2016年9月20日火曜日

礼拝メッセージ  2016年 9月 18
説教題  「失望させない神」
聖  書  創世記 21章1〜3
(序論)伝道書の3章1節に「天の下では、何事も定まった時期があり、すべての営みには時がある。生まれるのに時があり、死ぬのに時がある。」とあるように、神様は時を持っておられます。ゆえに、私たちには神様の時を待つ心の用意が必要です。 
(本論)「来年の春、わたしは必ずあなたの所に帰ってきましょう。その時、あなたの妻サラには男の子が生まれているでしょう」(創世記18:10)
 もしアブラハムが、ハランで約束された子を、自分の胸に抱くまでに25年間待たなければならないことを聞いたならば、大きく失望したに違いありません。私たちも長い時間待つのが苦手です。だから恵み深い神様は、アブラハムに、長い年月は隠されていました。その年月が経過し、あと数か月という時になって「来年の春(神の定めの時)に、サラには男の子が生まれているでしょう。」と神は語られました。
 定められた時は、ついに来ました。笑いが家庭に満ち、老夫婦は、長かった待望の時を忘れました。「待ち望む者よ。心強くあれ。あなたは、あなたを失望させない神を待っているのです。神は定まった時を、たとえ五分であっても遅らせることはなさらない。間もなく、あなたの悲しみは歓喜へと変わる」(荒野の泉・カウマン夫人) 
(結論)「ローマは一日にして成らず」大きな仕事は、一日では成されない。神様は、一瞬にして美しい日没の風景はあえて作られません。待ち望む時間も大切です「神のなさることは、すべて時にかなって美しい。神はまた、人の心に永遠を思う心を与えられた。しかし、神のなさる業を初めから終わりまで、見極めることは許されていない。」(伝道書3:11)

2016年9月11日日曜日

礼拝メッセージ  2016年 9月 11
説教題  「パウロの信仰告白」
聖  書  使徒行伝 27章22〜25
(序論)私たちの人生には数知れない「ユーラクロン」の暴風が襲って来ます。家庭や職場、病気との戦いなどの暴風です。その中の死の「ユーラクロン」に遭うと、人々はあらゆる手段を使って暴風を回避しようと試みますが、いざ、死に直面すると、それまではイエス様を信じることを馬鹿にしていた人たちも、そうはしていられなくなります。このような「ユーラクロン」に遭った時のパウロの信仰告白を通して、私たちは暴風を克服する秘密を悟ることができます。
(本論)第一にパウロは、「私の主で(私の属している)」(新改訳)という信仰告白しました。この地で生きている人は、神に属するか、あるいはこの世に属するか、二つの内のどちらかに属しています。神に属している人は、イエス様を救い主と信じ、口で告白して、心の中に神の聖霊が臨在されています。
 第二に、パウロは、「私が仕え礼拝している神」と告白しました。人は、この世に仕えるか、神に仕えるか、二つの内のどちらかを選ばなくてはなりません。この世に仕える人は、いつか捨てられます。「ユーラクロン」の暴風の前で、船のすべての積荷や船具を捨てたように、この世の名誉や地位や財産は瞬く間になくなってしまいます。
 しかし、神に仕える人は決して捨てられることはありません。神がこの世に来られたのは、貧しく、疎外され、見捨てられた人たちと共におられるためでした。私たちのために命まで捨てて下さった主が、私たちを捨てられるわけがありません。ヘブル書135節で、主ご自身がこう言われるのです。「私は決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない。」
(結論)最後にパウロは「万事は私に告げられた通りになって行く。」と信仰告白しました。今日、あなたの生活の中に「ユーラクロン」のような問題がありますか。それなら祈って下さい。パウロのように大胆に告白して下さい。「私の主、すなわち私の仕える神が、万事解決して下さる」と。








2016年9月4日日曜日

礼拝メッセージ  2016年 9月 4
説教題  「失望と神の期待」
聖  書  使徒行伝 13章13
(序論) ここに登場するヨハネは、ヨハネ・マルコで、マルコの福音書の著者マルコです。使徒行伝15章36節以降を見ると、マルコは、パウロとバルナバ達と伝道旅行中であったが、一行から離れてエルサレムに帰ったとあります。伝道旅行の厳しさ、危険、困難について行けなかったのかもしれません。素晴らしい福音書を残したマルコでさえ、このようなことがあったことは、弱い私たちへの慰めであり希望でもあります
(本論) マルコは、親戚にバルバナを持つような人だから、若いとは言え十分に伝道旅行にも一緒にやっていける、と期待されすぎたのではないかと思われます。あまりにも多くのことを、周りの人がマルコに強要しすぎたのでしょうか。私たちにも起こることです。まだ準備が出来ていないために耐えることが出来ず、悲劇的な結果を見ることもあります。
 15章36節以降でバルバナがパウロに、マルコにもう一度チャンスを与えてやったらどうかと提案しますが、パウロはそれを拒絶しています。
パウロは、バルバナとマルコの代わりにシラスを選び、次にルカを加えています。ゆえに、「バルバナはマルコを連れて、船でキプロスに渡って行った」1539節。バルバナはマルコと行動を共にするために、パウロと離れたのです。マルコは、母親が望んだと思われる伝道者とはなりませんでしたが、マルコの名をもって知られる福音書という貴重な聖書の著者となったのは素晴らしいことです。 
(結論) 神様は私たちに、周りの人たちが期待しているのとは全く違ったことをするのを、望んでおられる場合もあると言うことを教えられます。そして、バルバナのような人を起こして、私たちの手を取って導き、新しい奉仕に導かれることもあります。一度や二度、失敗しても神様を仰ぎ進んで行きましょう。