2018年10月29日月曜日

礼拝メッセージ  2018年 10月 28日 
説教題  「人生で最も危険な時」 
聖  書  歴代志上 第21章1〜6節
(序論) サタンはイスラエル人を打とうと、ダビデを誘い込んで人口を数えさせます。ダビデの人口調査が罪となった理由は、その根底に神様を無視する「おごり」が隠れていたからです。主だけに信頼しなければならないのに、ダビデは自分の力を誇ろうとしたのです。   
 (本論) 1. 恵みを忘れた高慢  ダビデは、治世の晩年に、イスラエルの人口調査を命じました。歴代志の著者は「サタンが」彼を誘い込んだと記し、サムエル記の著者は、「主が」ダビデを打とうとして彼を動かしたと記しています。(サムエル記下241
そのため、この出来事は、神様の主権的な許しの中で、サタンが高慢になったダビデを誘い込んで罪を犯すように導いたと見ることが出来ます。 「サタン」は「敵対者」を意味し、「誘い込む」は「扇動する、誘惑する」という意味です。
 人口調査が罪である理由は、「剣を使う者」(5節)、つまり兵力を数えてダビデ王朝の力を誇ろうとしたためです。ダビデが戦いで勝利を重ね、彼の王座が堅く立てられたのは、すべて神様の主権的な恵みです。神様の恵みを忘れて、自分の功績を誇ることは高慢な態度です。高慢ゆえに恵みは懲らしめに変わります。 
2. 悔い改めたダビデ  ダビデの高慢な心を見抜かれた神は、ダビデの人口調査を悪とみなされました。神様は懲らしめとしてイスラエルを打たれます。王の過ちが民を危機へと追い込んだのです。神様の懲らしめが下ると、ダビデはようやく神の前に大きな罪であることを悟り、自分の愚かさを告白しました。「愚か」とは、「道徳的、霊的に愚か」であるという意味です。神様の懲らしめの理由は、正しい道に立ち返らせるためであり、罪の代価を払わせる理由は、その罪の重みを忘れないようにするためだす。
(結論) ダビデは成功の頂点で芽生えた高慢の芽に気が付きませんでした。プライドで心が遮られて、周りの忠告も聞かず、自分の考えを主張して神様に罪を犯しました。私は祈ります。神様の懲らしめの前で心から悔い改めますから、大いなるあなたのあわれみをもって罪の赦しと恵みを私にお与えください。

2018年10月16日火曜日

礼拝メッセージ  2018年 10月 14日 
奨  励  村上幸康兄
奨励 題  「神の選び(力の源泉)」 
聖  書  士師記 第14篇1〜4節
(序論)  指導者ヨシュアが死んで久しくなり、主がイスラエルの為に行われた業を知らない人々が増え、イスラエルの人々は、真の神を離れ、偶像に仕え主の前に悪を行いました。ゆえに主は怒られ、かすめ奪う周囲の敵の手に民を渡し、イスラエルを悩ませられました。イスラエルの人々はひどく悩み、主に守りと助けを求めました。主は、さばきづかさを起こして、彼らを救い出されました。
 
(本論) 士師記には、神により救国者(士師)が12人起こされたとあり、12番目がサムソンです。
ダンの部族にマノアという人がいて、その妻はうまずめで子どもを産んだことのない人でした。そこへみ使いが現れて「あなたは男の子を産むでしょう。あなたは気を付けてぶどう酒も濃い酒も飲んではいけません。汚れた物も食べてはいけません。その子が生まれたら頭にカミソリを当ててはなりません。その子は生まれた時から神に捧げられた『ナジル人』です。 彼はペリシテ人の手からイスラエルを救い始めるでしょう。」 やがて約束の男の子供が生まれ、サムソン(太陽のような人)と名付けられました。その当時イスラエルは、ペリシテ人に支配され苦しめられていました。 彼はすくすく成長して立派な若者になりました。サムソンはペリシテの町テムナに下って行って、一人の女 を見そめ父母に、「彼女をめとって私の妻にして下さい」と言うと、両親は「割礼のないペリシテの女と結婚してはいけません。イスラエルに女の人がいるではないかと言われます。しかし、サムソンは彼女が私の心にかないますからと、後に引きません。このことは、神がサムソンを用いてペリシテ人からイスラエルを救う機会を与えようとしておられたことによるのです。サムソンは怪力を神から与えられ素晴らしい働きをしましたが、彼の欠点は女性に弱いことでした。しかし、その弱点を用いて、何度も主はペリシテからイスラエルを救われました。
(結論) 神は欠点も良きに変えて用いられます。
    「私が弱い時にこそ、私は強いからである」(第2コリント12章10節)

2018年10月9日火曜日

礼拝メッセージ  2018年 10月 7日 
説教題  「主を避け所とする者」 
聖  書  詩篇 第91篇1〜10節
(序論)  この91篇は、 1.神様を信頼する者は危険より守られること 2.神様を信じ神様を愛する者に対する、神様の助けと約束、 が語られています。 詩人は、1、2節で、自分も信じていることを発表して神様を避け所とし、人にもこの信仰を持つように勧め、力づけています。神様は、敵の矢を防ぐ盾のように、また、サタンから来るすべての災いと、災害、伝染病より守られるのだから恐れるに足らない、と告白します。
 
(本論) たとえ千人万人が右手に倒れても、それはあなたには近づかない。それは、あなたが主を避け所とし、いと高き方を住まいとしたから、何も恐れることはない、という確信の告白です。これは新約聖書における「主は私の助け主である。わたしには恐れがない。人は、わたしに何ができようか」(ヘブル136)の確信の声に似ています。
 1. 恐れない理由、平安でいられる秘訣  人生の危機の中で最も安全な避け所は、神様です。神様を隠れ場とする者は、恐れません。神様への全き信頼の前に、恐れは退きます。主は契約に忠実なお方です。日々、「わが避け所、わがとりで、わたしの信頼するわが神」と主に告白する者は、11節、「み使いたちに命じて、あなたの歩むすべての道で、守られる」と聖書は語ります。
 2. 愛と信頼を持って祈り求める者  神のみ使い、主の助けにより、悪しき勢力を踏みにじり、誘惑に打ち勝つことが出来ます。苦難は、神様の臨在と御力を生き生きと経験する機会となります。神様への愛と献身そして切なる祈りは、神の御力を速やかに経験させてくれる、はしごのようなものです。愛と信頼を持って神に祈り求める者に、神様は長寿と救いの恵みを与えてくださると聖書は語ります。  
 
(結論) 世の患難は、神を愛し、信頼する者たちを決して倒すことは出来ません。苦しみの時、神様は約束通り、私たちと共にいて、苦難から救い出し、誉を与えてくださいます。私の避け所、堅固なとりで、大楯となってくださる主により頼みます。
いつも共にいて下さる主と深く交わることが出来ますように。