2015年3月29日日曜日

礼拝メッセージ  2015年 3月 29日
説教題   「キリストの生き方にならう
聖 書  ルカによる福音書 第22章39〜46節
(序論) キリスト教の一番のシンボルは十字架です。この十字架で神の御子が人間の罪のあがないとして死なれたことを信じることにより「新しい命」として生きる、これが聖書の福音です。キリストは人生の価値観と生きる目標と生き方さえ変える力を持っています。クリスチャンとはイエス様の生き方の一部を参考にするのではありません。自分の全存在として生き直すのです。

(本論) イエス様は、神様の御子として「罪は犯されなかったが、すべてのことについて、わたしたちと同じように試練に会われた」のです(ヘブル人への手紙4章15節)。イエス様の生涯は、試練の中で人間を知り尽くされたと言えます。そして、私たちに「従って来なさい」と呼びかけられます。ベツレヘムの馬小屋での誕生、ナザレでの生活、そして三年の公生涯、それらの営みの中に主のメッセージが聞こえてきます。今日は、受難週の初めの聖日です。「ホサナ」と多くの人々から歓迎された主は、今週の金曜日に十字架上で死なれました。しかし、三日目に復活されたのです。御子は実によみがえられて今も生き給う、この信仰を語り続けているのが教会です。

(結論) オリブ山のゲッセマネの園、いつも祈るために行かれる場所で、苦しみ身悶えし、「この杯をわたしから取りのけてください。しかし、・・・みこころが行なわれますように」と同じ言葉で三度祈り、御旨に委ね切ったイエス様は、こう語ります、「立て。さあ行こう、見よ、わたしを裏切る者が近づいた」(マタイによる福音書26章46節)。この戦闘的な命令、私たちが、日々聞かされる前進への声です。キリストの生き方にならう者の行動が始まるのです。どんな状況の中でも聴従することが勝利する信仰者の決断です。

2015年3月22日日曜日

礼拝メッセージ  2015年 3月 22日
説教題   「ただ主を待ち望む
聖 書  ヨハネによる福音書 第12章12〜15節
(序論) 大原美術館の入口の左側に、ロダンの「説教をするヨハネ」のブロンズ像があります。聖書では洗礼者ヨハネと呼ばれ、イエス様が実に「キリスト」であることの先触れをこの世に宣言した預言者です。ルカによる福音書第2章に出てくるシメオンとアンナも徹底して預言者の言葉を信じ待ち望んでいた老人です。

(本論) 人は自分の務めを神様から頂だいした者だと気づくまで、神の栄光のために生かされていることに喜びと感謝が持てません。聖徒たちの生きた足跡を通して信仰者の望みが伝わってきます。ヨハネについて聖書が語ります:「彼は光ではなく、ただ、光についてあかしをするためにきたのである」(ヨハネによる福音書第1章8節)。ただ主を待ち望むことを通して、御手の中の土くれが形づくられ、火の中を通って器とされることを私たちは学びます。過ぎ越しの祭りの日、主は最高の歓迎を受けてエルサレムへ入城されました。しかし、3日後にはゴルゴダの丘で十字架にかけられました。人間の心の変わりように驚きつつ、そこに自分も群衆の一人として立っていることに気づきたいと思 います。これが罪人の姿です。主はこの姿に涙し、彼らに自分をまかせつつ、全能の神の御旨を実行してくださいました。人の世に遣わされたメシアの姿がここに凝縮されています。

(結論) 神は人間の罪深い行動さえ用いて、神の輝く祝福を見せてくださいます。「見よ、あなたの王はあなたの所に来る。彼は義なる者であって勝利を得、柔和であって、ろばに乗る」(ゼカリヤ書第9章9節)。「ホサナ(神よ、今お救いください)」と熱狂した叫びは、主が栄光を受けられる時、ただ主を待ち望んでいた人々に理解されました。真実な信仰は繰り返し繰り返し御言葉に帰ることによって確かなものになっていきます。

