2020年12月27日日曜日

礼拝メッセージ 2020年12月27日
説教題 栄光とこしえに神にあれ
   詩篇150篇1~6節
(序論)詩篇全体150篇の最後の5篇、146篇から150篇までは「ハレルヤ」
で始まり「ハレルヤ」で終わる詩でまとめられています。「ハレル」は「ほめたたえよ」、「ヤ」は主(ヤハウェ)を短くしたものです。ですから「ハレルヤ」は「主をほめたたえよ」という、神である主を賛美する言葉です。
(本論)この150篇は、詩篇全体の結びの詩です。初めから終わりまで神様賛美で貫かれています。私達の生活も、朝から夕べに至るまで、主をほめたたえることで始まり、終わるなら何と幸いな一日でしょうか。150篇に、13回「ハレル、ハレル、ハレル」と繰り返す、とても力強い、底抜けに明るい歌になっています。
詩篇は全部で150篇。そこに人間の生活の恵みや、喜びも苦しみや戦いも、歌われています。神の民の歩みにも、闇があり、浮き沈みがあることが、にじみ出ています。その辛い中でも、信仰に立っている詩もあれば、怒りや憎しみに駆られて、呪いや、復讐を願う詩もあり、嘆きや訴えで終わっている詩もあります。
(1)最後は賛美をもって 神の民にも、祈っているうちに心も晴れて、ハレルヤとはいかない現実も、詩篇には十分に汲み取られています。しかし、そういう詩篇の最後に「ハレルヤ」の詩篇が並べられます。
最後は、主への賛美に至るのです。今はまだ、トンネルの中を歩み続けているような毎日かもしれません。祈っても平安がないまま、の時もあるでしょう。
しかし、その逃げられない闇の中に、そっと留まって、一歩一歩を進む、そこに見えない主が、共におられることを受け止める。そういう時が、あるのです。一年の終わりだからといって、ドラマのように全てが解決して、落ち着くわけでもないでしょう。 私たちの生活や心境は、それぞれ違います。どれが良いとか、悪いとか評価は出来ません、それぞれの人生があり、それぞれの今があります。
(結論)この詩人は、「ラッパの声をもって」「立琴と琴をもって」「鼓と踊りをもって」「音琴と笛とをもって」「高いシンバルをもって」主をほめたたえよ、と叫びます。 
角笛は、祭司の楽器、レビ人は、琴とシンバルを用いました。タンバリンと踊りは、女の人のもの、他の楽器は、一般の人々のものです。つまり、祭司も、レビ人も、一般の男女も、皆で神様を、賛美せよ、という事です。私達も心を込めて、この大合奏、大合唱に、加わり主をほめたたえましょう。
 栄光は神様に、栄光はイエス様に、栄光は聖霊さまに、帰するところにキリスト者の喜びがあります。一年52週の主の日に、栄光を主に帰して、み前にひれ伏し賛美を捧げましょう。主イエス様、新しき年も、また導いてください。栄光が、永遠に(とわ)にありますように。アーメン。

2020年12月22日火曜日

礼拝メッセージ 2020年12月20日
説教題 救い主の誕生
    ルカによる福音書2章11~14節
(序論)聖書が、世界の国の言葉の97パーセントまで翻訳されました。あと3パーセントで、地球全体に、救い主の福音が行き渡ります。聖書の言葉は、真実で生きて働いています。この「喜びのおとずれ」は、信じる者に大きな変化、革命を与えます。主の降誕は、永遠の神様が、有限の人間と姿となられた、歴史的な事実です。
(本論)(1)大きな喜び  クリスマスの喜びは二千年の間、世界のあらゆる階層に宣べ伝えられました。キリストを信じた者には、確かに心の中に、天国を頂きました。見えない神様が、見える人となって、ベツレヘムの家畜小屋にお生まれになりました。
この時、ローマ皇帝アウグストから、徴税と徴兵のために住民登録をせよ、という勅令が出、人々は自らの戸籍地に向かい、町は賑やかにごった返ししていました。しかし、羊飼いたちは、羊の番をしていました。住民登録に該当しなかったのでした。すなわち、人として数えられていなかったのでした。当時、羊飼いは、社会の最底辺に属する者たちでした。動物の世話故に、ユダヤの律法を守ることができず、人々から蔑まれていました。「愛されていない」「必要とされていない」それほど私たちの歩みにおいて苦しく、悲しいことはないでしょう。
しかし、その暗闇の中にあった羊飼いの所に、神の御使いが来て、神の栄光が回りを照らしました。神は、その羊飼いたちに、御使いを通し、救い主誕生の知らせを最初に告げられたのでした。神様は、救い主イエス様により、神と人を隔てている罪を赦し、神との平和をもたらし、人と人との平和をもたらして下さいました。
クリスマスは、神様は、ご自分から、あるべき関係が失われ、悲しみや恐れに満ちる私たちを愛し、御子イエス・キリストを救い主として、お与え下さった日です。「きょうダビデの町に、あなたがたのために、救い主がお生まれになった」
(2)インマンヌエル(神が共におられる) マタイによる福音書第1章23節に「インマンヌエル・神われらと共にいます」とあります。キリスト信仰者には、「神と共にいます」という安心感があります。神は、憐み、慰め主、助け主、良き理解者、貧しい者の友、罪の赦し、天の父親、とことん罪人の私を愛して、ひとり子さえ惜しまず、十字架にかけ、贖いのため死ぬために、この世に送られた父なる神さまの愛、を深く教えて下さいました。
(結論)暮れ行く年の瀬に、鳴り響くクリスマスの鐘は、人を愛する神様の愛の結晶のひとり子の誕生という響きであり、神様の招きの鐘です。クリスマスの最大の意義は、人々への「神様との出会い」の知らせです。この方との出会い、ここから「生きる意味」「生きる価値」「神と人を愛する心」「生かされている意味」「心の平安」「死後の不安の解消」「愛する人との天のみ国での再開の希望」が、与えられる転換点を私達に示して下さっています

