2015年10月25日日曜日

礼拝メッセージ  2015年 10月 25
説教題  「神の御心の中に生きる
聖  書  使徒行伝 第16章6〜10節
(序論) 神の確かな導きによって、私たちは生かされています。出エジプトの出来事は、神はその終わりを恵みによって、締めくくることの確かさを確信させて下さいます。得がたい信仰のレッスンを素直な聴従によって学ばせていただきます。この学びは、試練を通して、またかなえられない教材を通して与えられます。
(本論) この学びは、初代教会の人々も危機の中で訓練されました。「こうして、諸教会はその信仰を強められ、日ごとに数をましていった」(使徒行伝16:5)。パウロの宣教活動は、破竹の勢いで前進します。しかし、神の招きの目的である異邦人伝道に着手させるため、聖霊はストップをかけます。マケドニアの叫びを彼に聞かせ、ヨーロッパ伝道の開拓を示唆します。「神が私たちをお招きになったのだと確信して」(使徒行伝16:10)、直ちに行動します。「確信して」、この言葉は、「思いを定めて」、「推し量って」と他の聖書では訳されています。神様は運命として私たちを導くのではなく、御言葉を通して愛の神への応答として、私たちを祝福へと導きます 。パウロは「直ちにマケドニアに渡って行った」。この行動は、彼の常に整えられた姿勢を示しています。
(結論) 彼がいかに従順に御旨を行うことを待ち構えていたかが伝わってきます。ヨーロッパへの宣教の扉は開かれます。ピリピ教会の誕生がそのあかしです。神は備えておられました。テアテラの女商人ルデアが主にとらえられて、パウロの働きの物心両面の援助者となりました。しかし、すべてが順調であったわけではありません。迫害が彼らを待ち構えていました。;パウロたちは強いキリスト者として、整えられ、育てられます。私たちも、この朝、素直に御心の中に生きる者として、信仰をもって聖別された自分を御前に捧げましょう。

2015年10月18日日曜日

礼拝メッセージ  2015年 10月 18日
説教題  「望みがある
聖  書  ヨハネによる福音書 第11章17〜26節
(序論) どんなに社会が変わろうと、自分を失わないで自分らしく生きたいものです。私を支えてくださる神様の御手を確かめましょう。確かに、現実はなまやさしいものではあいません。誰しも絶望の淵をさ迷い、苦悶する時があります。そのような時、ラザロの死を通してイエス・キリストのなされた御業を思い出すことで、信仰による望みの回復ができることを経験するでしょう。
(本論) 主の愛されたラザロが死んで4日もたっていたのです。誰もが「もう終わりです」と結論した時、イエスの愛の行為が実行されます。道が途絶え誰の助けも期待できない時こそ、イエス様の愛の力が発揮されます。このお方を信じて一生を委ねて生きているのが私たちです。神様はいつも具体的な生活の中で、望みなき時にも望みをもって立ち上がりなさい、と声をかけてくださいます。新聖歌257番「キリストは生きておられる」を歌い続けましょう。
(結論) パウロは、自分の苦悶の事実をコリント人への第二の手紙12章で語ります。外からくる迫害の数々、加えて日々迫ってくる諸教会の心配事、望みを失ってしまいそうな中で・・・「死人をよみがえらせて下さる神を頼みとするに至った」コリント人への第二の手紙1章9節)と赤裸々に語ります。死んで生きる。この逆説的な真理を、聖霊は私たちに理解させます。この不思議な知恵に感動して聴き入る時、キリスト者の望みある人生を確信させられます。

2015年10月15日木曜日

礼拝メッセージ  2015年 10月 11日
説教題  「赦しと和解
聖  書  ヤコブの手紙 第3章13〜18節
(序論) 心穏やかさを失う時、自分の心が誰かへの嫉妬であったり、敗北であったりします。私は今、神様の慈愛の中に生かされているのだ、と強く信じましょう「私は道であり、真理であり、命である」と言われるイエス様に従って、自信を持って生きましょう。神様は、私のすべてをご存知で、私を受け入れ、しっかり生きなさいと励まし続けられます。そこに赦しの愛があります。
(本論) 苦々しいねたみや党派心、たかぶりをを持つよりも、柔和な心で隣人を祝福しなさい、これがキリスト者の生活の基本です。神様はどんな人にも、愛される良き美点を与えて下さっています。教会の庭に植えられた金木犀が香っています。この花は小さく見栄えがしません。しかし、香ることで最大限の自己主張をしています。秋を感じさせる香りです。星野富弘さんの詩にこんな言葉があります。どくだみとの会話です。「お前を大切に摘んでゆく人がいた 臭いと言われ きらわれ者のおまえだけれど 道の隅で歩く人の足許を見上げ ひっそり生きていた いつかおまえを必要とする人が現れるのを待っているかのように おまえの花 白い十字架に似ていた 」(富弘)
(結論) 私たちには、一人ひとりに良き賜物が与えられています。その自分の良さに気づくと、それを用いて神様を喜ばせる行動を起こしたくなります。イエス様が十字架にかかって死なれたのは、私を神の子どもとして取り扱ってくださるためです。神様は、私たちが良い人になったら救うとは言われません。イエス様を信じて新しい道を歩き始めましょう。清く平和で寛容で温かみのある人柄を身につけさせてくださいます。神の一方的な和解の行為が私たちの内なるものを強くして、務めある人生を歩ませて下さいます。このことを信じましょう。

2015年10月4日日曜日

礼拝メッセージ  2015年 10月 4 日
説教題  「祝福に至る道
聖  書  使徒行伝 第7章 9〜16節
(序論) 神様は不思議な計画をもって私たちの生涯を導いておられます。そう信じる時、一つ一つの出来事の中に神様の御業が見えてきます。自分の願いが叶えられることのみが信仰による恵みではありません。隣人と一緒に生きていることを楽しむことができることが、神様に変えられた人の人生です。私たちは小さく弱いものですが、神様が共に勝利に向かって歩いて下さいます。
(本論) 聖書の登場人物は、波乱万丈の人生を生きた人々の生きざまを見せてくれます。ヨセフもまた、神様によって使命ある人生を生き抜きました。主に用いられた人々の信仰の根源は、「神様は、私を絶対に支持してくださる。」との信仰でした。ヨセフの一生は、冷たい運命の中に投げ込まれた自分ではなく、上なるお方を見上げることによって、神様が私の人生に責任を取ってくださる、という信仰でした。創世記39章2節の言葉は、ヨセフの存在すべてでした。「主がヨセフと共におられたので、彼は幸運な者となり、その主人エジプトびとの家におった。その主人は主が彼と共におられることと、主が彼の手のすることをすべて栄えさせられるのを見た。」
(結論) 神様は、私たちを用いて生きている神様を証しさせます。そこには自分のことばかりでなく隣人のことも考えなさいというイエス様の声が重ね合わさります。私たちも今、この声を聴きましょう。「あなたの神、主があなたとあなたの家とに賜ったずべての良い物をもって、レビびと及びあなたのなかにいる寄留の他国人とともに喜び楽しまなければならない。」(申命記26章11節)これが私たちの世と関わる恵みの分かち合いです。