2015年2月22日日曜日

礼拝メッセージ  2015年 2月22
説教題   「落胆しない
聖 書  ピレモンへの手紙4〜7節
(序論) 人生とは神と出会い、自分と出会い、隣人(他人)と出会う旅だと言われます。そして、人はいろいろ考えさせられることを通して、自分の進む方向を自己決定しつつ、自分らしく生き、生かされることを自覚して、自分の務めを果たしていくのだと聖書は教えています。人は、神様に出会うことで自分の価値に気づき、誰かに期待され気づかわれ愛されている自分を知って感動します。私たちは神様の御手の中の宝石なのです。この宝石は磨かれるまで、人にも自分にもその輝かが隠されています。

(本論) 聖書の中の一番短い手紙はピレモンへの手紙です。たった25節の極めて個人的な私信です。聖書の中にどうしてこの手紙が紛れ込んでいるのかと思うほどです。しかし、神様の行き届いた配慮がこの手紙の中にもなされていると思うのです。その主役は奴隷オネシモです。彼は主人に対して何か不都合なことをしてしまい、放浪の旅人となりました。そこで彼はパウロに出会い無益な者ではなく有益な者として再出発の道を歩いていくのです。ここにキリスト教の人間観、人生の価値の最発見があります。人は神様に見出されて人生観を変えられます。信仰によって育てられたオネシモとパウロの関係は愛する兄弟としてお互いに尊敬し合う関係となりました。有益なキリスト者にま で成長する主にある信頼関係です。恵みの眼差しで人を見ることができる時、喜ぶ者と交わる幸い、苦しむ時共に十字架を共有する幸いがあります。

(結論) 人は自分の中に神の愛による自己発見をする時、人生の生きがいが生まれてきます。私たちは、人との出会いを通してお互いへの穏やかな真実の祈り合いが生まれます。誰に対しても愛の人になれますように。「愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。」コリント人への第一の手紙第13章4節)

2015年2月15日日曜日

礼拝メッセージ  2015年 2月15
説教題   「私たちを用いる神
聖 書   ピリピ人への手紙 第1章12〜17節
(序論) 神様は、私たちを色々な時と方法で用いて鍛えられます。詩篇23篇には、良き牧者は羊を「緑の牧場に伏させ、いこいのみぎわに伴われる」とあります。私たちの神は目的を持って私たちに語りかける神様です。だから、静かに語りかける神の声を聞こうと身を低くして、神様に向き合うことに努めましょう。

(本論) パウロは今、ローマの獄中に拘束されています。この不自由さと辱めの中にあっても、彼は少しも気落ちしていません。「兄弟たちよ。私の身に起こったことが、むしろ福音の前進に役立つようになったことを、あなたがたに知ってもらいたい。」(ピリピ人への手紙第1章12節)と叫んでいます。真の宗教は、逆境の中で力を発揮します。弱さを強め絶望の中で本当の希望の光を輝かせるのです。神様は一つひとつのことを用いて、信仰の勇者にならせて下さいます。神様に用いられるキリスト者は、どんな時もつぶやかず疑わないで、そこにみ旨があることを信じて、すべてを神様にお任せします。闇の中に輝く望みの光が見える、これがキリスト者の特権です。パウロは 新しい望みをこの牢獄の中から発信します。」

(結論) パウロのは、死ぬことも生きることも祝福だと認識しています。力の主は嵐の中でご自身を現します。福音による生き方を「アーメン」と静かに受け入れましょう。信仰によって生きることは、小さな生き方から広い場所に出て行く勇気を神様からいただくことです。神様に用いられるために自分を御手に委ねましょう。聖書の言葉が、あなたに真の光を届けて、生きがいのある人生を見つけ出させてくださいます。私たちは、神の働きに参加することを許され、その務めを与えられています。「わたしがここにおります。わたしをおつかわしください。」(イザヤ書第6章8節)と信仰告白をいたしましょう。