2020年12月14日月曜日

礼拝メッセージ 2020年12月13日
説教題 「神の言・成就・信じた女たち」
   ルカによる福音書 1章39~45節
(序論)今日の著者ルカは、パウロのマケドニア伝道に同行し、パウロのローマ獄中生活の時に、パウロと共にいた人物です。またルカは、画家であったという伝承もあります。医者、伝道者、画家、そして福音書の記述者です。
1)自分の身を委ねたマリヤ  45節、「主のお語りになったことが、必ず成就すると信じた女は、何と幸いなことでしょう」。それを受けてマリヤは、4647節で、主をほめたたえています。これこそルカの願っている信仰者の姿勢です。
 不妊の女と呼ばれた、老齢のザカリヤとエリザベツに与えられた子は、バプテスマのヨハネで、救い主のご降誕に対する備えをする預言者となります。
マリヤが親戚のエリサベツを訪ねますが、マリヤは「急いで」行きました。
なぜかと言いますと、今日の箇所のすぐ前で、マリヤは天使からお告げをいただいていました。マリヤがイエス様を生むということです。まだ結婚していないのにです。もし、そんなことになったら大変なことです。そんなことがあったので、マリヤとしては、じっとしておれません。エリサベツに急いで会いに行きます。
どうしてエリサベツに会いに行く必要があるのでしょうか。天使のお告げの中に、こういう言葉がありました。36節です。「あなたの親類のエリサベツも、老齢ながら子を宿している」。子を産めるはずもない老齢なのに、身ごもっているんだよと、天使は教えてくれました。つまりエリサベツは、天使が与えてくれたしるしです。天使の言葉を信じることが出来るように、証拠を出してくださった訳です。
どうしてわざわざマリヤに予告されたのでしょうか。ここに、神様がどういう方なのか、ということが良く表れています。神様は、人と一緒に働く方なのです。
神様は、人と一緒に働くということを、大事になさる方なのです。神様は、何の断りもなく一方的に、何かをすることも出来ます。しかし、それは神様のやり方ではありません。38節で、マリヤは、「お言葉どおり、この身に成りますように」と言っています。別に天使が、無理やり信じさせたのではありません。マリヤが信じたのです。マリヤも普通の女の子でした。今で言う中学生くらいの年の子どもです。マリヤが、選ばれたということは、誰でも選ばれるということです。
(結論)神様は今日も、私たちが考えもしないような、大きな祝福を私たちに用意しておられます。だから今日、私たちはこのみ言葉を聞いたのです。今すぐに、ご自分の考えを退けてください。神様の側に立ってください。今日このみ言葉が実現します。

2020年12月8日火曜日

礼拝メッセージ 2020年12月6日
説教題 「こんなつまらない者の上にも」
  書  ヨハネ第一の手紙 4章10節
(序論)この章は愛の章です。ヨハネはこの手紙全体において、兄弟を愛することを勧めます。まず、兄弟を愛することは、義を行なうことであって、義を行なうのは、神から生まれているからだ、と教え、8節以降、愛は、神から出ている、とヨハネは、聖書は言います。
(1)神が私を愛された  この9節と10節において、ヨハネは、愛とは何であるか、その愛がどのように示されたか、をここで教えています。神にはひとり子なる神がおられて、ひとり子を、この世に送ってくだった。それが、人となって来られ、受肉されたという部分です。そしてキリストの御名によって、永遠のいのちを得ることができるようになりました。ここに愛があります。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。
神の愛は、無条件の愛です。私たちが神を愛したから、神に愛されているのではなく、神が私たちを、愛してくださいました。
私たちは、人に気に入られるために、人に愛されるために一生懸命になることがあります。
しかし、神様は私達が、愛されるべき理由がない、むしろ憎まれるべき理由を、たくさん持っている私に対して、神様は愛してくださいました。罪のための、「なだめの供え物」(なだめ、とはギリシア語で「ヒラステイリオン」和解、贖い、罪を償う供え物の意味)その供え物となるために、ご自分のひとり子を犠牲とされました。それほど神様は、私たちを愛してくださっています。これは私たちが、神様を愛するから愛されるという次元の問題ではなく、無条件の愛です。
(結論)神様の愛は、私達の心に弾力を与えます。悲しみも、痛みも、憂いも、神様の愛に生きる私達を、押しつぶすことは出来ません。主は、こんなつまらない者の上にも、おん目をとどめて、導いてくださいます。私達の心を、本当に慰めることが出来るのは、神様だけです。5章4,5節「すべて神から生まれた者は、世に勝つ…世に勝つものはだれか、イエスを神の子と信じる者ではないか」。この神様の愛を深く覚え、主のご降誕を待ち望みましょう

