2014年5月25日日曜日

説教題   「その名はインマヌアル、神われらと共にいます
聖 書   マタイによる福音書 第1章18〜24節
(序論) 私たちはイエス・キリストを通して神に出会い、人生の意味を見出します。イスラエルの民は「インマヌエル(神われらと共にいます)との予言(イザヤ書7章14節)の成就を切に祈り求めていました。この予言の成就がクリスマスです。

(本論) 人となられたイエス・キリストによって、救いの経験に導かれます。このお方が「神われらと共にます」ことを私たちに味あわせてくださるのです。神さまの一方的な愛がイエス・キリストをインマヌエルとして私たちの中に降誕させてくださいました。このお方を見上げる時、「み子によってこの世は救われる」という希望をもたされます。(ヨハネによる福音書3章17節)私たちは常に「われらと共にいます」神と共に人生の旅路を歩く者とされているからです。このお方はどんな時も、どんな境遇の変化にも、信ずる者の味方として、勝利を目当てに感謝と喜び、そして望みの祈りで締めくくる人生を選び取らせていただけます。インマヌエルの神は祝福を約束し、同時に苦しみをも共 に背負って下さるお方です。

(結論) わたしは悩みのうちに主に呼ばわり、わが神に叫び求めました (詩篇18篇6節)。信仰者は奈落の渦の中で、インマヌエルの神様に叫び求めます。「彼は私を愛し離れないゆえにわたしは彼を助けよう。彼はわが名を知るゆえに、わたさいは彼を守る」(詩篇91篇14節)この約束を信じて生きるのがクリスチャンです。どんな時も私たちのそばにおられる神は、私たちを裏切らず、み言葉の約束通り一人ひとりの具体的な生活の中で、ご自身の愛をお示しくださいます。これがキリスト者に与えられている恵みです。

2014年5月18日日曜日

礼拝メッセージ  2014年 5月 18日

説教題   「神の言葉に生かされる
聖 書   エゼキエル書 第2章1〜10節
(序論) 健康食品の多さに驚きます。人は、肉体的に健康であることを気にしがちですが、人間は精神的な生き物であることを忘れてはいけません。加えて、神様との関係を切に求める霊的な存在であることも自覚することが大切です。

(本論) 人間が神様との正しい関係を確立して、人生の土台とし、その人生を支え励ましてくれるのが聖書です。聖書は、すべて神の霊感をうけて書かれたものであって、人を教え、戒め、正しくし、義に導くのに有益である。それによって、神の人が、あらゆる良いわざに対して十分な準備ができて、完全にととのえられた者になるのである」(テモテへの第二の手紙4:16、17)
 クリスチャンは信仰と生活の規範として聖書を「聖典」と信じ受け入れます。道に迷う時、道標が進むべき方向を示してくれるように、聖書は私たちの人生のあらゆる出来事に答えを出して、完全に教え導いてくれます。教会が聖書を読むことに力を抜いた時、悲惨な結果になることは歴史が証明しています。エゼキエルはみ言葉を食べなさいと表現しています。(エゼキル書2:8~3:3)

(結論) イエス様はご自分を「天よりのパン、命のパン」と言われました。「わたしが命のパンである。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決してかわくことがない」(ヨハネによる福音書6:35)
 時に聖書には哀歌とうめきと嘆きの言葉もあります。しかし、これをよくかんで腹に納めるとき、はつらつとした喜びがあふれます。聖書は、にがさの後に甘い蜜の幸せを経験させます。命の糧が私たちを永遠に生かしてくださいます。まず、聖書を手元に置きましょう。そして開きましょう。

2014年5月13日火曜日

礼拝メッセージ  2014年 5月 11日

説教題   「人の計算が崩れる時」

聖 書   創世記 第32章22〜32節

(序論) 母の日の起源:5月の第二聖日は「母の日」として特別に母を覚えて礼拝する習わしがキリスト教会にはあります。1905年5月9日、アメリカのバージニア州ウェブスターのメソジスト教会で40年近く日曜学校(教会学校)の教師として奉仕されたクレア・ジャーヴィス婦人が亡くなり、その娘アンナ・ジャーヴィスはお母さんの好きだったカーネーションの花を沢山飾ってお母さんをしのびました。このことが列席者に大きな感動を与え、その後、1914年アメリカの祝日と定められ、世界中に広まったのです。

(本論) 人は誰しも、母のやさしさと強さに育まれて人生の土台を作ってもらいました。時には悲しい母との思い出しかない人においても、今自分が生き働き、家族を持ち、友を持っていることが、生きる力となっています。神と人の前に謙遜になって、この日、「お母さん、ありがとう」と感謝しましょう。

(結論) 神は御自身のふところに私たちが帰るまで、この混沌とした社会の中で忍耐強く導き支えてくださいます。私たちは生かされて、萌える野山の緑のように人をいやし励ます者に育てられます。そして、神さまとの出会いが、摂理のうちに用意されていることに気づくのです。 

2014年5月4日日曜日

礼拝メッセージ2014年 5月4日

説教題   「小さき者からの光」

聖 書   マタイによる福音書 第18章1~6節

(序論) 五月晴れの空に泳ぐ鯉のぼりに、子どもへの親の愛を感じます。子を思う親心です。日本社会に生きる私たちが教え語り伝えたいことは、共に生きる他者への配慮です。人は他者から沢山の愛をいただいて生かされていることを悟る時、他者を大切にする者になれます。主の弟子たちでさえ、誰が一番偉いかと互いに競い合いました。しかし、主は「神の国」では誰が偉いのかを問題とされました。

(本論) 主は幼な子を会衆の真ん中に立たせて、誰でも「心を入れかえて幼な子の様にならなければ」と、低さを強調されました。価値観の多様さの中で低さを積極的に闘いとれと言われます。人は皆共存する喜びを経験して、他者に対して寛容になれます。そして生まれ変わって自分と共に隣人に配慮する者となれます。これは「生まれ変わって」と言われる本当の意味で自分を知り、神に導かれて人間理解をすることの苦闘を通過できるのです。人は「試練」を通して神の真実を分からせていただけます。(Ⅰコリント10:1-13)
 子育ては祈りによって支えられ、望みをもって常に戦うことを求められています。大切なのは、「主の薫陶と訓戒によって」子どもを育てることです。子育ての望みは、「神様の助けがある」との信仰にあります。

(結論) 「植える者も水を注ぐ者も、ともに取るに足りない。大事なのは、成長させて下さる神のみである。」(コリント人への第一の手紙3章7節)ここに福音的教育の成果を見せていただけるのです。苦闘の中に神様の導きと助けが必ずあると信じられる時、すべてを感謝に変えていただけます。人生はいつも一つの締めくくりの時、「感謝の実を結ぶ」。このことが大切なことだと思います。