2020年12月27日日曜日

礼拝メッセージ 2020年12月27日
説教題 栄光とこしえに神にあれ
   詩篇150篇1~6節
(序論)詩篇全体150篇の最後の5篇、146篇から150篇までは「ハレルヤ」
で始まり「ハレルヤ」で終わる詩でまとめられています。「ハレル」は「ほめたたえよ」、「ヤ」は主(ヤハウェ)を短くしたものです。ですから「ハレルヤ」は「主をほめたたえよ」という、神である主を賛美する言葉です。
(本論)この150篇は、詩篇全体の結びの詩です。初めから終わりまで神様賛美で貫かれています。私達の生活も、朝から夕べに至るまで、主をほめたたえることで始まり、終わるなら何と幸いな一日でしょうか。150篇に、13回「ハレル、ハレル、ハレル」と繰り返す、とても力強い、底抜けに明るい歌になっています。
詩篇は全部で150篇。そこに人間の生活の恵みや、喜びも苦しみや戦いも、歌われています。神の民の歩みにも、闇があり、浮き沈みがあることが、にじみ出ています。その辛い中でも、信仰に立っている詩もあれば、怒りや憎しみに駆られて、呪いや、復讐を願う詩もあり、嘆きや訴えで終わっている詩もあります。
(1)最後は賛美をもって 神の民にも、祈っているうちに心も晴れて、ハレルヤとはいかない現実も、詩篇には十分に汲み取られています。しかし、そういう詩篇の最後に「ハレルヤ」の詩篇が並べられます。
最後は、主への賛美に至るのです。今はまだ、トンネルの中を歩み続けているような毎日かもしれません。祈っても平安がないまま、の時もあるでしょう。
しかし、その逃げられない闇の中に、そっと留まって、一歩一歩を進む、そこに見えない主が、共におられることを受け止める。そういう時が、あるのです。一年の終わりだからといって、ドラマのように全てが解決して、落ち着くわけでもないでしょう。 私たちの生活や心境は、それぞれ違います。どれが良いとか、悪いとか評価は出来ません、それぞれの人生があり、それぞれの今があります。
(結論)この詩人は、「ラッパの声をもって」「立琴と琴をもって」「鼓と踊りをもって」「音琴と笛とをもって」「高いシンバルをもって」主をほめたたえよ、と叫びます。 
角笛は、祭司の楽器、レビ人は、琴とシンバルを用いました。タンバリンと踊りは、女の人のもの、他の楽器は、一般の人々のものです。つまり、祭司も、レビ人も、一般の男女も、皆で神様を、賛美せよ、という事です。私達も心を込めて、この大合奏、大合唱に、加わり主をほめたたえましょう。
 栄光は神様に、栄光はイエス様に、栄光は聖霊さまに、帰するところにキリスト者の喜びがあります。一年52週の主の日に、栄光を主に帰して、み前にひれ伏し賛美を捧げましょう。主イエス様、新しき年も、また導いてください。栄光が、永遠に(とわ)にありますように。アーメン。

2020年12月22日火曜日

礼拝メッセージ 2020年12月20日
説教題 救い主の誕生
    ルカによる福音書2章11~14節
(序論)聖書が、世界の国の言葉の97パーセントまで翻訳されました。あと3パーセントで、地球全体に、救い主の福音が行き渡ります。聖書の言葉は、真実で生きて働いています。この「喜びのおとずれ」は、信じる者に大きな変化、革命を与えます。主の降誕は、永遠の神様が、有限の人間と姿となられた、歴史的な事実です。
(本論)(1)大きな喜び  クリスマスの喜びは二千年の間、世界のあらゆる階層に宣べ伝えられました。キリストを信じた者には、確かに心の中に、天国を頂きました。見えない神様が、見える人となって、ベツレヘムの家畜小屋にお生まれになりました。
この時、ローマ皇帝アウグストから、徴税と徴兵のために住民登録をせよ、という勅令が出、人々は自らの戸籍地に向かい、町は賑やかにごった返ししていました。しかし、羊飼いたちは、羊の番をしていました。住民登録に該当しなかったのでした。すなわち、人として数えられていなかったのでした。当時、羊飼いは、社会の最底辺に属する者たちでした。動物の世話故に、ユダヤの律法を守ることができず、人々から蔑まれていました。「愛されていない」「必要とされていない」それほど私たちの歩みにおいて苦しく、悲しいことはないでしょう。
しかし、その暗闇の中にあった羊飼いの所に、神の御使いが来て、神の栄光が回りを照らしました。神は、その羊飼いたちに、御使いを通し、救い主誕生の知らせを最初に告げられたのでした。神様は、救い主イエス様により、神と人を隔てている罪を赦し、神との平和をもたらし、人と人との平和をもたらして下さいました。
クリスマスは、神様は、ご自分から、あるべき関係が失われ、悲しみや恐れに満ちる私たちを愛し、御子イエス・キリストを救い主として、お与え下さった日です。「きょうダビデの町に、あなたがたのために、救い主がお生まれになった」
(2)インマンヌエル(神が共におられる) マタイによる福音書第1章23節に「インマンヌエル・神われらと共にいます」とあります。キリスト信仰者には、「神と共にいます」という安心感があります。神は、憐み、慰め主、助け主、良き理解者、貧しい者の友、罪の赦し、天の父親、とことん罪人の私を愛して、ひとり子さえ惜しまず、十字架にかけ、贖いのため死ぬために、この世に送られた父なる神さまの愛、を深く教えて下さいました。
(結論)暮れ行く年の瀬に、鳴り響くクリスマスの鐘は、人を愛する神様の愛の結晶のひとり子の誕生という響きであり、神様の招きの鐘です。クリスマスの最大の意義は、人々への「神様との出会い」の知らせです。この方との出会い、ここから「生きる意味」「生きる価値」「神と人を愛する心」「生かされている意味」「心の平安」「死後の不安の解消」「愛する人との天のみ国での再開の希望」が、与えられる転換点を私達に示して下さっています