2015年2月8日日曜日

礼拝メッセージ  2015年 2月 8
説教題   「主のひざもとに座す
聖 書   ルカによる福音書 第10章38~42節
(序論) 弱さの中のキリスト者に目をとめて、お互の中に共通する思いを自覚し、上からの力をいただきたいと思います。慈愛の神は、「恐れないで私に従いなさい」と言われます。神の語りかけが聞こえる時、そこに希望が与えられます。イエス様の母マリアへの心づかい、パウロの獄中での喜びと感謝の力強い信仰、友に支えられた中風の者への癒し、これらの方々は私たちに弱さの中の祝福を見せてくださいます。

(本論) 今朝、マルタとマリアの平凡な生活の中で起こるイエス様とのそれぞれの関わりから信仰を学びましょう。イエス様がマルタとマリアの家に寄られた時の話です。この姉妹はイエス様の訪問を歓迎し、かいがいしくもてなします。姉のマルタはあれもこれもと、もてなしの行為に疲れ果てます。彼女はイエス様に訴えます:「主よ、妹が私だけに接待をさせているのを何ともお思いになりませんか」(ルカによる福音書10章40節)。私たちの身近にある不満です。しかし、イエス様はマルタに求めます「あなたは、多くのことに心を配って思いわずらっている。しかし、無くてならぬものは多くはない。いや、一つだけである。」静かに私の言葉を聞いてくれることが私への一番の接待です。」と言われた。静まりを私たちに求められています。個人的なイエス様との語らい、それが礼拝であり祈りです。

(結論) 忙しさが自分の不満を他人にぶつけて人間関係を壊します。心のうるおいを失い短気になり、苛立って人を責める時、「無くてならぬものはただ一つだけ」と言われたこの一つを静かに教えていただきましょう。御言葉を味わい、自分の生活のリズムを整えるために、「主のひざもとに座す」ことこそ「静まって、私こそ神であることを知れ」(詩篇46章10節)への応答であります。聖書を開くときを聖別して、御言葉を聴く習慣を身につけましょう。

2015年2月1日日曜日

礼拝メッセージ  2015年 2月 1
説教題   「友に支えられて
聖 書   マルコによる福音書 第2章1~5節
(序論) 「私の中で他人の花は咲かない。他人の中で私の花は咲かない。私には、私の中で私の花が咲く。枯れゆく花、そよ風にも散りそうな弱い花、それでも一生懸命に咲こうと努力する弱い花、そういう花を私は飾りたい。」
 この詩に出会ったとき、他人と比べて優越感を持たず、足りない自分を見せられても劣等感を持たず、自分らしさで満足する、そんなクリスチャンになりたいと思ったものです。この詩の中には感謝と喜びと祈りがあるキリスト者の姿があります。

(本論) 聖書には、「互いに支え合って人は育てられる」(ガラテヤ人への手紙6章1,2節)と書いてあります。自分を静かに見つめる時、弱さの中にやさしくなれる自分を見つけることができます。寒風の中に三色すみれが咲いています。葉ぼたんが色鮮やかに自己主張しているのを見ると望みが持てます。
 ここに四人の人が一人の病人の友人を癒してもらおうと、イエス様のところへ運んだ話があります。病気の友人への愛が彼らを大胆な行動(屋根をはぎ、穴をあけて病人を床に寝かせたままつり下ろした)に駆り立てます。イエス様は彼らの信仰を見て、中風の者の罪のゆるしと病からの開放を見せてくださいました。

(結論) 人は支えられて互いを頼りとして生きる者です。私が誰かに頼られ、私も誰かを友として信頼する時、支え合う喜びが生きる力となります。信頼し合う支えです。信仰生活でもまた、キリストの愛に誘発されて私が誰かに支えられていることに気づかされます。人は、結局一人で生きる者です。しかし、親しい友人に支えられて頑張って生きる、これも事実ではないでしょうか。四人の友情が一人の病人をイエス様の証し人に仕立てました。伝道の書にこうあります:「ふたりはひとりにまさる。彼らはその労苦によって良い報いを得るからである。すなわち彼らが倒れる時には、そのひとりがその友を助け起こす。」伝道の書4章9,10節)主にある友情が信仰を活性化させます。