2020年11月22日日曜日

礼拝メッセージ 2020年11月22日
説教題 「キリスト者の祈り」
  書  サムエル記 下 5章17~19節
(序論)ダビデは北イスラエル、南ユダの王として民から油を注がれエルサレムに首都を移し全イスラエルの王となりました。それは隣国ペリシテ人にとって大きな脅威となり、そこでペリシテ人は軍隊を送ってダビデを探させました。そのことを知ったダビデは、「要害に下って行った」と17節にあります。
神様のみ旨を求める者  昨日のネットニュースに「コロナの死者よりも多い自殺者数に海外メディアが驚愕」と見出しで、「10月、自殺によってコロナの10か月間よりも多くの日本の命が奪われる」と衝撃的な見出しが躍ったのは、「CBS NEWS」です。警察庁の仮統計によれば10月だけで自殺者数は2,153にも昇っている。これで上昇するのは4か月連続だそうです。現在日本では、「今年に自ら命を奪った人の数は、17,000人以上にも昇る。」とありました。
危急存亡、危難が迫って滅びの瀬戸際の時に、神様に助けを求める人は多くいます。しかし、ダビデは、助けを求めに神殿に行ったのではなく、神様のみ旨を求めに行ったのです。ここにダビデの信仰があり、聖書は、ダビデ王のこの件を通してキリスト者の祈りのあり方を、示そうとしています。
イエス様もゲッセマネの園で「わたしの思いでなく、み心がなるようにしてください。」と祈られました。 ダビデは、身近に迫った、ペリシテ人の総攻撃を前にしながら、彼の願いでなく、神様のみ旨を求めたことは、決して安易なことではなかったはずです。
そして、ダビデは主にみ旨を聞きながら、ついには主の勝利に与かりました。ダビデが主に伺ったのは、ダビデが、かつてペリシテ人と一緒に暮らした、あの苦い失敗があったからでしょう。主は、へりくだったダビデに、ご自身で勝利を与えられました。私達の勝利の秘訣は、これではないでしょうか。自分の失敗を思ってへりくだり、み旨を頂いて主にある道を進むことです。
(結論)主は創造者であり、私達は神様に造られた者、被造物です。特に主により贖われた者の祈りは、決して無駄には終わりません。世の光として、また地の塩としての役目を果たします。祈りは、品性と人格を造り、なぜなら、祈りには聖霊が働いて下さるからです。祈りは何にも勝る最大の武器であり、祈りから、見えないものが見え、聞こえないものが聴こえて来るからです。

2020年11月15日日曜日

礼拝メッセージ 2020年11月15日
説教題 「苦しみの中に喜びと祝福あり」
  書  ペテロの第一の手紙 4章12~14節
(序論)この手紙は、使徒ペテロがローマにいた時、現在のトルコ周辺にある教会に向けて書いた手紙です。異教社会に住むキリスト者が、忠実に生きることによって迫害を受けていました。苦難の中にあるキリスト者を、励ますための手紙です。
1)苦難は栄光への道  ペテロはこれを武装することだと言っています。迫害に対する武装は、苦難こそ使命をなしとげ、栄光にあずかる道である、と。何と勇ましく高尚な生き方でしょうか。迫害だけでなく病気、貧しさ、不遇という試練に対しても同じです。この武装で立ち向かうべきです。イエス様の模範によって実証された、いのちの道です。3節のみ言葉「……もうそれで十分であろう」は、心にぐさりと刺されるみ言葉です。放蕩の生活は、もう充分ではないか、彼らは神様の裁きの座で、申し開きをしなければならない、とペテロは聖書は言います。
今日、今、イエス様を仰ぎ、苦難を栄光の道である。と、はっきり認識し心の武装をいたしましょう。
2)苦しみの中に喜びと祝福  12節には「火のような試練」という言葉があります。これは一般的な意味での試練ではなく、キリストを信じているゆえの試練苦しみのことです。ここで、この火の試練を、「何か思いがけないことが起こったかのように驚き怪しむことなく」、原文の語順は、「愛する者たち。驚き怪しむな」「不審に思ってはならない」(新改訳)。強調は「驚き怪しむな」です。ペテロは、この地方は、最近信仰を持った者たちも大勢いただろう、と考え、つまり、迫害の未経験者たちも、けっこういたと思われ、ペテロはこうした人々が、キリストのための苦しみを、特別なものとして捉えないようにと願いました。13節「キリストの
苦しみにあずかれば、あずかるほど、喜ぶがよい」と言ったペテロは、本当に信仰に生きた者のみが言いうる言葉です。キリストのみ名のゆえに、苦しみを受けるとき、それは、キリストの苦しみにあずかることです。
(結論)私たちは、「キリストの思い」を持たずして、人生に、意義も、理想も、幸福も、見出すことは出来ません。誰かが、キリストの苦しみに、あずかることによって、誰かが、主に救われ、地上でも天国でも、活きる命が与えられ、主の祝福にあずかれるものです。

2020年11月8日日曜日

礼拝メッセージ 2020年11月8日
説教題 「赦し・捨てず・忍び・期待される神」
  書  使徒行伝 9章 1~9節
(序論)パウロの人生は、波乱万丈の人生でしたが、今日の9章の回心の出来事を通して、彼の人生は大きく変わって行きます。そしてこの回心の出来事は、サウロ自信を変えただけではなく、福音宣教に大きな変化をもたらしました。弟子たちは、エルサレムを中心にユダヤ人伝道に向かい、パウロは異邦人への伝道に向かいました。
1)イエス様に出会ったサウロ  (3-7)ダマスコの近くまで来たとき、そこで不思議な経験をします。天からの光を受けて地に倒れ、そこで「サウロ、サウロなぜわたしを迫害するのか」という声を聞いたのです。それは太陽よりも明るく輝いて、同行者たちとの周りを照らした」とあります。同行している人には見えず、サウロ一人にだけ見えた超自然的な光でした。ところで、「サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか」という言葉は、大変奇妙な表現です。サウロが迫害していたのは、クリスチャンや、その教会であって、イエス様に対してしたことではなかったからです。サウロはすかさず尋ねます。「主よ。あなたはどなたですか」と。「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。」の「私」と「あなた」という言葉は、原語ではとても強調されていることばです。「神なる私を、あなたが迫害している」と。私たちの人生に、突然、いろんな形で不思議な方法で、神様が介入されることがあります。人はその時、人生の大きな転機を迎えます。
2)主の憐みと期待  ここで、「わたしは、あなたが迫害しているイエスである」との言葉はいったいどういう意味でしょうか。それは、あの十字架で死んだイエス様が、復活しておられるということ、エルサレムで弟子たちが言っていたことは本当だったということです。たとえ知らないでしたこととはいえ、クリスチャンを迫害したことは、神であり、主であられる方を迫害するという大罪でした。
(結論)そうした大きな罪人である者に対しても、主イエスは深いあわれみと赦しをもたらしてくださいました。「あわれみ」とは、受ける資格のない者が受ける親切のことです。
罪人のかしらのような私でも愛され、赦され、捨てず、忍び期待して下さる神様が私たちの主なのです。

