2015年9月27日日曜日

礼拝メッセージ  2015年 9月 27日
説教題  「弱さを誇れる強さ
聖  書  ヘブル人への手紙 第4章14〜16節
(序論) 私のような者が、神様を礼拝するためにこの場にいることを不思議に思います。神様を信じることができたことも人生における不思議な経験でした。語りかける神が、あるがままの自分を気づかせて下さった時、自分の生きる務めを見出させて下さったのです。
(本論) 誰しもこれさえなければと思う弱さと言えるものを持っています。パウロも自分の弱さをとって下さいと祈りました。しかし、神様の答えは、「わたしの恵みはあなたに対して十分である。むしろ自分の弱さと一緒に生きなさい」(コリント人への第二の手紙12章7~10節)でした。弱さを与えられている自分でも、自分らしく生きることができる、という本当の強さを神様は与えて下さいます。その確かさは、イエス様は罪をほかにして、私たちと同じ試練を味わってくださったお方ゆえに、私たちに同情して、どんな時も時機を得た助け手となって下さるのだと聖書は語っているからです。イエス様は、大祭司の務めを果たして下さるお方です。このお方の手のぬ くもりの中で、強さを与えられ、この世で生きる者とされているのが私たちです。神様による強さを教えられましょう。(ヘブル人への手紙4章14節~16節)を味わってください)
(結論) アンデルセンの「みにくいあひるの子」を思い出してください。白鳥の子は、あひるの中ではみにくいものとしてのけ者にされ、差別された存在でした。しかし、このヒナは、輝く白鳥の子だったのです。自分に与えられた本当の価値を天下に示すまで、自分の時が来ることを忍耐強く待ったのです。キリスト者とは、世間にどう評価されようと、神様は最善をもって私たちを生かし、この世における私に務めを果たさせて下さると信じている存在なのです。自分の弱さを知りつつ、しなやかな強さをもっている。これが、信仰者です。

2015年9月21日月曜日

礼拝メッセージ  2015年 9月 20日
説教題  「隣人は誰か
聖  書  ルカによる福音書 第10章25〜28節
(序論) 神様が私たちに求められる一番の戒めは心をつくし、精神をつくし、力をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ。また、自分を愛するように、あなたの隣り人を愛せよ」ルカによる福音書10章27節)です。ここに神と人間同士の良い関係づくりの基礎があります。
(本論) 今日のテキストは良きサマリヤ人と言われる有名な話です。あるユダヤ人がエルサレムからエリコに下る夜道で強盗に襲われ、半殺しの目にあったのです。祭司、レビ人が通りかかります。傷ついた者は、彼らがきっと自分を助けてくれるに違いないと思ったでしょう。しかし、彼らは見て見ぬふりをし、向こう側を通り過ぎてしまったのです。失望し落胆します。その時、もう一人の人が近づいてきます。しかし、この人はサマリヤ人でした。日頃、差別と偏見の中で関わることのない人です。ユダヤ人にとってサマリヤ人は神の呪いの中に生きている者として軽蔑していた人です。しかし、このサマリヤ人は彼に近づき、出来得る最大の愛の行動をします。気 の毒に思うその気持ちが日頃の悪い関係を越えて、彼は具体的な支えの手を差し伸べます。この苦しみの中のユダヤ人に愛の行為を示したサマリヤ人こそ、不幸な人間関係を幸せな関係に取り戻させます。
(結論) イエス様は、「あなたも行ってサマリヤ人のごとく誰かの隣人であれ」と私たちに求めておられます。自分のことばかりでなく、他人の苦しみや痛みが感じ取れる優しさによって、愛の人に変わることができます。イエス様の十字架は、神が私たちの隣人になってくださった証明でもあります。「この人を見よ」という賛美歌を歌う時、イエス様に似ていくクリスチャンに変えられたいと願う祈りに導かれます。誰かが私の隣人になってくれたからこそ、今の自分があります。誰かの隣人にお互いならせていただきましょう。

2015年9月13日日曜日

礼拝メッセージ  2015年 9月 13日
説教題  「主が備えられる
聖  書  ヨシュア記 第1章1〜9節
(序論) イエス様が「私に従う者となれ。あなたの人生で起こるすべてを祝福に変える」と言われました。この言葉はどんな時にも私たちに望みがあることの保障です。考えてみれば、この世界も、自然も、人の人生も、色々な節目を通過しながら、美しく強くならせていただいたように思います。神様はピンチの後にチャンスを用意してくださった、と思える恵みを味わった今日までのお互いの歩みでした。
(本論) 偉大なモーセが死んだ時、人々は不安を覚えました。しかし、神はヨシュアを選び召してイスラエルのリーダーとしてお用いくださいました。この大きな負わされた十字架に対してヨシュアは神に訴えます:「モーセと共におられたように私と共に行動してください。どんな時も見放さず、見捨てず、目的を果たさせて下さい」。これがヨシュアの祈りであり、「神は常に先手を打って必要を満たして備えてくださる」とのヨシュアの信仰でした。人は、たくさんの思い煩いをします。その時、神の前に静まることを取り戻して、神の支えの中に生きる私、神の僕である私となりえるのかがキリスト者の「試験石」です。神様は小さい者、無学な者を御手の中で作 り変えて用いてくださいます。神と共に歩む人生が私たちに与えられているのです。この歩みを歩み通すことが、神様の最も喜ばれることだと信仰の先輩達は証ししています。
(結論) 私たちは、福音の運び手としてこの世に派遣され、暗い時代の中でも人々の先頭に立って輝いていることを求められている群れです。この先立つ者として人々に仕えることのできる者です。神は、ヨシュアに語ります:あなたの道は栄え、あなたは勝利を得るであろう」(ヨシュア記1章8節)。このお方が私たちの信じる神様です

2015年9月6日日曜日

礼拝メッセージ  2015年 9月 6日
説教題  「互いの居場所
聖  書  ルカによる福音書 第10章38〜42節
説  教  日常的な出来事の中に、大事な意味ある人生の真が隠されています。イエス様とマルタ、マリアの出会いの一場面 
 が今日のテキストです。
 姉のマルタは、接待の事で忙しく心を取り乱しています。その中で妹のマリアは主の足もとに座って、御言に聞き入っていたのです。イエス様はこの二人の間に入って判定を下しますマルタよ、マルタよ、あなたは多くのことに心をくばって思いわずらっている。しかし、無くてならないものは多くない。いや、一つだけである」ルカによる福音書10章41、42節)。
 わたしが語る言葉を聞いてほしいと求められているイエス様。ここに私たちの平安があり、居場所があるのです。神様は私たちがどうすることを望まれているのかを考え、それを自分の生活の規範にする営みが信仰生活です。インマヌエルの主と呼ばれる方のそばに自分の居場所があると信じられる者は、御手の中に自分を委ねきれる者です。「御言に聞き入っていた」、この場所を確保したマリアの行為こそ大切だとイエス様は認めておられます。
 御言を心に留め、イエス様との親しい関わり持つ人が人生の勝利者となります。聖書はこう約束しています:「世に勝つ者はだれか。イエスを神の子と信じる者ではないか」ヨハネの第一の手紙5章5節)。パウロも、「神がわたしたちの味方であるなら、誰がわたしたちに敵し得ようか(ローマ人への手紙8章31節)と、人生の勝利宣言をしています。生きる気力と活力は、主イエスの言葉によって回復されます。御言に聞き入っていたマリアの場所を、私たちも自分の居場所といたしましょう。