2014年6月28日土曜日

礼拝メッセージ  2014年 6月29日
説教題   「生きる力」
聖 書   マタイによる福音書 第4章1〜4節
(序論) 梅雨が過ぎると夏の日差しにうんざりしつつも、自然の営みの不思議さに感動します。育ちゆくものの変化の中で、神様は確かにおられると気づかされます。私たちは全てのことを通過点として良き結果に向かって導かれていることを信じましょう。キリスト者にとっては、神は善意をもって私たちをいこいのみぎわに導いてくださるという信仰が大事なのだと教会は語り続けてきました。

(本論) 「神はそのひとり子を世につかわし、彼によってわたしたちを生きるようにして下さった。それによって、わたしたちに対する神の愛が明らかにされたのである。」(ヨハネの第一の手紙4章9節)礼拝の交読文を心にとめて味わいましょう。このことを信じる時、人間嫌いにならず、人に寄り添いつつ、生かされていくことに感謝ができます。私たちは、神の大きな愛の中に覚えられつつ、神と人のために良き者として働かせていただくのです。私たちの務めは御旨に従い、地の塩、世の光として生きていくことです。自分を神の手の中の宝として大事に生きましょう。そして、隣人を大事にし、出会いの不思議さを覚えておかげ様の関係を継続していきましょう。良い関係の継続は許しと支え合 いと祈りが必要です。

(結論) クリスチャンにとって生きているとは、肉体だけでなく神との関係において、信仰により愛の絆によって生かされていることをも意味します。御言葉に養われる命がここで注目されます。私たちは御言葉によって愛の人に変えられ、感謝と喜びをもってこの世に出かけていくことができるのです。

2014年6月22日日曜日

拝メッセージ  2014年 6月22日
説教題   「共に働く者」
聖 書   コリント人への第二の手紙 第6章1〜10節
(序論) 新聖歌257番は疲れた時、落ち込んだ時、私がどう生きることを神様が喜んでくださるかを再認識させてくれる信仰告白の賛美です。この歌の折り返しは、「キリストは生きておられる、わがうちにおられる、すべては御手のうちにあり、今日も励もう主に守られ」です。

(本論) おだやかな時だけでなく、時には荒海の中を進む小舟の様な私たちでも、必ず向こう岸に着かせてくださることを信じて、「御手の中にある」わたし。だから喜びと勝利の信仰を持って、「今日も励もう主に守られ」。ここに気力と希望の保障があります。ルカによる福音書19章に、取税人ザアカイと罪人を招くイエス様との愛の会話があります。このことは、今も私たちのために実行されています。パウロもまた主イエス様との出会いの経験者でした。彼は自分の「生き方」を軌道修正したのです。彼みずから否定していたイエス様に捉えられ、イエス様を受け入れ、命がけでイエス様を世界に紹介したのです。自分をささげて主の僕となる生き方でした。そこから始まる行き 様は徹底して「神と共に働く者」(コリント人への第二の手紙6章1節)でした。「ほめられても、そしられても、悪評を受けても、好評を博しても、神に僕として自分をあらわしている」(同8節)

(結論) 神と共に働く者であり、信仰によって兄弟姉妹と呼び合う人たちと互いに共感しあえることを喜びとしましょう。この交わりと絆が不完全な人間の集まりである教会の中から生まれることを信じましょう。今、厳しい現実の只中におかれていても、「にもかかわらず」、神の計画が信仰の目で見えることでキリスト者は輝いていきます。ハレルヤ!ではありませんか。

2014年6月15日日曜日

説教題   「ぬくもりの摂理」
聖 書   申命記 第1章26〜33節
(序論) 神様は私たち一人ひとりのために不思議な計画をお持ちです。そして、私たちをその計画に向かって導かれます。私たちは、自分らしく生きることを見つけるまでは迷いますが、これが自分の生かされている意味ではないかと気づき始めると、精一杯努力することが生きがいとなり、「燃ゆる人生」に変えられます。

(本論) 人は生きておられる神に導かれてこそ真に生きることができるのだということに気付くと、どんな出来事の中でもあきらめず、神と人のために自分の賜物を使いきれる者にされる、と聖書は教えています。自分が望み、求め、計画した道ではないと思える道であっても、神様は「ぬくもりの御手で私たちにタッチして」、あなたに私の共働者になって欲しいと望まれます。人は冷たい運命に流されるのではなく、神の摂理の御手に導かれて生きている、という自覚を信仰を持って受け入れたいものです。全ての出来事を通して神様に応答する者は、今置かれている状況の中で何ができ、何をしなければならないかを神に示していただき、世の光として一隅を照らす神の子どもとし て生きることに務めます。