2020年11月1日日曜日

礼拝メッセージ 2020年11月1日
説教題 「主は徹底的にあなたを守るお方」
  書  詩篇 121篇 1,2節
(序論)エルサレムに向かう巡礼者が、シオンの山に近づき、遥かに見えるシオンの山に向かって、「私は山に向かって目を上げる。私の助けは、どこから来るだろうか」と問いかけ、確信をもって、「私の助けは、天地を造られた主から来る」と歌ったのがこの詩です。
1)創造主なる主を見上げる  私たちは前途の困難を思うとき、「私の助けはどこから来るのだろうか」、「どのような助けが、私にあるのだろうか」と不安に包まれることがあります。
 しかし、詩人はここで、主への信頼を告白しています。「私の助けは、天地を造られた主から来る」と。主は天地を造られたお方、全能者であって無から有を創造されたお方です。このお方からこそ助けは来ると、信仰を告白しています。それは「神には何でも出来ないことはない、このお方なら、わたしの直面する困難においても必ず助けてくださる」という信仰です。創造主こそ私の救い主です。 目の前の試練ではなく、試練をも支配していてくださる主に目を向けることが出来る人は本当に幸いです。耐え難い試練の中でも、その試練を見つめるのではなく、しっかりと創造者なる主を見上げることが、試練の中でも勇気と平安が与えられる最大の秘訣です。
2)徹底的な守り  4節「見よ、イスラエルを見守る方は、まどろむことなく、眠ることもない。」 神にはうっかり見過ごすということはない。神は一瞬たりとも私たちから目を離すことはない。「イスラエルを守る方」という言い方には、事柄は私個人の関心ばかりではないことの表明があります。しかし、私は「イスラエル」の一人である、ということです。旧約のイスラエルは、新約のキリストの教会の予表と受け取ることができますから、神は教会を守る方であり、そこにいる私を見守る方である、ということです。 クリスチャンの人生は、天のエルサレムに向かう巡礼の旅です。その旅路には、乗り越えねばならない問題の山も出てきます。しかし、その旅路には必ず神の助けがあります。その助けは、神様の徹底した守りです。主に信頼する者を主は徹底的に守られます。
(結論)この臨在の主に絶えず、どんなときも憩い、信頼し、このお方により頼んで、人生の旅路を、天国目指して歩んでまいりましょう。主はあなたを徹底して守る方です。

2020年10月25日日曜日

礼拝メッセージ 2020年10月25日
説教題 「行け、あなたのその力で」
  書  士師記 6章 1114
(序論)イスラエルが、偶像を拝んで、主の目の前に悪を行った時、主はイスラエルをミデアン人の手に渡されました。しかし、その苦しみの中で、イスラエルが主に叫び求めると、主は一人の預言者を遣わして、イスラエルの罪を責め、ギデオンを召して「あなたのその力によってイスラエルを救いなさい」と命じられました。
(本論)「ギデオンは、ミデアン人に奪われるのを免れるため、酒ぶねの中で小麦を打っていた」(11節) ギデオンは、主から「大勇士よ」と呼ばれますが、自身はミデアン人の目をさけて、酒ぶねの中でこっそり麦の穂を打っているような「弱虫」でした。この弱虫を、主は「大勇士」と呼びかけられます。
1)主の教育方法
主の教育の仕方は、これぞと目をかけた者に、声をかけ、君は大きな器になると言われます。さらに、その人を一歩、一歩、高めて行かれるのです。まず勇気を与え、次に自信を持たせ、しかし、言われた本人は、弱虫で、後ずさりします。この後ずさりする者を、主が押し出されるとき、その人はまことの「主の器」として用いられます。「勇者よ、主はあなたと共におられます」(12節)
「わたしが、あなたを遣わす」(14節)「わたしが、あなたと共にいる」(16節)
この「共にいる」とは、主が生きて働かれるということです。この生ける主を信じるのがまことの信仰です。
2)行け、あなたのその力で
 14節「行け、あなたのその力で。あなたはイスラエルをミデアン人の手から救うのだ。わたしがあなたを遣わすのではないか。」と、主は言われました。どういうことでしょうか。それは、彼の力が強かろうが弱かろうが、そんなことは全く関係ないのであって、彼に求められていたことは、主の命令に従って出て行くということでした。なぜなら、主が彼を遣わされるからです。
モーセも同じでした。「ああ、わが主よ。私はことばの人ではありません。以前からそうでしたし、あなたがしもべに語られてからもそうです。私は口が重く、舌が重いのです。」(出エジプト記4:10) と言いました。言い訳です。最初からそんなに流暢に語れる人なんていません。主が遣わされるのであれば、主が最後まで責任を取ってくださいます。
(結論)私たちもギデオンのように臆病で、弱い者かもしれませんが、主が私たちをそれぞれの人生の中に、遣わしておられるのです。あなたのその力でいいのです。「私が、あなたと共にいる」と、語ってくださっています。恐れるな。強く雄々しくあれ。

