2019年7月22日月曜日

礼拝メッセージ  2019年 7月21日
説教題 「彼はいま、祈っている」
  書  使徒行伝 第9章10~15節
今日の使徒行伝第9章は、教会を迫害していたサウロに主から声をかけられ、主の弟子と選ばれた記録が記されています。(19節)
 そして復活の主が、ダマスコにおいてアナニヤに語られたお言葉が10節以降です。「彼はいま、祈っている」なんと厳粛な言葉でしょうか。主はすべてをご存じです。いま主は、迫害者サウロの中に伝道者パウロを、見られたのでした。それは、パウロが主のみ前に、心砕かれて祈る姿を見られたのです。
人間には、人々は誰も、想像も出来ないことでした。しかし、主は祈るパウロをご存じでした。
「彼はいま、祈っている」、これは、初代教会へ、パウロを推薦された主キリストのお言葉です。
 第一に、主に救われるということは、主の器とされることである、という事実です。主はサウロをご自身のために用いようとして救われたのです。聖書の示す人間の栄光は、主の信任を受け主のみ心を行うことです。芸術や学問、教育や事業、病人や家族に生涯を捧げることを尊いとするのが人間です。であるならば、神様に生涯を捧げる光栄がキリスト者は判っていい筈です。
 第二に、主に使命に生きる人生は、迫害に直面するということです。サウロは主のために働き出すとすぐ迫害され、教会の人々からも、すんなりとは受け入れてもらえませんでした。加害者サウロが今度は被害者の側に立つようになりました。主キリストを憎んでいた者が、主キリスト様と同じ立場に立ったのです。ルカは、このことを「教会の前進」と言いました。教会の前進とは、主のしもべが生まれることです。
 次に使徒行伝第12章4-5節には、み使いのペテロ救出とヘロデ王が神に栄光を帰さなかったために虫にまれて死んだことが記されています。「教会では熱心な祈りがささげられた」と、初代教会は「祈祷と宣教」の歴史です。一夜明ければヘロデに殺されるペテロのために、教会は夜を徹して男も女も老いも若きも心を一つにしてとりなしの祈りをしました。ペテロが神の栄光を表して殉教出来るように、と。 しかし、主は人々の祈りにペテロの救出という奇跡をもって答えられました。主は私たちの願いをはるかに超える答えをくださいます。主に祈る時、すべてを主に委ね、大きなことを期待して祈りましょう。

2019年7月14日日曜日

礼拝メッセージ  2019年 7月14日
説教題 「最善と最悪」
聖 書 ローマ人への手紙 第8章28節
座右の銘とする人も多い「人間万事塞翁が馬」という格言があります。「塞」とは「とりで」で「翁」とは「老人」のことですから「塞翁」というのは、国境の砦の近くに住んでいた老人ということになります。
 ところで、この老人の馬がある時逃げ出し国境を越えて胡(えびす)の方へ行ってしまいました。近所の人が気の毒に思って見舞いに行きますと、塞翁は平気な顔で「ありがとうございます。しかし、これがどんな幸せを呼ぶかわかりません」とすましていたのでした。案の定、それから数か月たつと、逃げた馬が立派な胡の馬を引き連れて帰って来ました。近所の人々が、今度は喜びに行きました。すると塞翁は、別に喜んでいる様子もありません。そして、「なあに、これがまた、どんな不幸の種になるとも限りませんからね」と言うのです。
 ところが、やはり確かにその通りで、老人の息子が馬好きで、それに良い馬が来たと言うので喜んでそれを乗り回しているうちに、落馬して足を折り、生まれつきのような足が不自由な者になってしまったのです。さあ、今度はさすがの老人も悲観しているに違いないと近所の人々が見舞いに行きますと、老人は相も変わらず、別に苦にした様子がありません。そして、「今度のことがまた、どんな幸いになるかもわかりませんよ…」と言うのです。不思議なことに、それから一年ほどたった時です。胡の軍勢が要塞を超えて攻め込んで来ました。その時、要塞の付近の若者たちは一人残らず戦争に駆り出されては、ほとんどが戦死してしまいました。しかし、その老人の息子だけは、足が不自由であったために召集を免れ、親子ともども生き残ったというのです。
 これが「人間万事塞翁が馬」の話ですが、およそ人生はこういったものとの格言です。だから福が来たからと「有頂天」にならず、また災いが来たからと
悲しむのはよくないとの教えです。
 しかし、聖書の神様の教えは、全く違います。使徒パウロは「神は、神を愛する者たち、すなわち、ご計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を益となるようにして下さる」と確信をもって言います。「神にある人間万事これみな益」だと聖書は語ります。不幸と思われる病気も事故も、いえ最悪と思われる死でさえキリスト者には益となるのです。

2019年7月9日火曜日

礼拝メッセージ  2019年 7月7日
説教題 「罪の赦しと永遠の命」
聖 書 箴言 第6章6~8節
今日のみ言葉は、あの有名なイソップ物語の「アリとキリギリス」の童話を思い起こします。
 このイソップ物語は、自然科学的には間違いもあると言われますが、「アリのところへ行って学びなさい」というのが、今日の箴言のみ言葉です。アリは勤勉なものの代表です。アリがどんなに自らのために備えをするか、よく見ていると分かります。アリには、働くために命令したり、取り締まったり、監視したりする者は別段いませんが、真夏の暑さをいとわず、忙しく食物を集め、冬の必要に備えるため、注意深く運んでは蓄えるのです。
 それは、私たちに勤勉を教えているだけではありません。それは、私たちに、未来のための備えをすべきことをも、教えるのです。とは言っても、単に老後の備えを、ということではありません。もちろん勤勉に働いて老後の備えをすることも大切です。しかし、それよりももっと大切なことは、来世のための備えをせよ、と聖書は教えています。
 死は思いがけない時にやって来ます。聖書のアリの教えをもって知恵を得ましょう。人生の夏のうちに、悔い改めて救い主キリストを受け入れ信じ、罪の赦しと永遠の生命を自分のものとしておくこと。そうすれば、冬のような死がやって来ても、キリギリスのように泣くことはありません。
 「死に至るまで忠実であれ。そうすれば、あなたに命の冠を授けよう。耳のある者は、霊が諸教会に告げることを聞くがよい。」「わたしは、あなたの行いを知っている。見よ、わたしは、あなたの前に門を開いておいた。だれもこれを閉めることは出来ない。あなたは力が弱かったが、わたしの言葉を守り、わたしの名を知らないとは言わなかった。」(ヨハネの黙示録2章10節、3章8節)