(結論) 聖書の中の人間模様は、私たちにこれらのことをしっかり理解させてくれます。アブラハムしかり、ヤコブしかり、ヨセフしかり、もちろん、イエス・キリストの生涯は今この時代の真っただ中で私たちの望みと模範です。神のぬくもりの御手が私たちをゆっくり磨き上げてくださいます。福音の語り部となる、これが私たちの望みです。

2014年6月8日日曜日

説教題   「語りかけ給う神」
聖 書   ヘブル人への手紙 第1章1〜3節
(序論) 私たちが信じる神は、私たちに語りかける神です。哲学によって考えられた神ではなく、「わたしはこういう者だ」と発信し続けておられる神です。聖書によって神の声を聞くことができます。そこからくる新しい生き方と価値観により本当の意味で生きる者とされると聖書は語ります。その真理は今の時代に生きる者にも平安と勇気を与えてくれます。

(本論) 私たちが毎週、日曜礼拝の中で告白する使徒信条の最初の言葉は、「われは天地の造り主、全能の父なる神を信ず」です。私たちは、「神様、私の願いと意思とを実現させてください」ではなく、「神様、あなたの御心を悟らせてください」と祈る者にならせていただきましょう。そこから、神の恵の言葉に対して素直にその言葉を受け入れる者に変えられます。御言葉への聴従により神と対話する者に変えられていきます。信仰的であるとは、ひたすら聞くことに徹するとも言えます。そして次に神への応答の行動が始まるのです。

(結論) 神への応答として人が生きる時、マタイによる福音書の最後の言葉が私たちを奮い立たせるでしょう:「それゆえに、あなたがたは行って」(28章19節)「あなたがたに命じておいたいっさいのことを守るように教えよ。見よ、わたしは世の終わりまでいつもあなたがと共にいるのである。」(28章20節)私たちがこの世で、神のみ心に添って生きて行くことは、まさに戦いでありますが、神の約束が私たちを支えてくださいます。御言葉の光を大切にいたしましょう。

2014年6月1日日曜日

説教題   「祈り・感謝・望み」
聖 書   テサロニケ人への第一の手紙 第5章12〜25節
(序論) 聖書の神は、祈る者であれ、どんな状況の中でも感謝できる者であれ、そして希望を持ち続けることのできる者であれ、そのように神によって変えられた者を祝福してくださいます。

(本論) 第一に、祈りのある人生。祈りの人は、自分の都合の良いことだけを求め「神さま、私にお恵みをください」などと祈ることは決しありません。そして、祈りの人は、自分がどんなつまらない者であるかを知っており、いつも大きな支えのみ言葉によって生きています。そのお方の御旨にそう生き方を求め続けます。また、祈りは隣人を気付かされます。
 第二は、どんな時、どんな想定外の出来事にも感謝で締めくくれる自分であるようにすすめます。素晴らしい導きと摂理の中で生かされている私たちです。神様は小さい者を注視されておられます。すべては神様の御旨と信じ受け入れる時、感謝ができる、これがキリスト者です。
 第三は、インマヌエル(神われらと共にいます)の神と共に行く道です。ここに希望があります。「艱難をも喜べる者」と聖書にあります。「それだけではなく、艱難をも喜んでいる。なぜなら、艱難は忍耐を生み出し、忍耐は練達を生み出し、練達は希望を生み出すことを、知っているからである。そして、希望は失望に終わることはない。」(ローマ人への手紙5章:3,4,5節)神の恵みに生きる者は失望に終わらないとの約束です。神様の先手がいつも望みを用意してくださいます

(結論) 私たちはどこにおるべきでしょう、どこに立ち続けるべきでしょう。新聖歌339番を心から賛美しましょう。これが私たちの信仰です。
 「恵みの高き嶺 日々わが目当てに 祈りつ歌いつ われは登り行かん
     光と聖きと 平和に満ちたる 恵みの高き嶺 われに踏ましめよ」
 「険しき坂をも 直ぐなる岩をも 御助けある身は ついに登りきらん
     光と聖きと 平和に満ちたる 恵みの高き嶺 われに踏ましめよ」