2020年10月18日日曜日

礼拝メッセージ 2020年10月18日
説教題 「『主よ』と神に祈る」
  書  詩篇 23篇 1~3節
(序論)今日の23篇は、「詩篇の中の真珠」とも言われる、神様への信頼を歌った美しい詩で、昔から多くの信仰者に慰めと励ましを与え続けている詩です。
主】とは、原語では「ヤハウェ」で、旧約聖書で啓示された神の御名です。
1)主が共にいてくださる  ユダヤの野山は、決して日本で見るような緑あふれる野山ではありません。それとは正反対の、荒涼たるユダの荒野です。人生とは、荒涼たる荒野を歩くような側面があります。その荒野の中で、【主】は、緑の牧場、いこいの水のほとりに、信じ従う者を導かれます。 羊は流れている水を飲むことができませんので、静かな水辺に導かれる必要があります。苦難の中に【主】の守りがあります。3節「主は、私のたましいを生き返らせ、私を正しい道に導かれる」とあります。ですから、死の陰の谷、災いをも恐れることなく歩むことが出来ます。主が共にいてくださることを知っているからです。
2)「主よ」と神に祈る   苦難の時、私たちは、羊飼いである【主】に近づきます。【主】という呼びかけが、「あなた」という呼びかけに、変化するのが注目ポイントです!「死の陰の谷」という言葉が出た直後、ダビデは、「あなたが私とともにおられますから」(4節前半)と歌っています。人生で最悪の状況が訪れた時、【主】は神として、私たちのそばを歩いてくださるのです。
 人生の荒野にひとりぼっち、先の人生が見えない不安、そんな気持ちがする時、「私の造り主、私の全てを知って愛したもう主、私の慰め主、私の導き手、歴史の支配者なる主」の御顔を仰ぎ、心砕け、へりくだり、そっと「主よ」と神に近づき祈ってみましょう。
(結論)ダビデは、死を思って初めて、主だ、と知ったのです。才能も、体力も、技術も、経験も、知識も、財産も、名声も、地位も、人間が死までのものです。それなのに、何と長い間、そのようなものに振り動かされて来たことか。主の羊であることこそ究極的な恵みだと悟ったのです。これは心砕かれた人の歌です。

2020年10月12日月曜日

礼拝メッセージ 2020年10月11日
説教題 「喜べ・祈れ・感謝せよ」
  書  テサロニケ人への第一の手紙 51618
(序論)テサロニケ人への手紙はその名の通り、使徒パウロからテサロニケという都市の教会の人々に宛てた手紙・書簡です。私の好きな聖句の一つが、今日の516節~18節です。
(本論)1)神様が望んでおられる  私たちが人生を生きる中で、嬉しいことばかりが続くものではありません。しかしパウロは、いつも喜んでいなさいと言っています。そして絶えず祈りを欠かさず、すべてのことに感謝しなさい、と教えています。この通りに生きるというのは、本当に難しいことです。パウロ自身の人生を考えてみても、その困難と苦難の日々を考えると、とてもいつも喜び、すべてのことに感謝することなど、不可能と言わざるを得ません。しかし、それでもパウロはいつも喜び、すべてのことに感謝しなさいと言います「いつも喜んでいなさい」の「いつも」は、強烈です。喜べるときに喜びなさい、楽しいことがあったら喜びなさい、ではありません。「いつも」です。心配事を抱えても、悲しみの中におかれていても、仮に、死と向き合うなかに閉ざされても、「いつも喜びなさい」です。ある意味で、この御言葉は、過酷な要求を突き付けています。 しかし、ここには、神様の大きな約束があります。「が、どんなにあっても喜ばせてあげるから、いつも喜びなさい」という神様からの申し出です。ですから、この御言葉に依り頼む人は、「神様、あなたは『いつも喜んでいなさい』と命じられました。どうか、ご命令の通り、いつも喜ばせてください」と祈り求めることになります。
2)苦難を乗り越える秘訣  三浦綾子さんの、60代後半に日記から抜粋して出された本があります。このような内容です。
 「○月○日、今日は涙が出るほど嬉しかった。50年前、近所に住んでいた久枝ちゃんが、お兄さんの渡辺さん夫妻と一緒に訪ねて来てくれた。小学校以来、私は一度も久枝ちゃんに会ってはいなかった。しかし優しい笑顔で、優しい声で遊んでくれた人、久枝ちゃんは68になっていた。しかし…同じく優しい顔だった。こんなにも懐かしい人を、神は既に50年前に私に与えて下さっていたのだ。そして50年間、恋しい思いで幾度となく思い出していた。不思議な時間、尊い時の流れ、全ては神の御業、神の恵み。」     
 ここには、嬉しいことを単に「嬉しい」で終らせず、改めて「神の恵み」と捕え、喜び、感謝することが習慣となっておられた彼女の一面が伺えます。こういうあり方が、彼女を一層神様の近くにおらせ、多くの試練の中でも彼女を守り、ますます神様と人を愛し、喜んで人に仕える者に、神様はして下さったのでしょう。
(結論) パウロはもともとイエス様を異端(今でいうカルト)だと考えていました。キリストを異端視し、その弟子たちを殺そうとした自分までもイエス様は赦し、救ってくださったここにパウロの原点があります。私たちの喜びと感謝の原点も、ここにありそうです。

2020年10月5日月曜日

礼拝メッセージ 2020年10月4日
説教題 「隠れた徳を身につける」
  書  ヤコブの手紙 468
(序論)今日のヤコブの手紙は、「実行する福音」と言われるほど、キリスト者の生活に触れて書かれています。それはなぜでしょうか。 私たちが救われたのは、「行い」によって救われたのではなく、ただ「信仰」信じることによって救われました。では、行いは、どうでもいいのでしょうか? 決してそうではありません。
(本論)1)キリスト者の実践  パウロもまた、「キリスト者の実践」「行い」について、しばしば述べています。第一コリント6章9~10、12~1320節に「あなたがたは、代価を払って買い取られたのだ。それだから、自分のからだをもって、神の栄光をあらわしなさい」と言います。なぜなら私たちは、神様から遣わされた「キリストの使者」なのです。
2)「へりくだる」という「徳」 ヤコブとパウロの言わんとすることは、私たちは、神様と人の前に「へりくだる」という「隠れた徳」を身につけることです。
牛は、頭を下げれば下げるほど、力が出ると言われます。また、「実るほど垂れる稲穂かな」と、ことわざにある通りです。そのように、私たちも、神様のみ前に謙虚に、へりくだれば、へりくだるほど、神様は、私たちを、霊的に高く、引き上げてくださいます。  
これは「神の国の法則」です。傲慢(ごうまん)のために、尊い座から引き下ろされた類例は、政治家をはじめ有名人によくあることです。また、サウル王など聖書の至る所に見られます。
(結論) 主イエスは「柔和な人は幸いである。彼らは、地を受け継ぐであろう」と言われました。私たちも、ゆえに、神さまと人の前に、「へりくだる」という「隠れた徳」を身につけたいものです。

