治家をはじめ有名人によくあることです。また、サウル王など聖書の至る所に見られます。
(結論) 主イエスは「柔和な人は幸いである。彼らは、地を受け継ぐであろう」と言われました。私たちも、ゆえに、神さまと人の前に、「へりくだる」という「隠れた徳」を身につけたいものです。