2018年2月25日日曜日

礼拝メッセージ  2018年 2月 25日 
説教題  受難とペテロ」
聖  書  ヨハネによる福音書 第1章40〜42節
(序論)ペテロは、12弟子の中の最高位の弟子、聖書の中に弟子の名が挙げられる場合は、いつも筆頭でヤコブとヨハネと共に、イエス様の最も親しい存在にある者でした。
(本論)ペテロは、生まれつき性急な性格、衝動で行動する性格を持っていました。例えば、一瞬、水の上を自信満々に歩きます。しかし、三秒後には沈みながら叫び、また、必要とあらば慣れない剣を抜いてローマ軍勢と戦う勇気を示します。しかし、同じ夜、裁判の庭で一人の女性の言葉で卑怯にも主を否む、という具合です。
 生まれつきのままのペテロは、自分の欠点を知らない人でした。そして最大の欠点は、自信過剰でした。最もよい例は、イエス様が十字架につけられる前夜、「今晩、弟子たちが皆、私を見捨てる」と言われた時、彼は「たとえ、みんなの者がつまづいても、私は決してつまづきません」と言いました。しかしイエス様は、ペテロの性格をよく知っておられ、「ペテロ、あなたは今夜、鶏が二度鳴く前に、三度私を知らないと言う」と言われました。自分を信じきっていたペテロは「あなたを知らないとは、死んでも決して申しません」と断言しました。その通りになり、三度目には漁師の時使っていた激しい誓いの言葉で、否定してしまったのでした。
 彼の良い所は、自分の罪を悲しみ心から悔い改めるところです。それゆえに、群れの指導者として任命されました。そのうえ主は、聖霊降臨によってペテロ(不動の岩)と名付けられました。
(結論)ペテロは、その後、相次ぐローマの迫害の中にも、不動の指導者として聖徒を励まし続けました。私たちも、ペテロはのような弱さがあり性格において欠点があり罪を犯すものです。しかし、衝動の子シモンを愛し貫き、不動の岩に変えて下さった主は、今日も心から罪を悲しみ悔い改める者を不動の岩と変えてくださいます。

2018年2月18日日曜日

礼拝メッセージ  2018年 2月 18日 
説教題  「絶望から希望へ」
聖  書  マタイによる福音書 第14章22〜27節
(序論)今日のみ言葉の中で「しいて」というこの短い言葉に心をとめてみます。「しいて」とは「無理やりに」と言うことです。弟子たちの意思に反してイエス様は、弟子たちを無理に舟に乗せられたのですが、これには遠大な目的がありました。
(本論)五つのパンと二匹の魚との奇跡の出来事を見た群衆は、イエス様をユダヤ人の王にしようと押しかけて来ました。それを知ったイエス様は、群衆を解散させ、ひとり静かに祈るために山に退かれました。弟子たちは、イエス様と共に山に行きたかったのですが、イエス様はそれをお許しにならず、無理やり弟子たちを舟に乗せ、先に向こう岸におやりになったのです。ところが陸から何キロも離れた時に、ガリラヤ特有の突風が吹いて来ました。強い逆風だったので漁師だった弟子たちも、どうすることが出来ず波にのまれ沈みそうになりました。
「だから、あれほどイエス様といっしょ山に祈りに行きたいと言ったのに」「イエス様が神様だったら、どうしてこの嵐が前もっておわかりにならなかったのだ」「ああもうだめだ、イエス様は山の上、もうどうにもならない」「やっぱり、イエス様に見捨てられたのだ。」
 どの弟子たちの顔にも、疲労と絶望の姿に陥りました。しかし、イエス様はすべてを前もってご存知の上で、弟子たちを「しいて」舟に乗りこませられたのでした。それは、暗黒の海のただ中で、イエス様こそ本当の救い主であること弟子たちに学ばせる遠大な目的があったのです。
(結論)これからの生涯の中で、人生の逆風に悩まされた時、神様の愛が分からなくなって愚痴をこぼしたり、絶望した時、思い出してください。神様は、あなたの人生の永遠の先きまでも見越して「しいて」舟にお乗せになることがあります、その時、信頼して身を主に委ね安心し進みましょう。

2018年2月11日日曜日

礼拝メッセージ  2018年 2月 11日 
説教題  「人生の空しさの解決」
聖  書  伝道の書 第1章1〜7節
(序論)伝道者と訳されたヘブル語は、コーヘレスで、集会をつかさどる説教者を意味します。このコーヘレスは、1節からソロモンのようですが、この書はもっと後の時代に編纂されソロモンに託して人生の本当の姿を示そうとしたものだと考える人もいます。この書を開く鍵となる言葉は「空」「日の下」で38回と29回この書に記されています。
(本論)伝道の書は虚無的で、聖書というよりは諦めを説く仏教の本のようです。また快楽主義的バビロンの要素、さらに古代エジプト文学思想的系譜から、なぜこんな書物が聖書に加えられたのかと、いぶかる人々もいます。しかし、この書に何度も出てくる「日の下」という言葉がその答えを与えてくれます。この書は「日の下」つまり神様から離れているこの世は、結局はむなしいと言うことを、はっきり示し1213節「事の帰する所は、すべて言われた。すなわち、神を恐れ、その命令を守れ。これはすべての人の本分である」の結論に至るのです。神様無き世界の虚無の現実をしっかり見すえることが、信仰を現実無視の浮ついた道化に陥らせず、現実にしっかり根を下した深みのある信仰にする道です。
 豊臣秀吉は、その臨終にあたって「露とおき、露と消えぬる我が身かな、浪華(なにわ)のことは夢のまた夢」と詠みました。
 ルターは主を信じたとき「全世界と全聖書が、わが前に開けた」と告白しました。天地万物を支配しておられる主を知らない時は、繰り返しの虚しい日々と思えることも、主を知ると精妙な神様のご支配の法則が分かり
日々の生き方、生きる使命が分かり神賛美の言葉に変わります。
(結論)いま人生の空しさを感じている人、多くの物・財を持っても風を食らう思いの人、それはあなたが神様に背を向けているからです。どうかあなたを活かす救い主を聖書の中に求めてください。