2020年9月20日日曜日

礼拝メッセージ 2020年9月20日
説教題 「安息と沈黙」
  書  マルコによる福音書 43541
 
(序論)今日の箇所には、イエス様と弟子たちが、舟に乗って向こう岸に渡ろうとした時のことが書かれています。ガリラヤ湖は、四方を山で囲まれており、まるで、すり鉢の底のようになっています。それで気温の変化によって、時々突然に突風が、吹くことがあったようです。今回の突風は、今までにないもので、さすがの弟子たちも、恐れるほどのものでした。
 
(本論)1)安息を命じられる神  イエス様は、風と湖にむかって「静まれ、黙れ」と言われました。しかし、この言葉を聞いた弟子たちは、それが自分たちに対しても語られたと感じたに違いないと思います。突然の嵐に慌てふためいていた弟子たちもまた「静まれ、黙れ」という声に従う必要があったのです。
この箇所を読むたびに、自分の回りにも、様々な課題や困難が吹き荒れていることを感じます。私は、「イエス様、私を取り囲む課題や困難の嵐に向かって、『静まれ、黙れ』と命じてください」と願いましたが、嵐は、私の外側だけでなく、私の内側にも、吹き荒れているのです。それで、「どうぞ、私の心にも『静まれ、黙れ』と命じてください」と祈る必要があります。
 日本では「過労死」で多くの人が亡くなります。日本語の「過労死」がそのまま英語になって、2002年以来、オックスフォード辞書に載っていますが、これは決して自慢できることではありません。神様は、わたしたちをいやし、強めるために、「安息」を命じてくださいました。七日に一日の休みだけでなく、一日24時間の三分の一は睡眠という「安息」が必要です。礼拝の日は「安息日」と呼ばれます。この日、いままでやってきたことを、一旦やめて、礼拝に向かうのです。神様が七日に一日、この日を与えてくださったのは、わたしたちが日常を断ち切って、神様を礼拝するためです。
 
2)沈黙を命じられる神  「安息」と「沈黙」は一対のものです。「安息」は、それが身体を使ってであれ、心を使ってであれ、何かの働きを止めることを意味しています。「沈黙」はそこから一歩進んで、神のみ旨を知るために、身も心も整えることを指しています。「沈黙」は、ただ、何も言わない、とい言うだけのことではありません。それは神様の言葉に聞き、神様を想うことです。
マザーテレサがCBSテレビのインタビューに出たとき、こんなやりとりがありました。「マザー、祈るとき、神様に何と言って語りかけるのですか」?
「わたしは何も話しません。神様に聞くだけです」
「それじゃ、神様はマザーに何と言って話されるのですか」
「神は何も言われません。神はわたしに聞いてくださるだけです」
 
(結論) 「静まって、わたしこそ神であることを知れ。」わたしたちは、沈黙によって神様のみ心を、知る必要があります。

2020年9月13日日曜日

礼拝メッセージ 2020年9月13日
説教題 「星のようにこの世に輝く者」
  書  ピリピ人への手紙2章1316
(序論)このピリピ人への手紙は、宣教のために捕らえられたパウロが、獄中からピリピの教会に書き送った手紙で、ピリピの教会を思い、祈るたびに喜びと感謝に満たされると語っています。パウロは自分の身に起こった事、彼の投獄によって福音が前進したと言います。今日の13節から16節で、二つのポイントでお語りいたします。
 
(本論)1)クリスチャンの人生は、「神様と人との共同作業」です。
キリスト教に余りなじみの無い方は、漠然と「キリスト教を信じると『窮屈な』人間になる」と感じている方が多いように思います。「縛られたくない」と感じているのです。13節「…御心のままに望ませ…」(新共同訳)とあります。これは「神の意志」という意味ですが、ある人はこの「御心一筋」で生きようとします。つまり「自分の意志を押し殺して、神様が願われることだけを、ひたすら行おうと務めるべきだ」という考え方です。
 一方、これとは反対のタイプの方も、現実にいます。「御心などどこ吹く風」の人です。またある方は、片足だけ「御心」、片足は「この世、現実」に生きるという信仰です。 聖書が教えている信仰者の歩みとは、このどちらでもありません。
大切なことは「神様の思いと私たちの思いが相まって、一つとなっていること」です。 今日のみ言葉は、まさにそのことを教えています。ここには、自分というものを消し去れ、という思想はひとつもありません。 神様は、私たちの心に「志=願い」を与えて下さり、そして、実際に事を行なう実行力も、与えて下さるということです。クリスチャンの人生とは「神と人との協同作業」です。「二人三脚」です。
2)神のご計画の中で、星のようにこの世で輝く者になる。
15節の「いのちの言葉」とは、イエス様の言葉です。イエス様は道、真理、命なるお方です。日本において、クリスチャンは少数派です。むしろ少数派だからこそ、あなたが持つ輝きが、重要になります。本物を知らない日本だからこそ、本物を知っているあなたが輝くのです。
神様は、あなたの想像をはるかに超える、計画を用意しておられます。今、あなたが置かれている場所は、神様が意図して備えられた場所であり、そして、神様は御心のままに、あなたの内に志を立てさせ、実現に至らせてくださる、と聖書は約束しています(13節)。あなたのように、イエス様の言葉を握り、この世界で、星のように輝く人たちが、あなたを通して次々と起こされていくように主は祈って下さっています。