2015年3月15日日曜日

拝メッセージ  2015年 3月 15日
説教題   「笑みをたたえて
聖 書  イザヤ書 第42章1〜4節
(序論) 信仰を持つということは、人生を無風状態で過ごすことではありません。どんな予想外のことが起こっても、神様の愛の中に生かされている自分を持っていることです。あわてず、恐れず、明日を信じて、神は先立って導いて下さることを信じて生きることです。

(本論) 聖書の神は、「人生のあらゆる出来事から幸福な結果を生み出してくださる、ということを私たちは知っている」(ローマ人への手紙第8章28節、柳生直行訳)。この証しのために、世の中で神様の教育を受けているのです。平凡な生活の中で生き生きとした望みをもって歓喜を味わう人々がいます。神の支えの中で生きいている、この自覚が大切です。聖書は、人はなんと小さい者か、しかし、この小さい者が神と人のために何かができるということを気づかせて下さいます。キリストと共に生きることに生きがいを見い出します。人はただ神の憐れみによって生かされているにすぎないのです。神の僕になることによって、空しい生き方を脱して全力を注いで生きたという幸いな足跡を残すのです。神の愛はやさしく、 忍耐強く私たちに注がれています。「また、傷ついた葦を折ることなく、ほのぐらい灯心を消すことなく」(イザヤ書42章3節、マタイによる福音書12章20節)

(結論) 神様は私たちを色々な中を通過させながら、常に喜びを回復させて下さいます。再び息を吹き返すことができ、再び燃え上がらせてくださる希望をもって、神の約束の成就を待ちましょう。弱さと重荷の中を生きいる者にも、神様は望みの時を用意しておられるのです。これが私たちの喜びの原点です。

2015年3月1日日曜日

礼拝メッセージ  2015年 3月 1
説教題   「ささげる祝福
聖 書  ルカによる福音書 第21章1〜4節
(序論) 日曜日の朝、クリスチャンは信仰を同じくする人々と共に教会に集まり、神様を礼拝いたします。教会は日曜日を週の初めの日として過ごします。この日はイエス・キリストを記念し、使徒たちが主の日と定めたからです。神の前に静まることは、自分の生活の中心が聖書の示す神様であることの証だからです。

(本論) 礼拝の内容は教会によって様々ですが、一般には、黙想、賛美、祈り、聖書の言葉を味わう(説教)、信仰告白、御言葉への応答と派遣です。応答の中に献金があります。献金は神様の恵みへの感謝です。献金できるほど神様の恵みに生かされていることに気づき、キリストの栄光のために働く、私たちはこのような生きがいを見出すのです。神様の働きの拡大のために自分が参加させていただく喜びを味わうのです。献金は真心をもって自分を神様に委ねる心の表現です。
 ここにレプタ二つを捧げた貧しいやもめの行為に、イエス様が喜ばれた話があります。レプタは当時の通貨の最少額の銅貨です。イエス様はこの女の心まで見抜かれておられました。「こ の女は持っている生活費全部を捧げた。それは誰よりも価値ある捧げものだ」と称賛されたのです。この女は自分の生活の支えであるイエス様を信じて、主に任せて生きているのです。多くのクリスチャンは、善意から生まれる行為を神様が認めて、私たちを支えてくださることを信じて、大胆な捧げものを実行しています。

(結論) この捧げものは、教会のすべての活動を円滑に進める力になってきました。パウロはマケドニアの教会の献金について、「極度の貧しさにもかかわらず、あふれ出て惜しみなく施す富となったのである。」(コリント人への第二の手紙第8章2節)と紹介しています。イエス様に差し出された5つのパンと2匹の魚で5千人以上の人々を満腹させた話も、捧げものの報いを物語っています。今朝、「恐れるな小さき群れ」と呼びかけてくださる主を見上げ、私たちは恵みの奉仕に目覚めさせていただきましょう。