2019年9月15日日曜日

礼拝メッセージ  2019年 9月15日
説教題 「私を強くしてくださる方」
  書  ピリピ人への手紙 第4章11~13節
パウロは13節で「私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでも出来るのです」。この個所を別の訳では「私は、私のうちに力を注ぐお方にあって、どんなことでも出来ます」。「私は、私のうちに内住するお方の力を通して、何でもする準備が出来ています」。「私は、私に力を与えてくださる方にあって、すべてのことをする強さを持っています」。
私達は、経済状況の変動ばかりでなく、自然災害や、生活環境、仕事の環境などが変わると、そこで焦燥感やストレス受け、自分を見失いそうになります。喜びもなく、思い煩いや不安ばかりが増し、憂鬱になってきます。
 パウロは、ほかの聖徒の誰よりも苦難を味わい、逆境に次から次へと見舞われた人です。でも人生の敗北者になりませんでした。パウロは、「私を強くしてくださる方」、すなわち、キリストに心をいつも向け、このお方に依存し、根ざし、このお方とのしっかりとした、いのちの結合を持ち、このお方と交わり、より頼んでいました。パウロにとってキリストは生活の生ける現実でした。
 13節のみ言葉に注意すべきことは、「どんなことでも」というのは、「私のしたいことすべてのこと」ではなく、「私がすべき、どんなことでも」という意味です。このみ言葉は、自己中心的願望達成のために悪用されることがありますが、そういうことではありません。「み心が天で行われるように、地でも行われますように」という精神の中で、「主がともにいてくださるから、それは必ず出来る。だから強く雄々しくあれ」と聖書は勧め励ましています。

2019年9月2日月曜日

礼拝メッセージ  2019年 9月1日
説教題 「信じる者の叫び」
  書  列王記下 第4章1、2節
この列王紀4章は、エリシャの奉仕の記録です。27節にあるようにエリシャは、主のお言葉で成すべきことを知り、主のお言葉通りに行動しています。このことをよく見ますと、これらの記録はエリシャの働きではなく、エリシャを用いてなされた、主ご自身のみ業であることが判ります。
 ここに見る、「未亡人と預言者の会話」は、昔の話だけでなく、現代の私たち周辺でも時々見られる「家庭悲劇」の様子です。その未亡人の苦しみと、その子供たちの悲しみを、最もよく知っておられたのが神様だ、と聖書は無言のうちに語っています。
 私たちは、このような「愛の奇跡」を信じる時に、どのような闇の中にも、神様の愛を仰ぐとき、光を見い出すことが出来ます。一びんの油から無限に恵みの油があふれ流れたように、また神様の愛と憐れみは、主を信じる者の上に、無限に注がれていることを確信できます。
「あなたのために何をしましょうか。あなたの家に、どんな物があるか、言いなさい」これは預言者エリシャの言葉ですが、同時にまた、神様の声でもあります。 不可能を可能とし、無から有を呼び出される神様が、未亡人の家庭をお救い下さったように、主を信じる者の叫びにも、あわれみの手を延べてくださることを聖書は言わんとしています。
 主なる神様は今も、「あなたのために何をしましょうか」と尋ねておられます。あなたの心の重荷を悲しみ苦しみを、主に申し上げましょう。主は信じ求める者を決して、いつまでもその苦しみを不条理を、そのまま放置なさいません。