2020年9月7日月曜日

礼拝メッセージ  2020年9月6日
説教題 「神さまの意志決定」
  書  詩篇 139篇 1317
(序論)この139篇は、神様の全知、全能、偏在をうたった美しい詩で、詩篇の中の、冠とまで言われる傑作です。
(本論)13節に「あなたは、わが内臓をつくり、わが母の胎内で、私を組み立てられました」とあります。
ある姉妹がバプテスマを受けるとき、次のような証しをされました。「わたしが神様を初めて意識したのは、妊娠した時でした。受精卵がどうして『一人の完全な人間』になるのか、それ以前にどうして、私と夫との間に子供が授かったのか、もっとそれ以前に、どうして夫と私が出会ったのか。
 人は、理屈で説明できない時に、よく『神業』といいますが、これらの出来事はまさに、私にとっては『神業』以外の、何ものでもありませんでした。でもその時は、どの神様が、こんな偉大なことをなさったのかは、知りませんでした。ただ、無事に子どもが生まれたことを感謝していました。
 そして、ある時、『あなたはわが内臓をつくり、わが母の胎内でわたしを組み立てられました』というところを読んだ時、『これだ!』と思いました。聖書の神様が、私や子どもを造ってくださった、ことが分かりました。」
 この人と同じように、妊娠や出産を通して「神がおられる」と感じた人は、多いと思います。それは母親となった女性だけでなく、父親となった男性も、同じだと思います。かわいい赤ちゃんを見て、「これは偶然の産物だ」「進化の結果だ」などと言う人は、誰もいないでしょう。小さな赤ちゃんの中に、備わったみごとな秩序を見れば、誰もが、「偶然は、秩序を生み出すことはない」という道理が分かり、その背後に、知性と愛を持った人格者がおられることを、感じることだろうと思います。
 大きな宇宙にも、小さな原子にも、神の知恵と力とが示されていますが、わたしたち人間はそれに劣らず、神の知恵と力、その栄光を示すものとして、神様に造られました。 ジャン・カルヴァンは、このことを次のように言いました。「人間は小宇宙である。」「母の乳房にすがっているみどりごですら、他の弁論家たちを、ただの一人も必要とせずに、神の栄光を告げ知らせて余りある。」「人間は自らのうちに、いわば神のけだかくも数えがたい御業の工場を持ち、また同様に、神のはかりがたい御業を、ぎっしりたくわえた店舗を持っている。」と。
(結論)私達は、偶発発生的に、この地上に産み落とされた者ではありません。そこには深い神様の摂理と、神様の意思決定がありました。私達には、神様よりの使命があります。み言葉は、私達を自己意識からさらに神意識へと目覚めさせて下さいます。

2020年8月23日日曜日

礼拝メッセージ  2020年8月23日
説教題 「あなたを見捨てない」
  書  申命記 31章 6節
(序論)今日の箇所は、モーセが120歳の高齢になり、約束の地カナンを望み見ながら、イスラエルの民に語った、モーセの遺言でもあります。モーセは、自分はヨルダンを渡り、約束の地カナンに入ることは出来ないが、主ご自身が先立たれるから「強く雄々しくあれ」と励まし、ヨシュアが民を導くと、主が告げられたことを民に語りました。
(本論)モーセは、自分が老齢に達し、しかも主から、あなたはカナンの地には入れないと、言われたことを覚えていました。残念だったでしょうが、しかし、モーセは自分のことよりも、イスラエルの民のことに、心を配りました。そしてイスラエルに、主ご自身が、彼らに先立ってヨルダンを渡り、彼らに約束の地を与えられるから、強く雄々しくあれ、と励ましました。実際に彼らを導く指導者として、ヨシュアが立てられることを伝えました。
しかし、本当に彼らを導かれるのは、主ご自身であることを、繰り返し強調しました。 6節に、「あなた方は強く、かつ勇ましくしなければならない。彼らを恐れ、おののいてはならない。あなたの神、主があなたと共に行かれるからである。」と激励しました。カナンの地は、決して手をこまねいてイスラエルを待っている所ではなく、カナンの地は、戦い取るべき地です。しかし、たとえそこに、どのような強敵がいようとも、あるいは、いかなる困難が待ち受けていようとも、イスラエルは、それらを恐れてはならない。なぜなら、彼らが恐れるということは、神様が彼らと共におられることを、否定することであるからです。
(結論今日のみ言葉は、天国を目指して、この地上の生涯を生きる私たちへの、励ましであり、約束であり、命令でもあります。み言葉を心に、しっかりと刻み付けることによってこそ、主なる神様が、共にいて下さる恵みが分かり、それによって強く雄々しく生きることが出来ます。「強く、また雄々しく」あることは、自分の力で、頑張って生きることではなく、主なる神様の、み言葉を聞き続けることによって、神様から、力づけと励ましと導きを、常に新たに与えられながら、歩むことによって、可能となります。ハレルヤ!

2020年8月16日日曜日

礼拝メッセージ  2020年8月16日
説教題 「勝ち得て余りあり」
  書  ローマ人への手紙 第8章 31~39節
(序論)パウロは、今日の箇所で、「父なる神は、ご自分の御子さえも、惜しむことなく、死に渡された方は、御子と共に全てのものを、私たちに恵んで下さる。神様に選ばれ、義と認められた者たちを、罪あるとする者はおらず、イエス様が父なる神の右の座で、私たちのとりなしを、して下さるので、私たちをキリストの愛から引き離すものはない」と語ります。
(本論)1)神様が私たちの味方  「神はわたしたちの味方である」そうパウロは、声高く宣言をしています。「もし神が、わたしたちの味方であるならば、だれがわたしたちに敵対できますか」<もし>と、「もし」と仮定したような言葉になっていますが、パウロがここで言っているのは、「神はわたしたちの味方であるのだから、だれも私たちに敵対できない」ということです。
神は、アダムとエバ以来、神に逆らい、罪を繰り返して来ていた人間の味方になられました。もともとは、神の敵であった、といえる人間を、今や、守り、支えてくださるのです。
 
