2013年9月29日日曜日

礼拝メッセージ2013年9月29日

説教題  「本当の強さを身にまとう」

聖 書   コロサイ人への手紙 第1章2123

(
序論) 
私は何をするために生まれてきたのか?神様とはどういうお方か?これらの問いに神様は明確に答えてくださいます。

(
本論) 
多くのクリスチャンは、四方から艱難(かんなん)を受けてもきゅうせず、途方にくれるような事に見舞われても行き詰まらず、その信仰の道を力走して来ました。彼らがそのような強さを得た転機は、罪人を愛し十字架にかかってくださったイエス様を受け入れ、自分を明け渡した時でした。

 神様、罪人である私を憐れんでください、と赤裸々に自己を投げ出し、自分の本音をさらけ出す時、神様は新しい私の行くべき道を示してくださいます。
「神は、わたしたちをやみの力から救い出して、その愛する御子(みこ)の支配下に移して」
(コロサイ人への手紙113)くださるのです。このことを信じて本当の強さを持つクリスチャンに育てていただきましょう。

(
結論) 
人は神様の前に破れて強くされます。「私を強くして下さるかたによって、何事でもすることができる」(ピリピ人への手紙413)私の内に住み、私といつも一緒にいてくださるイエス様によって、本当の強さを得て、どんなことにも恐れないで生きて行きましょう。

2013年9月22日日曜日

礼拝メッセージ2013年9月22日

メッセージ  「共に生きる幸い」


聖 書   創世記 第50章1521

(
序論)
 私たちは、どのような確信を持ってこの世を生きていくべきでしょうか?このことをヨセフの生涯から学んでみましょう。

(
本論)
 ヨセフは兄たちのねたみのゆえに17歳の時、銀20枚でエジプト人に奴隷として売られました。その後も数々の厳しい苦難の日々を過ごすことになりますが、「主がヨセフと共におられたので彼は幸運な者となり」(創世記393)、そして、周りの人々に好意と信頼を持たれ、やがて政治の中核の地位にまで登りつめます。7年間の飢饉の時、ヨセフの兄弟が憐れみを乞うためヨセフの前に立ちます。この立場の逆転した状況の中で、ヨセフは言います:「あなたがたは私に対して悪をたくらんだが、神はそれを良きに変わらせて」(創世記5020)くださいました。ヨセフはすべての悪意に対して善意で報います。

(
結論)
 私たちがこの世で生きる時、どのような苦難があっても、神は「神を愛する者と共に働いて」すべてを最善に導いて、豊かな実を結ばせてくださいます。

2013年9月15日日曜日

礼拝メッセージ2013年9月15日

メッセージ  「信仰の道を走り抜く」

聖 書   ピリピ人への手紙 第2章1218

(序論) 超高齢化社会の今日、弱い存在である高齢者や弱さをおぼえておられる人々と、どのように共に生きていくべきでしょうか?

(本論) 信仰の道を一筋に歩んでこられた先輩方のことを、今一度思い起こし心に刻みたいものです。私たちは素直に聖書のことばに耳を傾け、神の子どもとしてこの曲がった邪悪な時代の中で、いのちの言葉を堅く持って、星のように輝く存在であるように、と神様から召されています。
 パウロは弟子テモテに、誰をも分け隔てなく受け入れるように戒めています:「老人をとがめてはいけない」(テモテへの第一の手紙5章1節)。老人の方々には次の戒めがあります:「老人たちには自らを制し、謹厳で、慎み深く、また、信仰と愛と忍耐において健全であるように勧め」(テトスへの手紙2章1節) 
 歳と共に弱さをおぼえて何事にも引き下がりやすい人々に、信仰は常に前向きで常に成長するものであると聖書は教えています。どんな時も喜びなさい、感謝を持って祈りなさい、「そうすれば、人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るであろう。」(ピリピ人への手紙4章7節)


(結論) 神様は、お年寄りの人も若い人も、どんな人も、一人ひとりのクリスチャンを、神の教会の肢体として用いてくださいます。私たちは、お互いに声をかけ合って、信仰の道を忍耐強く走り抜けましょう。

2013年9月8日日曜日

礼拝メッセージ2013年9月8日

メッセージ  「多くの証人と共に」

聖 書   へブル人への手紙 第1217

(序論) 私たちは、言い知れぬ寂しさや孤独感でなやんだり、自分の弱さや愚かさに打ちひしがれたり、心や身体の苦難に絶望感をいだき、「主よ、われらをあわれんでください」(詩篇123)と叫ぶ時があります。

(本論) ヘブル人への手紙第11章には、アブラハムやモーセ、サムソン、ダビデなどの信仰の先輩たちのことが書かれています。彼らは、いろいろな弱さを持ち、悩みや苦難の中を通りながらも、主(神様)を信頼して自分自身を主にゆだね、最後には主から祝福をいただきました。
 このような信仰の先輩たちが、この世という競技場で走っている私たちを見守り応援をしてくれているのです。信仰の友がイエス様の証人として私たちのそばにいて励ましてくれています。
 「信仰の導き手であり、またその完成者であるイエスを仰ぎ見つつ、走ろうではないか。」(3) 私たちと同じ人生の苦しみを味わい、十字架の死さえも耐え忍ばれたイエス様が、「恐るな、我が子よ」と呼びかけてくださっています。「見よ、わたしは戸の外に立って、たたいている」と、わたしたちが自分の戸を開けて主を迎え入れるのを待っておられのです。主に従い、主のぶどうにつながっていれば、豊かな実を結ばせてくださいます。


(結論) イエス様が一緒なのだと信じる時、たとえ死ぬような苦難の中にあっても、立ち上がることができます。また、信仰の先輩や主にある友が、主の証人として私たちを取り囲み、「立ち上がれ、さあ一緒に行こう」と呼びかけてくれています。このような励ましを受けている私たちは力強く立ち上がり、さらに、主を賛美し証をする主の証人とならせていただきましょう。

2013年9月1日日曜日

礼拝メッセージ2013年9月1日

メッセージ  「ガリラヤに行け」

聖 書   ヨハネによる福音書第21章1~8節

(
序論) 荒れ狂う荒海の中に漂う小舟のように、現在の世の中で様々な苦難に打ちひしがれ、希望を見失いがちな弱い私たちは、どのように生きていけばいいのでしょうか?

(
本論)
弟子たちは、イスラエルを救ってくださると信じていたイエス様が十字架にかけられて亡くなられ、悲しみに打ちひしがれ意気消沈していました。その後、ペテロたちは、故郷ガリラヤに帰り、以前の仕事である漁をしましたが、魚の獲物は皆無でした。そこへ復活されたイエス様が現れ、「網をおろしてみなさい」と言われたので、ペテロ達が網をおろすと、大漁の魚がとれました。

 主イエス様は、希望を失っていた弟子たちを見捨てるようなことはされず、ガリラヤで彼らを待ち受けていてくださり、イエス様が一緒にいてくださるなら、「魚ではなく人間をとる漁師にしてあげよう」というご自身の言葉の実現の確証を彼らに与えられました。

(
結論)
徒労のように思われる私たちの業でも、「わたしは、モーセと共にいたように、あなたと共にいるであろう」と言われるイエス様が、いつも共にいてくださり、私たちの先手をうって収穫を準備して大漁の祝福を与えてくださることを信じて、私たちのガリラヤに行きましょう。