2020年12月14日月曜日

礼拝メッセージ 2020年12月13日
説教題 「神の言・成就・信じた女たち」
   ルカによる福音書 1章39~45節
(序論)今日の著者ルカは、パウロのマケドニア伝道に同行し、パウロのローマ獄中生活の時に、パウロと共にいた人物です。またルカは、画家であったという伝承もあります。医者、伝道者、画家、そして福音書の記述者です。
1)自分の身を委ねたマリヤ  45節、「主のお語りになったことが、必ず成就すると信じた女は、何と幸いなことでしょう」。それを受けてマリヤは、4647節で、主をほめたたえています。これこそルカの願っている信仰者の姿勢です。
 不妊の女と呼ばれた、老齢のザカリヤとエリザベツに与えられた子は、バプテスマのヨハネで、救い主のご降誕に対する備えをする預言者となります。
マリヤが親戚のエリサベツを訪ねますが、マリヤは「急いで」行きました。
なぜかと言いますと、今日の箇所のすぐ前で、マリヤは天使からお告げをいただいていました。マリヤがイエス様を生むということです。まだ結婚していないのにです。もし、そんなことになったら大変なことです。そんなことがあったので、マリヤとしては、じっとしておれません。エリサベツに急いで会いに行きます。
どうしてエリサベツに会いに行く必要があるのでしょうか。天使のお告げの中に、こういう言葉がありました。36節です。「あなたの親類のエリサベツも、老齢ながら子を宿している」。子を産めるはずもない老齢なのに、身ごもっているんだよと、天使は教えてくれました。つまりエリサベツは、天使が与えてくれたしるしです。天使の言葉を信じることが出来るように、証拠を出してくださった訳です。
どうしてわざわざマリヤに予告されたのでしょうか。ここに、神様がどういう方なのか、ということが良く表れています。神様は、人と一緒に働く方なのです。
神様は、人と一緒に働くということを、大事になさる方なのです。神様は、何の断りもなく一方的に、何かをすることも出来ます。しかし、それは神様のやり方ではありません。38節で、マリヤは、「お言葉どおり、この身に成りますように」と言っています。別に天使が、無理やり信じさせたのではありません。マリヤが信じたのです。マリヤも普通の女の子でした。今で言う中学生くらいの年の子どもです。マリヤが、選ばれたということは、誰でも選ばれるということです。
(結論)神様は今日も、私たちが考えもしないような、大きな祝福を私たちに用意しておられます。だから今日、私たちはこのみ言葉を聞いたのです。今すぐに、ご自分の考えを退けてください。神様の側に立ってください。今日このみ言葉が実現します。

2020年12月8日火曜日

礼拝メッセージ 2020年12月6日
説教題 「こんなつまらない者の上にも」
  書  ヨハネ第一の手紙 4章10節
(序論)この章は愛の章です。ヨハネはこの手紙全体において、兄弟を愛することを勧めます。まず、兄弟を愛することは、義を行なうことであって、義を行なうのは、神から生まれているからだ、と教え、8節以降、愛は、神から出ている、とヨハネは、聖書は言います。
(1)神が私を愛された  この9節と10節において、ヨハネは、愛とは何であるか、その愛がどのように示されたか、をここで教えています。神にはひとり子なる神がおられて、ひとり子を、この世に送ってくだった。それが、人となって来られ、受肉されたという部分です。そしてキリストの御名によって、永遠のいのちを得ることができるようになりました。ここに愛があります。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。
神の愛は、無条件の愛です。私たちが神を愛したから、神に愛されているのではなく、神が私たちを、愛してくださいました。
私たちは、人に気に入られるために、人に愛されるために一生懸命になることがあります。
しかし、神様は私達が、愛されるべき理由がない、むしろ憎まれるべき理由を、たくさん持っている私に対して、神様は愛してくださいました。罪のための、「なだめの供え物」(なだめ、とはギリシア語で「ヒラステイリオン」和解、贖い、罪を償う供え物の意味)その供え物となるために、ご自分のひとり子を犠牲とされました。それほど神様は、私たちを愛してくださっています。これは私たちが、神様を愛するから愛されるという次元の問題ではなく、無条件の愛です。
(結論)神様の愛は、私達の心に弾力を与えます。悲しみも、痛みも、憂いも、神様の愛に生きる私達を、押しつぶすことは出来ません。主は、こんなつまらない者の上にも、おん目をとどめて、導いてくださいます。私達の心を、本当に慰めることが出来るのは、神様だけです。5章4,5節「すべて神から生まれた者は、世に勝つ…世に勝つものはだれか、イエスを神の子と信じる者ではないか」。この神様の愛を深く覚え、主のご降誕を待ち望みましょう