2)勝ち得て余りあり   苦難に打ち勝つことは、やさしいことではありません。
パウロは、イエス・キリストを宣べ伝える中で、「苦難、苦悩、迫害、飢え、裸、危険、剣」など、多くの苦しみを経験しました。パウロは、ほかの手紙の中で、その経験を「牢に入れられ」「むち打たれ」「死に直面し」「飢え渇き」と伝えています。  
 そんなパウロが、「勝ち得て余りがある」、「圧倒的な勝利者」(新改訳)だと言っています。この言葉のギリシャ語は「ヒュペルニコーメン」で、「最も栄光に満ちて勝つ」という意味が含まれています。パウロがそのように確信できたのは、「主キリスト・イエスにある神さまの愛」(39節)を深く知っていたからです。私たちも、この神さまの愛を知るとき、どんな状況でも圧倒的な勝利者となるのです。
(結論御子イエス様を、惜しまずに与えて下さった父なる神さまが、私を愛して下さるため、誰も、どんな人でも、どんな状況でも恐れません。目の前の現実に、希望が見えなくても、決して引き離すことの出来ない、神様の真実な愛を、いつも経験しながら、大胆に勝利できますように祈ります。

2020年8月9日日曜日

礼拝メッセージ  2020年8月9日
説教題 「恵みとあわれみの冠」
  書  詩篇 第103篇 2~5節
(序論)この詩篇は、昔から詩篇の中でも最も美しい詩の一つとされてきた詩で、新聖歌9番、21番、交読文32などによって、親しみのある詩です。全体が賛美で包まれた美しい詩です。詩人は、主をほめたたえよと叫び、自分の魂に向かって主はあなたに良くして下さった、咎を赦し病をいやし、良いもので満たされる、と語りかけ、人々を賛美に招きつつ、「主が良くして下さったことを何一つ忘れるな」と、自分の魂と、第三者に語っています。
 
(本論)2節「わがたましいよ。主をほめよ。そのすべての恵みを心をとめよ。」ダビデは自分のうちにある魂に向かって「主を誉めたたえよ」と言っています。そして、続けて自分のうちにあるすべてのものに向かって「聖なる御名をほめたたえよ」と呼びかけています。私達のうちにあるすべてのものとは何でしょうか。人は霊あるいは魂と精神と体によって構成されている存在だと言われています。ですからダビデは私達に霊と精神と体によって主をほめたたえるように呼びかけています。
第一に、私達のすべての咎を赦してくださいました。ダビデはほかのすべての恵みよりもまず罪の赦しの恵みを歌っています。それはどんな恵みよりも罪の赦しが一番大きな恵みだからです。ダビデは忠臣ウリヤを殺し、ウリヤの妻バテ・シェバを自分の妻とする罪を犯しました。彼はその罪を隠そうとしました。しかし、彼が罪を隠し持っていた時に、その罪は彼の内側にあって大きな苦しみとなりました。彼はその時の苦しみを次のように告白しました。「私は黙っていた時には、一日中、うめいて、私の骨々は疲れ果てました。それは、御手が昼も夜も私の上に重くのしかかり、私の骨髄は夏のひでりでかわききったからです。」(詩32:3、4)。
第二に、私達のすべての病をいやしてくださいました。人々は数え切れないほど多くの病をわずらっています。それで病院にはいつも患者で溢れています。癌、糖尿病、鼻炎、便秘、胃病、喘息、など数多くの病があります。また、精神的な病気もあります。不眠症、自閉症、対人恐怖症、鬱などの病です。これよりもさらに恐ろしい病気があります。それはたましいの病です。人生の無意味と虚無、罪意識と恐れ、孤独と絶望の病は人間の努力によって解決できるものではありません。
 
(結論)この詩人ダビデは、主の恵みを一つ一つ数え上げています。主が良くして下さるお方であることを確認し、主をほめたたえるべきなのです。詩人は、咎の赦し、病の癒し、死からの贖いという回復の恵み、恵みとあわれみのとの冠をかぶらせ(新改訳)一生良いもので満たし、鷲のように若返らせられると、祝福の恵みを挙げています。一つ一つアーメンです。11節、天が地より高いように、主を恐れる者へのいつくしみの大きさを教えます。これらの事実を、自分自身に認めさせ日ごとに、朝ごとに賛美する者でありたいものです。

2020年8月2日日曜日

礼拝メッセージ  2020年8月2日
説教題 「喜び・祈り・感謝」
  書  テサロニケ人への第一の手紙 5章16~22節
 
(序論)テサロニケの教会の人々への手紙の中でパウロはキリスト者としてどのように生きるべきであるかを説いています。
 
(本論)16節~18節、「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって、神があなたがたに求めておられることである。」
 パウロはこのように書き綴っています。私たちが人生を生きる中で、嬉しいことばかりが続くものではありません。しかしパウロは、いつも喜んでいなさいと言っています。そして絶えず祈りを欠かさず、すべてのことに感謝しなさいと教えています。
この通りに生きるというのは、本当に難しいことです。パウロ自身の人生を考えてみても、その困難と苦難の日々を考えてみると、とてもいつも喜び、すべてのことに感謝することなど、不可能と言わざるを得ません。(パウロの生涯については使徒行伝に詳しく書かれています)
それでもパウロは、いつも喜び、すべてのことに感謝しなさい、と言います。
私はこの聖句を読む時、「絶えず祈りなさい」という聖句がとても重要なのではないかと思えてなりません。いつも喜び、すべてのことに感謝するためには、祈りが欠かせないのだ、と思います。喜びはどこから来るのか。感謝は何から湧き出てくるのか。
本当の喜びと感謝は、ただ、「救われた」ことから来るのではないでしょうか。
パウロは、もともとイエス様を異端(今でいうカルト)だと考えていました。そして、イエス様の弟子たちを殺そうとまでしていました。そのパウロが、イエス様がキリストである、ということを悟りました。キリストを異端視し、その弟子たちを殺そうとした自分までも、イエス様は赦し、救ってくださった。ここにパウロの原点があるのです。
 
(結論)死ぬはず、のところから救われたなら、どんなに苦しいことがあっても、人は喜び感謝できます。パウロは、絶えず祈ることで、自分の救いを確信し、喜びと感謝に溢れていたのではないでしょうか。祈りは、私達に知恵を与え、力を与え真実を与えてくれます。